第57話 北の水門と、闇から覗いた「目」
水面が――沈んだ。
泡は出ない。魚が跳ねたわけでも、風が撫でたわけでもない。黒い水が、誰かの体温を嫌がるみたいにゆっくり重く動いただけだ。
斥候蜘蛛の映像が、その揺れを拾う。北の水門。土手下の古い水路。出口側。
1号の声が、耳に入った。
「来ます」
レオンが、出口の縁で片手を収納ボックスへ添えた。いつでも吐き出せる位置だ。ロザリーは土手の影で笑っている。火薬は使えないのに、楽しそうなのが腹立たしい。
「出口、左右。蜘蛛の配置は?」
「完了。出口手前の水中にも1体。揺れが来たら分かります」
1号が淡々と答える。ソフィアが冷えた声で続けた。
「縄、袋、拘束具。喋れない仕込みがある前提で動く。噛まれたら請求は4重」
「最高です」
レオンが小声で言う。
「余計なことを言うな」
1号が切った。
高橋の声が少しだけ早い。
「番号束の系列、ここで合ってる。南門の検問裏と同じ枝番。……今夜動く可能性が高い」
俺は司令室のコタツで湯飲みを置き、視界の映像を固定した。言葉は短く落とす。
「出口を優先。追うな。捕るなら、出口で捕れ」
「了解」
1号が即答する。
北の水門は、昼間よりずっと寒い。湿った石の匂いが濃く、土手の草が風に擦れる音が耳につく。水路の出口は暗い穴で、覗いていると、こちらが吸い込まれそうだった。
高橋が小さく囁く。
「残り……120秒」
「300じゃないのか」
ロザリーが鼻で笑った。
「焦ってるんだね、向こう」
1号は返さない。焦りを拾うのは高橋の役目で、現場の手は迷わない方がいい。
残り90秒。出口手前の水中の蜘蛛が、微かに揺れた。揺れは1点ではなく、線で来る。水が押されている。
残り60秒。石蓋の方角――出口とは別の位置で、闇が1瞬だけ濃くなった。水路の中で何かが動いたのに、音がない。息の泡もない。
「……上はまだ中」
高橋が言う。
「出てくるなら、ここ。出口で拾う」
残り40秒。水面が割れた。
まず出てきたのは、小物だった。濡れた布を頭から被り、顔を隠しながら、出口の縁へ必死に手を伸ばす。動きは速いが、焦りが見える。上と違う。
レオンの肩が沈んだ。踏み込む前の癖だ。
「今です、マスター」
1号の声。レオンが踏み込む。1歩で距離を詰め、手首を掴み、肘を折らない角度で固めた。壊さない。逃がさない。喋らせるための力だ。
小物が暴れる。その足首に蜘蛛の糸が絡み、膝が泳いだところへ、ロザリーが影からすっと現れる。
「吐かないなら、ずっと追いかけるよ。ずっと」
甘い声なのに、背筋が冷える。小物の目が泳いだ。時間が怖い反応だ。ソフィアが袋を投げる。
「口。噛まれたら請求」
袋が被せられ、呻き声が布に吸われた。
――その瞬間だった。水門裏の闇が、ゆっくり立ち上がった。上だ。水面から出たわけじゃない。最初からそこにいたみたいに、影が形を持つ。
布か、仮面か、闇か。顔は見えない。だが「目」だけが見えた。こちらを見ている。まるで、数を数えている目だ。
1号が迷いなく視線を向け、短く問う。
「澪はどこです」
上は答えない。その代わり、口元の奥で何かが光った。濡れた防水袋――番号束の束ね紐の端を、1瞬だけ見せたように見えた。
見せた。そして、すぐ隠す。挑発だ。こちらが「取れる」と思った瞬間を狙っている。
「レオン、出口封鎖」
「了解!」
レオンが収納ボックスへ手を突っ込み、重い荷を連続で吐き出す。木箱。金属箱。石材。黒い水が跳ね、出口が塞がる。逃げ口は潰れた。少なくとも、ここからは出られない。
ロザリーが土手側へ1歩動く。逃げ道を塞ぐだけで、獣の圧が増した。
「逃げたら、追いかけるって言ったよね」
上の目が、ほんの1瞬だけ細くなった。嫌悪か、楽しさか――判別できない薄い感情。
1号が距離を詰める。上が、すっと水面へ沈もうとした。だが出口は塞いだ。戻るなら奥へ。奥は狭い。
「止まりなさい」
1号の声が低い。手が伸びる。
――視界が、ざらりと削れた。蜘蛛の映像が乱れたんじゃない。映像を映している俺の視界そのものが、1瞬だけ白く飛ぶ。高橋が息を呑む。
「……来た」
嫌悪が混じっている。押さえつける力。本部の干渉だ。
白が引いた時、上はいなかった。出口は塞がっている。土手側もロザリーが立っている。なのに消えた。
水中の蜘蛛が、出口より奥で揺れた。揺れは細い。裂け目を通る揺れだ。1号が歯を食いしばる。
「……割れ目がある」
古い水路の石と石の間に、細い崩れがあった。人が通れる幅じゃない。だが上は、そこへ「滑り込んだ」。
ロザリーが舌打ちする。
「つまんない。逃げた」
「追うな」
1号が即座に言う。
「水の中は危険です。今は取れるものを取る」
ソフィアが冷たく頷いた。
「追えば死ぬ。生きて取れ」
そして――取れるものは残っていた。出口の石の縁に、小さな透明袋が落ちている。防水。濡れても崩れない薄膜。中身は紙の束だ。
高橋が声を落とす。
「……番号束」
1号が拾い上げ、袋の口を慎重に開ける。束の先頭だけ、厚みが違う。角が固い。水を弾く加工が強い。高橋がそれを受け取り、目を走らせた。そして顔色が変わる。
「先頭札……別仕様だ。これ、合図用じゃない。時間だ」
「時間?」
レオンが息を呑んだ。高橋は頷き、震える指で数字列をなぞる。
「……今夜。しかも、近い。300秒前どころじゃない。動くのは「もうすぐ」だ」
俺はコタツの上で指を組み直した。本部が邪魔をした。上は逃げた。だが、束の先頭札を落とすほど追い詰めた。視界の端で、短いノイズがまた走る。押さえつける嫌悪。合っている。
「北の水門で正解だ。次へ切り替えろ」
俺は短く指示を落とす。
「澪が動く。間に合うルートだけ残せ」
「了解」
1号が言い切った。ロザリーが楽しそうに笑う。
「次は間に合うんだ。いいね。面白い」
レオンが拳を鳴らした。
「マスター。出口は塞ぎました。次は裂け目ごと――」
「次で潰す」
1号が言葉を被せる。
「今日の目的は、時間を取ることだった。取れた」
高橋が番号束の先頭札を握りしめ、息を吐く。
「逃げた上は、まだ近くにいる。でも、澪の移送はもっと近い。……急ごう」
水面は、何事もなかったように静かだ。その静けさの奥で、裂け目の向こうへ消えた影が、まだこちらを見ている気がした。
だからこそ、迷う暇はない。次は――「時間」に追われる。




