最終章:日ノ浦の奇跡
冬が近づく日ノ浦の町は、澄んだ空気に包まれていた。
須之内クリニックの診察室では、桃と氷室が、それぞれのやり方で息の合った診療を続けていた。
氷室がスマートに検査データをまとめ、桃がその後に患者の世間話を聴く。
「すもも先生、また時間が押しますよ」と苦笑いする氷室の顔には、かつての冷徹さはなく、どこかこの町の穏やかな空気に馴染んだ表情があった。お互いの医療を認め合った二人は、今やこのクリニックの最強の「両輪」となっていた。
そんなある日、クリニックに嬉しい知らせが届いた。
秋に急性心不全で倒れたトミさんが、無事に退院し、この町に戻ってきたのだ。
「すもも先生、氷室先生、本当にありがとうございました!」
診察室にやってきたトミさんは、見違えるほど元気な姿で、弟の源さんと一緒に深々と頭を下げた。
「あの日、搬送される車の中で、すもも先生が手を握ってくれた温かさがずうっと残っとってな。不思議と、ちっとも怖くなかった。あの温もりがあったから、苦しいリハビリも頑張れたんだよ」
トミさんの言葉に、桃の胸の奥がじわっと熱くなる。
隣を見れば、氷室が少し照れくさそうに、けれど誇らしげに鼻を鳴らしていた。
「あ、そうだ。先生方に、町のみんなからお礼があるんだ。ちょっと外へ出てみておくれよ」
源さんが悪戯っぽく笑いながら、二人を促した。
白衣のまま外へ出た桃と氷室は、思わず目を見張った。
クリニックの前には、源さんやトミさんだけでなく、保健室登校ができるようになった蓮くんと彼のお母さん、町の輪に入れるようになった渚さん、そして日頃から通ってくれる町の人々が、大勢集まっていたのだ。
「すもも先生、いつもお話を聴いてくれてありがとう!」
「須之内クリニック、万歳!」
歓声とともに、蓮くんと渚さんが、大きな寄せ書きと、一つの立派な木箱を桃に手渡した。
「先生、これ、町のみんなで集めたんです」
木箱を開けると、中には、日ノ浦の特産である「すもも」と「あんず」の木から作られた、手作りの綺麗な木製のペン立てと、たくさんの自家製あんずジャムの瓶が詰まっていた。
「おばあちゃんの梅先生が亡くなった時、この町は灯りが消えたみたいに寂しかった。でも、すもも先生が戻ってきてくれて、またこの場所に温かい灯りがともったんだ。ここは、私たちの『心のお医者さん』だからね」
手渡された寄せ書きには、町の人々の一文字一文字、温かい感謝の言葉が並んでいる。
見上げれば、冬の始まりを告げる木枯らしが吹いているはずなのに、桃の身体はぽかぽかと温かかった。
かつて祖母が愛し、守り抜いたこの町の人々。今、その人々が、未熟な自分を「町のお医者さん」として育ててくれたのだ。
「……ありがとうございます。皆さんのおかげで、私はここで医者をやれています」
桃の目から、堪えきれずに涙がポロポロとこぼれ落ちた。
それを見た源さんが「おいおい、すもも先生が泣いちゃったら、誰が俺たちの心を治すんだい!」と笑い、大きな拍手が沸き起こった。
その日の夕暮れ。
賑やかな声が去り、静まり返った診察室で、桃と氷室は、もらったあんずジャムをヨーグルトにのせて食べていた。
「……甘酸っぱいな。でも、悪くない」
氷室はスプーンを口に運びながら、ぼそりと呟いた。
「でしょ? 祖母との思い出の、世界で一番効くお薬なの」
桃は嬉しそうに微笑み、窓の外に広がる日ノ浦の海を見つめた。
夕日に照らされた海は、オレンジ色に輝き、穏やかな波の音を響かせている。
これからも、この町で生きていく。
病気だけでなく、人が抱える小さな痛み、孤独、そして日々の喜びに、この聴診器を当て続けていく。
「焦らなくていいですよ。体も心も、ゆっくり治していきましょう」
心の奥で、大好きな祖母の笑顔にそう報告しながら。
すもも先生の優しく、温かい診療は、これからもこの海沿いの町で、人々の心に寄り添い、照らし続けていく。
完




