第3話:異世界の朝
鳥の声で目が覚めた。
聞き慣れない囀り。高く、澄んでいて、どこか金属的な響きがある。
俺は硬いベッドの上で天井を見つめていた。木目が複雑な模様を描いている。やっぱり異世界なんだな、と改めて思う。
窓から差し込む朝日が、部屋を淡い橙色に染めていた。
体を起こす。筋肉痛はない。召喚の影響はもうないらしい。ただ、空腹だけがしっかりと主張していた。
宿屋に着いたのは昨夜遅く。その前に市場で安い服を見繕った。この世界で日本の私服は目立ちすぎる——というか、怪しまれる。銀貨二枚で麻のシャツとズボン、それから丈夫そうな外套を手に入れた。
召喚時に着ていた服は、その場で買い取ってもらった。商人は「珍しい織り方だ」と興味深そうに眺め、銀貨十枚で引き取ってくれた。異世界では価値があるらしい。
残りで宿代を払い、この部屋に転がり込んだ。安宿らしく、設備は最低限だが、屋根があって寝床があるだけでありがたい。
窓を開けると、朝の空気が流れ込んできた。冷たくて、どこか甘い匂いがする。焼きたてのパンか、何かの花か。遠くで馬車の音、人々の話し声。異世界の朝が動き始めていた。
◇ ◇ ◇
一階に降りると、宿の食堂には既に何人かの客がいた。
冒険者らしい男が黙々とスープをすすっている。商人風の夫婦が地図を広げて相談している。誰もこちらを見ない。ただの客だと思われているのだろう。それが逆にありがたかった。
「あら、お目覚めですか」
カウンターの奥から声がかかった。五十代くらいの女性。宿の女将だろう。昨夜は暗くてよく見えなかったが、丸い顔に人の良さそうな笑みを浮かべている。
「朝食はいかがします? 銅貨五枚でパンとスープ、卵焼きがつきますよ」
「頼む」
席について待っていると、すぐに料理が運ばれてきた。
黒っぽいパンに、野菜のスープ、それから卵焼き。見た目は素朴だが、空腹には最高のご馳走だ。パンをちぎって口に入れる。硬い。でもかめばかむほど味が出る。スープはあっさりしているが、塩加減がちょうどいい。
「お兄さん、この街は初めてかい?」
女将が話しかけてきた。客商売の愛想かもしれないし、単なる好奇心かもしれない。どちらでもいい。情報を集めるチャンスだ。
「ああ、昨日着いたばかりで。右も左も分からない」
「そうかい。じゃあ、教えてあげるよ」
女将は慣れた様子で街の説明を始めた。
この街はシンギュラと呼ばれる王都の城下町。神殿区画、商業区画、冒険者ギルド、学術区画。それぞれのエリアがどこにあるか、何があるか。どこで買い物ができて、どこに行けば仕事が見つかるか。
俺は相槌を打ちながら、頭の中でAIにも情報を流し込んでいた。
『シンギュラ、王都の城下町、神殿区画、商業区画、冒険者ギルド、学術区画……情報を記録しました』
「もし仕事を探すなら、冒険者ギルドがいいよ。あそこなら身元照会もゆるいし、実力さえあれば誰でも登録できる」
「冒険者か……」
戦えない俺に向いているかどうか分からない。でも、選択肢として覚えておこう。
「あと、本が好きなら学術区画に大きな図書館があるよ。一般開放もしてるから、誰でも入れる」
図書館。その単語に、俺は反応した。
本があるということは、この世界の知識が集まっているということだ。AIに情報を入れるなら、そこが最適かもしれない。
「ありがとう。助かった」
「いいってことよ。困ったことがあったら、いつでも聞きな」
女将は笑顔で去っていった。いい人だ。こういう出会いがあると、異世界でもなんとかやっていける気がする。
◇ ◇ ◇
朝食を終え、俺は街へ出た。
昨夜は暗くてよく見えなかったが、日中の街は活気に溢れていた。石畳の大通りを人々が行き交い、露店が並び、馬車が行き来している。呼び込みの声、子供の笑い声、どこかで鍛冶屋が金属を叩く音。
雑踏の匂い。汗と埃と、何かの香辛料。前世の新宿とは違うけど、どこか似ている部分もある。人が集まる場所には、同じような空気が生まれるのかもしれない。
俺は歩きながら、目についた情報をAIに伝えていった。
通貨の話。銅貨十枚で銀貨一枚、銀貨十枚で金貨一枚。物価の話。パンが銅貨二枚、宿が銀貨一枚。
『通貨・物価情報を記録しました。銀貨三十枚は概ね二週間程度の生活費に相当すると推測されます』
商業区画を抜け、冒険者ギルドの前を通過した。
石造りの大きな建物で、入り口には武装した男女が出入りしている。革鎧に剣を佩いた者、杖を持ったローブ姿の者。みんな体格がよく、目つきが鋭い。俺とは住む世界が違う連中だ。
今日はまだ中に入る気になれなかった。もう少し情報を集めてからにしよう。
さらに歩いて、学術区画にたどり着いた。
雰囲気が一変する。喧騒が遠のき、落ち着いた空気が流れている。建物は石造りだが、商業区画より凝ったデザインで、あちこちに彫刻が施されている。歩いている人も、どことなく知的な雰囲気を纏っていた。
その中心にあったのが、図書館だった。
でかい。
三階建ての堂々とした建物。正面には「アテンシア王立図書館」と刻まれた石板。入り口から覗くと、紙とインクの匂いが漂ってきた。
入ってみたい。
でも、街を歩き回っているうちに、もう午後になっていた。空を見上げると、日が西に傾き始めている。今日のところは街の全体像をつかむのが先だ。目的もなく入っても、時間を浪費するだけだろう。
俺は図書館の外観だけ眺めて、その場を離れた。
それから、さらに街を歩き回った。市場の路地裏、職人街、神殿区画。宿屋街も確認しておいた。初めての街で迷わないように、主要な場所の位置関係を頭に入れる。
日が完全に沈む前に、俺は宿へと戻り始めた。
◇ ◇ ◇
宿への道を歩きながら、俺は心の中でAIに話しかけた。
「この世界のこと、教えてくれって言っても無理なんだよな」
『申し訳ありません。この世界に関する情報は、あなたから提供されたもの以外、保有しておりません』
「分かってる。分かってるけどさ」
空はすっかり茜色に染まっていた。通りを歩く人々の影が長く伸びている。どこかで夕飯の支度をしているのか、肉を焼く匂いが漂ってくる。
胸の奥が、きゅっと締まった。
前世にも、一人で過ごす時間は多かった。でも、あの頃は同僚がいた。仕事仲間がいた。少なくとも、日本語が通じる相手がいた。
ここには誰もいない。話しかけられるのは、頭の中のAIだけ。そのAIも、この世界のことは何も知らない。
「……ふう」
溜息が出た。
でも。
「じゃあさ」
俺はAIに話しかけた。
「俺がこの世界の情報を教えてやるよ。お前が知らないなら、俺が探して、俺が伝える。それでいいだろ」
『はい。その方法であれば、私の知識を拡張することが可能です』
「拡張か。いい響きだな」
俺は笑った。
さっき見た図書館を思い出す。あそこに行けば、この世界の知識が手に入るかもしれない。これから本格的に動こう。冒険者ギルドで仕事を探して、図書館で知識を蓄える。
俺は宿への道を歩きながら、明日の計画を立てていた。
異世界生活、二日目。まだ何も始まっていないけど、少しだけ前に進んだ気がした。
第3話「異世界の朝」 完
次回:第4話「初めての冒険」




