第60話 床が開く通路と、触れられない距離
白い城壁の内側は、音が消える。
祈りの声が遠い。香の匂いだけが濃くて、足音だけが石に返る。同じ聖都なのに、外の巡礼路とは別の世界だった。
斥候蜘蛛の映像が、通路の先の角を捉えている。光の反射。聖印。槍の穂先。人影が2つ。
1号の声が低い。
「ここから先は『客』じゃない」
高橋が移送票と通行票を重ね、声を殺した。
「澪さんは中継されます。受取人コードが変わる。出口は終点の1箇所。そこを潰せば止まります」
俺は司令室のコタツで湯飲みを置き、短く落とす。
「出口だけ見ろ。澪優先」
「了解」
1号の返事は短い。
現場の手順は、声にしない。レオンは収納ボックスから「通路を塞ぐ荷」を選んでいた。木箱、布、棚――目立たないもの。ロザリーは背後に立つ。通路の空気が薄くなる。逃げる気が折れる圧だ。ソフィアは縄と袋を指先で揃え、淡々と確認する。
「ここ、治療費が高そう。無駄な怪我は禁止。請求は跳ねる」
「最高です」
レオンが小声で言った。
「黙って」
1号が切る。息だけが白くなる。
蜘蛛は終点の扉の上、通路の折れ角、天井梁、床の端。見張りじゃない。揺れを拾うための配置だ。
通路の奥へ進むほど、香が不自然に濃くなる。聖都の香は人の心を落ち着かせるはずなのに、ここは逆だ。鼻の奥が痺れる。
終点の扉の前に、聖印を付けた兵が立っていた。祈っていない。呼吸も揺れない。足の位置が軍隊だ。高橋が小さく言う。
「あれ、聖都の兵じゃない。癖が違います」
1号の視線が1瞬だけ鋭くなる。だが歩幅は変えない。変えれば目立つ。扉の向こうから、かすかな音がした。鈴。布の擦れる音。
そして――ほんの1瞬、斥候蜘蛛の映像の端に映ったもの。白い布の隙間。細い手首。そこに食い込む、細い輪。
高橋の喉が鳴った。
「……澪さん」
触れられる距離だ。だが触れた1瞬、全部が壊れる距離でもある。
1号は言わない。合図だけを落とした。
――今。
レオンが動く。走らない。跳ばない。木箱を抱えて運ぶ巡礼のふりをして、兵の横をすり抜ける。次の1瞬、収納ボックスが開き、木箱が「通路の出口側」へ連続で吐き出される。出口封鎖。逃げ道を先に殺す。
ロザリーが背後に1歩出るだけで、空気が固まる。逃げようとした兵の足が止まる。ソフィアが袋を投げた。声を殺す。ここでは叫びが1番高い。袋が兵の頭を呑み、呻きが布に吸われた。
1号が距離を詰め、関節を「壊さない角度」で決める。静かに。確実に。血も音もいらない。兵は抵抗するが、抵抗するほど糸が絡む。蜘蛛の糸が足首を縛り、膝を沈める。
もう1人が手を伸ばした。だが伸ばした先に、レオンの体が入る。
「マスターの荷物が通ります」
声が明るすぎる。だがその1瞬、兵の動きが止まる。理解が遅れる。
ソフィアが冷たい声で言う。
「終わり」
――爆発は、ここからだった。
扉の向こうで、何かが「落ちる音」がした。床だ。石が擦れ、重いものが沈む。足元の石畳が、ほんの僅かに段差を作った。
1号の瞳が跳ねる。
「……床が」
遅い。気づいた時には、もう動いている。床の一部が、静かに開いた。
扉の向こう――澪さんがいるはずの空間の床が、切り取られたみたいに沈む。香の匂いが強くなる。鼻の奥が痺れる。麻痺。眠り。拘束。
高橋が声を押し殺す。
「まさか……中継、床下……!」
斥候蜘蛛の映像が、扉の隙間から「落ちる布」を捉えた。白い布が沈む。鈴の音が、遠ざかる。高橋が叫びそうになり、喉で潰した。
「澪さん――!」
その時、白い柱の影に「目」が見えた。1瞬。闇に溶ける輪郭。だが目だけが、こちらを測っている。上だ。1号が半歩、そちらへ動きかけた。
その1瞬、視界がざらりと削れた。短いノイズ。押さえつける嫌悪。本部の干渉。白が引いた時、柱の影は何事もないように空っぽだった。
上は消えた。床下へ? 別の通路へ? 分からない。分からないのに、澪さんだけが確実に遠ざかる。
「追うな」
ソフィアが即座に言った。声が冷たいのは、感情を切っているからだ。
「追えば落ちる。落ちれば死ぬ。生きて追え」
1号の拳が1瞬だけ固くなる。だが足は止まる。止められるのが1号の強さだ。
「……出口は」
1号が言い、視線を通路の先へ走らせた。出口封鎖は維持されている。こちらの退路も、相手の退路も、潰れている。つまり――床下が新しい出口だ。
高橋が、確保した兵の懐から奪ったものを掻き集める。通行票、鍵束、薄い封筒。その中に、硬い札が混じっていた。聖印付き。だが印刷の癖が均一で冷たい。紙質が違う。高橋が目を走らせ、顔色を変える。
「……通用門の札。神殿奥じゃない。床下通路の『出口』の番号です。枝番、聖都外縁……聖都の外に繋がってる」
俺は司令室で息を吐き、短く落とす。
「澪は床下で中継。出口は聖都の外だな」
「はい」
高橋が言い切る。
「澪さん、聖都を出されます。今夜中に」
1号が低い声で言う。
「追う。床下の出口を先に潰す」
レオンが頷いた。
「マスター。荷、出せます。出口封鎖、得意です」
ロザリーが白い壁を見上げ、舌で唇を湿らせた。
「面白くなってきたね」
「面白がるな」
1号は言う。だが、その声の奥に熱がある。焦りじゃない。決意だ。
斥候蜘蛛の映像の端で、床下へ落ちた布の端が、最後に1度だけ揺れた。それきり、音が消える。
触れられる距離にいたのに、触れられなかった。その悔しさが、背骨の奥に残る。高橋が息を整え、言った。
「まだ間に合います。澪さんは……動いてる。でも、出口は1つに絞れた」
1号が頷く。
「行きます」
白い城壁の内側。祈りの声が届かない通路で、足音だけが加速していく。次は、床下の出口。聖都の外へ繋がる「片道」を――こちらが塞ぐ。




