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すももハートフルカルテ  作者:


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第二章:雨上がりのステップ

カレンダーが6月に変わり、日ノ浦の町にはしっとりとした梅雨の雨が降り続いていた。

低気圧のせいか、クリニックの待合室には神経痛を訴えるお年寄りが目立つ。そんな中、受付のガラス越しに、ひときわ異質な空気を纏った親子が座っていた。

うつむいたまま、濡れた傘の先で床をせわしなく突いている少年。その隣で、焦燥感を隠せない母親。

中学2年生の森下蓮れんくん(14)と、その母親だった。

「すもも先生、もう今週に入って3回目なんです、朝起きるとお腹が痛いって言い出すの」

診察室に入るなり、母親はまくしたてた。

「学校に行こうとするとダメみたいで……。でも、お昼前になるとケロッと治るんです。これって、その、サボりなんじゃないかって……」

「お母さん、焦らなくていいですよ」

桃は母親をなだめるように微笑み、それからパイプ椅子に浅く腰掛けている蓮に視線を移した。

蓮は頑なに桃と目を合わせようとせず、制服のズボンの膝をぎゅっと握りしめている。

触診をしても、お腹に異常な腫れや張りはない。先週とった血液検査のデータも、いたって健康そのものだった。

医学的なアプローチだけで言えば、いわゆる「起立性調節障害」の疑いか、あるいは母親の言う通り精神的なもの――いわゆる五月病の延長にある不登校の兆候。

「異常なし、様子見」で片付けるのは簡単だった。

けれど、桃の目は、蓮の制服の袖口からチラリと覗く、白くて細い手首に留まった。

親指の付け根のあたりが、不自然に赤くなっている。

「蓮くん、ちょっとお腹の音、聴かせてね」

桃は聴診器を当てながら、母親には聞こえないほどの小さな声で、蓮にだけ語りかけた。

「……蓮くん。ここ、須之内クリニックの裏手にはね、誰も来ない小さな紫陽花畑があるんだ。もしよかったら、次の日曜日、お腹が痛くなったらお母さんには内緒で、裏口からおいで。先生、美味しいヨーグルト用意して待ってるから」

蓮の身体が、一瞬びくりと強張った。

しかし、彼は小さく、本当に小さく、コクリと頷いた。

日曜日。クリニックは休診日だが、桃は書類整理のために診察室にいた。

外はあいにくの雨。

トントン、と裏口の勝手口が控えめに叩かれたのは、午前10時を回った頃だった。

ドアを開けると、フードを深く被った蓮が、ずぶ濡れで立っていた。

「いらっしゃい、蓮くん。よく来たね」

桃は蓮を中へ招き入れ、バスタオルを渡した。

診察室のデスクには、あらかじめ用意しておいたプレーンヨーグルトと、実家のあんずジャムの瓶が置いてある。

「はい、これ。先生の特効薬」

桃はジャムをたっぷりのせたヨーグルトを蓮の前に差し出した。

蓮は戸惑いながらもスプーンを動かし、ひと口、口に運ぶ。甘酸っぱさが広がったのか、緊張で強張っていた蓮の頬が、ほんの少しだけ緩んだ。

「……美味しい」

「でしょ? おばあちゃん直伝の味なんだ」

桃は自分の分のヨーグルトを食べながら、あえて学校の話はせず、窓の外の雨を眺めた。

「蓮くん、手、見せて」

桃の言葉に、蓮はビクッとしてスプーンを止めた。

「お医者さんだからね、何でもお見通し。診察の時、親指の付け根が赤くなってたでしょ。それ、ゲームのコントローラーの握りすぎ」

蓮はハッとして、自分の手を隠した。

「怒りに来たんじゃないよ。ただ、そんなに必死にゲームの世界に逃げ込まなきゃいけないくらい、現実が辛いんだなって、思っただけ」

桃の優しい声に、蓮の目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。

ヨーグルトの器に涙が落ちるのも構わず、蓮は嗚咽を漏らし始めた。

「……僕、もう、ついていけないんだ」

蓮が途切れ途切れに話してくれた理由は、大人の目から見れば「よくあること」かもしれない。

中学に入って急に難しくなった勉強。周囲の友達がどんどん塾に行き、将来の話をし始める中での焦り。そして、「良い子でいなきゃいけない」という母親からの無言のプレッシャー。

「朝、カバンを持つと、本当にお腹が痛くなるんだ。嘘じゃないんだ。でも、お母さんはサボりだって……」

「嘘じゃないよ」

桃は立ち上がり、蓮の震える肩をそっと包み込んだ。

「心がね、『これ以上頑張ったら壊れちゃうよ』って、体を使ってSOSを出してくれたの。だから、蓮くんのお腹の痛みは、サボりなんかじゃない。心が一生懸命、蓮くんを守ろうとした証拠だよ」

蓮の肩の力が、ゆっくりと抜けていく。

「焦らなくていいですよ。体も心も、ゆっくり治していきましょう。学校なんて、ちょっとくらい休んだって、長い人生のほんの数ページだよ。すもも先生が、お母さんには上手にお話ししておくからね」

その言葉に、蓮は何度も何度も、頷いた。

翌日、桃は森下さんの母親を一人でクリニックに呼んだ。

最初は「甘やかすわけにはいかない」と頑なだった母親だったが、桃が蓮の抱えていた孤独と、体が本当の悲鳴を上げていることを丁寧に説明すると、母親もまた、涙を流して「私が追い詰めていたんですね」と自分を責めた。

「お母さんも、蓮くんを想うからこそ焦ってしまったんですよね。これからは二人三脚で、少しずつ進みましょう」

それから数週間。

蓮くんは毎日学校へ行くわけではない。けれど、週に何度か、午後から保健室に登校できるようになった。

ある晴れた日の午後。

クリニックの受付に、一通の手紙と、小さな鉢植えが置かれていた。

鉢植えには、青い紫陽花がきれいに咲いている。

手紙には、まだ少し拙い字でこう書かれていた。

『すもも先生へ。

お腹の痛みは、たまにあるけど、前より怖くなくなりました。

ゲームじゃなくて、今度は本物の紫陽花の絵を描いてみました。

また、ヨーグルト食べに行ってもいいですか?

蓮より』

桃は手紙を胸に抱きしめ、窓の外を見た。

雨上がりの日ノ浦の空には、大きな虹がかかっていた。



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