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第58話 防水カプセルと、聖都への片道

 視界に浮かぶ神マケの窓が、妙に静かだった。

 普段なら、注文の流れと数字の波がどこかでうねっている。王都を回している限り、完全な無音にはならない。なのに今は、水面みたいに平らで、呼吸をしていない。

 嫌な静けさだ。


 斥候蜘蛛の映像を切り替える。北の水門。出口側。闇に沈む水路の口。水面が1度だけ沈んだ。泡は出ない。魚の動きでもない。誰かが水を押し分けた沈み方だ。すぐにもう1度、沈む。

 高橋の声が、耳の奥で硬くなる。


「動きました。澪さんの線です」


 俺はコタツの上で指を組み直し、短く落とした。


「澪優先。上は2の次。落とさせろ」

「了解」


 1号の返事に迷いがない。


 北の水門は、夜が早い。湿った石の匂いが濃く、土手の草が擦れる音が近い。出口は暗い穴で、覗いていると吸い込まれそうだった。

 現場の手順は、もう説明しない。レオンは出口の縁に立ち、収納ボックスへ片手を添えている。吐き出す距離が正確だ。ロザリーは土手側に立つ。火薬は使えないが、立っているだけで逃げ道の空気が変わる。ソフィアは縄と袋を並べ、淡々と数を確認している。喋れない仕込みが前提だ。


 蜘蛛は出口の左右と水中、そして問題の裂け目の手前に寄せた。逃げ道を読むなら、揺れを拾うのが一番早い。高橋が小さく刻む。


「残り90」


 俺の胸の奥が、少し冷える。


「残り60」


 いつもの癖が崩れている。300秒前の遊びがない。余裕がない。澪さんが動くからだ。


「残り30」


 水面の沈み方が変わった。今度は線じゃない。出口のすぐ手前が、ぐらりと持ち上がる。1号の声。


「来ます」


 水が割れた。最初に出てきたのは小物ではない。黒い影が、呼吸も泡もないまま水面から現れた。肩が上がらない。息をしていないみたいに静かだ。顔は闇に溶けて見えない。だが目だけがこちらを見た。計算する目だ。数を数える目だ。

 影の手には、小さな透明の筒があった。防水カプセル。濡れても中身が死なないやつだ。高橋が息を呑む。


「……鍵だ」


 1号が1歩前へ出る。


「澪さんはどこです」


 影は答えない。目が、ほんの僅かに細くなる。口元は見えないのに、笑った気配だけがした。こちらが焦っているのを知っている。ロザリーが土手側から、甘い声を落とした。


「逃げたら、ずっと追いかけるよ。ずっと」


 影の目がロザリーへ向き、すぐに出口へ戻る。逃げるつもりだ。


「出口封鎖」


 1号が短く言う。


「了解です、マスター」


 レオンが収納ボックスから荷を吐き出した。木箱、石材、金属箱。重い塊が連続で落ち、黒い水が跳ねる。出口が塞がる。少なくとも、ここからは出られない。

 同時に、レオンが裂け目側へ荷を寄せる。前回逃げた割れ目だ。今回はそこを先に殺す。ソフィアが冷たい声で釘を刺す。


「追うな。穴を潰せ。出てくるしかない形にしろ」


 1号が頷く。


「裂け目を押さえます」


 影が水面へ沈もうとする。出口は塞がっている。戻るなら奥。奥へ行けば狭い。狭いなら捕れる。1号が距離を詰める。捕縛の射程。

 その瞬間だった。


 視界が、ざらりと削れた。蜘蛛の映像が乱れたんじゃない。映像を映している俺の視界そのものが白く飛ぶ。嫌悪が混じっている。押さえつける力。本部だ。高橋の声が硬い。


「来た……!」


 白が引いた。影はいない。出口は塞がっている。土手側もロザリーがいる。それでも消えた。水中の蜘蛛が、裂け目の奥で細く揺れる。裂け目へ滑り込んだ。

 だが今回は、裂け目が生きていない。レオンが裂け目へ寄せた荷が、ずず、と石を押した。楔が噛み、割れ目の隙間が目に見えて狭くなる。


 影の逃げが雑になった。水面の縁で、カチン、と小さな音がした。透明な筒が、石に転がっている。防水カプセルが落ちた。


「取った!」


 レオンが叫びかけたが、1号が先に動いていた。手を伸ばし、カプセルを拾い上げる。濡れた石の上でも滑らない握りだ。ロザリーが舌打ちする。


「つまんない。逃げた」

「逃げてもいい」


 1号の声は冷たい。


「澪さんを優先する」


 ソフィアが頷く。


「正しい。請求はあとでいい」


 高橋がカプセルを受け取り、手を震わせずに捻った。中に入っていたのは薄い紙だ。防水加工。印刷が均一で、王都の紙じゃない。高橋の顔色が変わる。


「……澪さん、もう動いてます」


 喉が1瞬だけ鳴った。高橋が焦りを噛み殺している音だ。


「受取地点、王都外。聖都方面です。巡礼路の外縁、白い城壁の手前の検問。それと、受取人コード……英数字。地球側です」


 俺はコタツの上で指を組み直し、短く言った。

 聖都方面。王都の外へ飛ぶ。舞台が変わる。敵も空気も変わる。だが、迷う理由にはならない。


「王都は止めるな」


 俺は短く言う。


「高橋、受注は回せ。足りないなら雇え。1号、聖都へ切り替えろ」

「了解」


 1号が言い切った。レオンが拳を鳴らす。


「マスター。すぐ行けます。荷も人も出せます」


 ロザリーが楽しそうに笑った。


「聖都って、白いんだよね。汚したくなる」

「汚しません」


 1号が即答する。


「つまんない」


 そう言いながら、ロザリーの目はもう北を向いている。狩りの目だ。高橋が移送票を握りしめ、息を吐く。


「澪さんの移送は、待ってくれない。今からなら間に合う。でも、遅れたら……次はどこに飛ぶか分からない」


 斥候蜘蛛の映像の端で、水面が1度だけ揺れた。裂け目の向こう。影がまだ近い。こちらを見ている気配が消えない。それでも、やることは1つだ。

 1号が現場を締める。


「出口封鎖は維持。蜘蛛は残す。こちらは聖都へ向かう」


 レオンが頷き、収納ボックスから必要な荷を選び始める。速い。迷いがない。ソフィアは縄と袋をまとめ、淡々と付け足す。


「聖都は治療費が高そう。無駄な怪我は禁止。請求も高くなる」

「最高です」


 レオンが小声で言う。


「黙って」


 1号が切る。


 俺は神マケの窓を1度だけ見下ろした。王都の数字はまだ回っている。回し続ければ、支配は維持できる。維持したまま、外へ打つ。そのやり方しかない。


「最短で行け」


 俺は声だけを落とす。


「聖都は、こちらの庭にする」


 夜の土手を、足音が走り出す。白い城壁の向こうへ届くまで、息を止めるつもりで。


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