第三章:潮風のスープ
梅雨が明け、日ノ浦の町には本格的な夏が到来していた。
ギラギラと照りつける太陽と、どこまでも青い海。観光客が賑わいを見せる季節だが、須之内クリニックの診察室には、その夏の眩しさから取り残されたような、一人の若い女性が座っていた。
「……あの、特にどこが痛いというわけではないんです。ただ、ずっと体が重くて、微熱が続いていて。東京にいた頃の主治医には、環境を変えれば自律神経も落ち着くと言われたのですが」
彼女の名前は、小鳥遊 渚さん(26)。
数ヶ月前、都会の満員電車と深夜残業の日々に心が折れ、Webデザイナーの仕事をリモートワークに切り替えて、この海沿いの町へ移住してきたばかりだった。
桃はカルテを見つめる。
渚の顔色は白く、どこか透明で、今にも消えてしまいそうな儚さがある。
血圧や血液検査の数値に、明確な異常はない。けれど、彼女の「心の体温」が著しく下がっていることは、その強張った表情からすぐに察せられた。
「渚さん、日ノ浦の生活はどうですか? 海が近くて、綺麗な町でしょう」
桃が優しく問いかけると、渚は小さく、力なく微笑んだ。
「はい、とても綺麗です。でも……誰も私を知らない場所で、一人で部屋にこもってパソコンに向かっていると、東京にいた時よりも、ずっと遠い世界に一人きりで放り出されたような気持ちになってしまって。町の皆さんは温かいけれど、その輪に入るのが怖くて、スーパーに行くのすら億劫なんです」
都会の喧騒から逃れてきたはずなのに、待っていたのは「地方の孤独」だった。
誰もが顔見知りの小さな町だからこそ、どこにも属していない自分という存在が、余計に浮き彫りになってしまう。
桃は、渚の細い指先をそっと包み込んだ。氷のように冷たかった。
「焦らなくていいですよ。体も心も、ゆっくり治していきましょう。新しい土地に馴染むのは、誰だって時間がかかるものです。今日は、お薬の代わりに、私から一つ『処方箋』を出してもいいですか?」
渚が不思議そうに目を丸くする。
桃は受付に向かって、「源さーん、ちょっと診察室に入ってもらえますか?」と声をかけた。
待合室で腰痛の湿布を待っていた漁師、源さんが「なんだい、すもも先生」と入ってくる。
「源さん、こちら最近東京から引っ越してきた渚さん。海の見えるアパートに住んでるんだけど、夏バテしちゃったみたいで」
「ほう、東京から! 綺麗なお嬢ちゃんだな」
源さんはガハハと笑い、渚は恐縮して小さくなった。
「源さん、今日、大漁だったんでしょう? 渚さんに、あの『漁師の特効薬』の作り方、教えてあげてくれない?」
その日の夕方。
桃は往診の帰りに、渚のアパートの前に車を止めた。
手には、源さんからお裾分けしてもらった新鮮な真鯛の切り身と、ネギが入ったビニール袋。そして、いつもの「あんずジャム」の小瓶がある。
コンコン、とドアを叩くと、部屋着姿の渚が驚いた顔で出てきた。
「先生……どうして?」
「はい、これ。源さんからの処方箋。日ノ浦の漁師が風邪の引き始めに飲む『鯛の骨スープ』の材料です。渚さん、キッチン借りてもいい?」
桃は強引に上がり込み、小さなキッチンのコンロに向かった。
実を言えば、桃も東京の大学病院で挫折しかけ、この町に戻ってきたばかりの頃は、同じような孤独を抱えていたのだ。その時、祖母の梅が作ってくれたのが、このスープだった。
鯛のアラと身を焼き、ネギと一緒にじっくり煮出す。診察室のような消毒液の匂いではなく、香ばしい磯の香りがワンルームの部屋に満ちていく。
「はい、出来上がり。温かいうちに飲んで」
桃が差し出したお椀を、渚は両手で包み込んだ。
恐る恐るスープを口に含む。その瞬間、渚の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「……あったかい。おいしいです……」
「日ノ浦の海はね、見るだけじゃなくて、こうして体に入れると、もっと元気をくれるんですよ」
桃は渚の隣に座り、デザート代わりに持ってきたあんずジャム入りヨーグルトを差し出した。
「東京にいた頃の渚さんは、きっと一生懸命、誰かの為に走り続けていたんでしょうね。ここでは、誰も渚さんを急かしません。波の音を聴きながら、ただ息をしているだけで、100点満点なんですから」
渚はスープの湯気の向こうで、声を上げて泣いた。
都会で張り詰めていた緊張の糸が、潮風の温かいスープによって、ようやく解き放たれた瞬間だった。
数週間後。
須之内クリニックの待合室に、少し日焼けした渚の姿があった。
驚くことに、彼女は受付のガラス越しに、隣に座る源さんと楽しそうに話している。
「源さん、この前教えてもらったスープ、今度は自分で作ってみました!」
「おお、そうか! 今度はもっと美味い魚を回してやるからな」
診察室からその様子を見ていた桃は、そっと胸をなでおろした。
渚の顔色は、もうあの日のように透明ではなかった。日ノ浦の太陽と潮風が、彼女の肌に健康的な赤みを灯していた。
「渚さん、診察室へどうぞ」
桃が呼ぶと、渚は軽やかな足取りで入ってきた。
「すもも先生、ありがとうございました。私、この町で、もう一度ゆっくり歩いてみようと思います」
渚の笑顔は、窓の外に広がる夏の海のように、キラキラと輝いていた。
一人ひとりの心の奥にある孤独を、すもも先生は今日も、温かいスープとヨーグルト、そして少しのユーモアで、優しく照らしていくのだった。




