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すももハートフルカルテ  作者:


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第一章:波の音とあんずジャム

潮の香りと、どこか甘い消毒液の匂い。それが、須之内桃――通称「すもも先生」が受け継いだ、須之内クリニックの匂いだった。

「はい、大きく息を吸って……吐いて。うん、綺麗ですね」

桃は聴診器を外し、目の前の老人に微笑みかけた。日ノ浦の町で生まれ育った漁師の源さん(72)だ。

今日はただの定期検診のはずだったが、カルテに目を落とす桃の手は止まっていた。源さんの血圧が、ここ数週間あからさまに高い。

「源さん、最近ちゃんと眠れてます? お薬は飲めてるみたいだけど」

「寝とるよ、ぐっすりさ。海の男を舐めちゃいけねえ」

源さんはガハハと笑うが、その目の奥にうっすらと漂う影を、桃は見逃さなかった。

手首の脈を測るふりをしながら、桃はそっと耳を傾ける。かつて祖母のうめが、この診察室でいつもやっていたように。

「……何か、心配事でもありますか? 焦らなくていいですよ。体も心も、ゆっくり治していきましょう」

桃が祖母譲りの口癖を口にした瞬間、源さんの分厚い手がかすかに震えた。

「……実はよ、すもも先生。孫の健太が、東京の高校に行くって言い出してな。この町を捨てる気かって、怒鳴っちまったんだ。それから口をきいてくれねえ」

ぽつり、ぽつりと源さんは話し始めた。

健太が幼い頃に海で溺れかけた話、それを自分が助けた時の誇らしさ、本当は寂しくてたまらないこと。

桃はただ、「うん、うん」と頷きながら話を聴いた。源さんの言葉の裏にある、不器用な愛情と孤独が、桃の胸にじんわりと染み込んでいく。

「……先生、長くなっちまってすまねえな」

「いいえ。聴かせてくれてありがとうございます」

気づけば、予定の診療時間はとうに過ぎていた。待合室からは、看護師の「すもも先生、また時間押してますよ!」という無言の視線が受付のガラス越しに突き刺さってくる。

「……わかってはいるんだけどな」

源さんを送り出した後、桃は診察室の椅子に深く腰掛け、小さくため息をついた。

大病院のように効率よく、機械的に患者を回せば、こんな風に時間は押さない。

「心まで救う」なんて大それた理想を掲げても、自分はただの30歳の新米院長だ。目の前の患者の家庭環境を少し変えることすら、医師の特権ではできない。

「おばあちゃん。私、ちゃんとやれてるかな」

夕暮れ時。往診を終え、誰もいなくなった診察室のデスクで、桃は小さなプラスチック容器を取り出した。

プレーンヨーグルトの上に、実家から送られてきた自家製のあんずジャムをぽつんと落とす。

スプーンでひと口すくうと、甘酸っぱくて、ほんのりほろ苦い味が口いっぱいに広がった。

幼い頃、熱を出して泣く桃に、祖母の梅がいつも作ってくれた思い出の味だ。

『桃、お医者さんはね、病気を治すだけじゃ足らんのよ。人が病気になる時は、心が弱っとる時。その弱さにそっと寄り添ってあげるのが、町のお医者さんの役目なんだから』

祖母の穏やかな笑顔が、脳裏に鮮やかに蘇る。

翌週。

再びやってきた源さんの血圧は、驚くほど正常値に戻っていた。

「すもも先生、ありがとな」

源さんは少し照れくさそうに、小さな紙袋を桃に差し出した。中には、丸々と太った立派なすももがいくつか入っている。

「健太と、ちゃんと話したよ。東京、頑張ってこいって言えた。先生が話を聴いてくれたおかげで、胸のつかえが取れたんだな、きっと」

源さんの笑顔は、日ノ浦の穏やかな海のように晴れやかだった。

源さんが去った診察室で、桃はもらったすももをひとつ、手のひらで転がした。

ほんの少しだけ、祖母の背中に近づけたような気がする。

「よし、午後も頑張ろう」

白衣のポケットに両手を突っ込み、すもも先生は、次の患者を呼ぶために待合室へと向かった。

海沿いの小さなクリニックには、今日も誰かの小さな痛みを抱えた足音が近づいてくる。


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