第56話 出口の封鎖と、防水された番号束
川の匂いが濃い。
日が落ち切ると、水面は黒い鏡になった。旧水門の脇、土手下に口を開けた水路の出口は、暗さだけが形を持っている。
レオンが出口側へ先行し、足を止めた。息を乱さない。だが肩の位置が微妙に前へ出ている。飛び出す癖だ。
「ここが出口です、マスター」
1号が追いつき、暗い口を見下ろした。
俺は司令室のコタツから動かず、斥候蜘蛛の映像でその場を見ている。水路の出口の縁に1体。土手の影に1体。水門裏に1体。出口の少し手前、水面の下に1体。
水中の蜘蛛の視界は、濁りと闇でほとんど役に立たない。それでも、水だけは嘘をつかない。揺れがあれば、通った証拠になる。
「出口側、配置完了」
1号の声が耳に入る。
「土手、押さえたよ」
ロザリーが笑う。姿は映らないが、そこにいる気配が見えるような声だ。
ソフィアの落ち着いた声。
「縄、袋、拘束具。喋れない仕込みがあっても、口は塞ぐ。噛まれたら請求」
「最高です」
レオンが嬉しそうに言った。
「……余計なことを言うな」
1号が淡々と切る。高橋が少し間を置いて言う。
「水路の中、動いてる。蜘蛛の映像、出口の少し手前が揺れてる」
俺は視界を切り替えた。水面。黒い。だが、そこだけがほんの僅かに沈む。泡も立たないのに、水だけが重く動く。
「来る」
俺の呟きに、高橋が短く返す。
「うん。上だね」
待つだけじゃ出てこない可能性がある。相手は慎重だ。慎重なのに、番号には反応する。
「1号。餌を置け」
「了解」
1号が懐から薄い紙片を取り出した。押収した印刷札の端切れだ。防水の薄膜が貼られていて、濡れても崩れない。番号は、見える。ただし完全な一致じゃない。匂いだけを残す。
1号はそれを石の上へ置いた。水路の出口から「見える角度」に、光が残る位置へ。
「餌って、紙なんだ」
ロザリーが小声で笑う。
「黙って」
1号が言う。
水面が、ゆっくりと盛り上がった。音がない。水の中から息を吐く泡すら上がらない。
黒い影が、水面を割るように現れる。人の形に近いのに、人の動きじゃない。肩が上がらない。息をしない。顔は見えない。布か、闇か、それとも最初から「見せる気がない」のか。
ただ、目だけがこちらを見た。水の冷たさが、映像越しに伝わってくる気がした。
1号が1歩、前へ出る。
「澪はどこです」
影は答えない。喉を鳴らすこともしない。その代わり、石の上の紙片へ視線を落とした。番号を見る――その動きだけは、はっきりしている。
高橋が、息を殺した声で言う。
「……見た。番号を見る癖、確定」
地球側の匂いが濃くなる。この世界の人間は、番号を「安心」として扱わない。だがこいつは、番号を確認してから動く。
「今です」
1号の声。レオンが動いた。水路の出口、その縁へ飛び込み、収納ボックスから荷を吐き出す。
木箱。金属箱。石材。重い塊が、短い間隔で次々に落ちていく。水面が跳ね、黒い水が弾けた。出口が塞がる。逃げ口が潰れる。
「逃げ道、なしです」
レオンの声が弾む。ロザリーが土手の影から立ち上がり、ゆっくりと歩いた。ただ歩くだけで、逃げようとする気持ちが折れそうな圧がある。
「逃げたら追いかけるよ。ずっと」
甘い声。影が1瞬、こちらを見た。目の奥に、嫌悪が走る。
1号が距離を詰めた。影が水面へ沈もうとする。だが出口は塞がっている。戻るなら奥へ。奥へ行けば行くほど、水路は狭くなる。
「止まりなさい」
1号の声が低くなる。手が伸びる。
その瞬間。視界が、白く飛んだ。蜘蛛の映像が乱れたんじゃない。映像を映している俺の視界そのものが、ざらりと削られる。
高橋が息を呑む。
「……来た」
「本部だ」
確信だけが残る。澪の線に触れるたび、これが来る。ノイズは短い。短いのに、致命的だ。
白が引いた時、影はいなかった。水面は静かに戻り、出口を塞ぐ荷だけが濡れて光っている。影は水中へ戻ったのではない。戻れない。出口は塞いだ。
ではどこへ消えた。
水中の蜘蛛が、出口のさらに奥で揺れた。そこに――裂け目がある。古い水路は崩れていた。石と石の間に、細い割れ目。人が通れる幅じゃないはずなのに、影はそこへ「滑り込んだ」のだとしか思えない。
ロザリーが舌打ちする。
「えー。つまんない」
「追うな」
1号が即座に言った。
「水の中は危険です。ここで死ぬ理由がない」
レオンが悔しそうに拳を鳴らす。
「マスター……」
「出口を塞いだのは正しい」
1号が言う。
「逃げ方が異常なだけです」
異常。そうだ。人間の逃げ方じゃない。
だが、逃げる時には必ず何かを落とす。水面の縁。石の上。さっきまで影がいた位置に、小さな塊が残っていた。
高橋が息を詰める。
「……ある」
1号が手を伸ばし、慎重にそれを拾い上げた。薄い透明な袋。防水。中に、束が入っている。
番号札。印刷された英数字が、均一な黒で並んでいる。しかも束になっている。ばら撒くためじゃない。管理するための束だ。
高橋の顔色が変わった。
「これ……次の桁が見える」
紙片を1枚ずつずらし、端を揃える。番号の並びに規則がある。そして、その規則の先が見える。高橋は唇を噛み、言った。
「次の現場、絞れる。2つじゃなくて、1つ」
1号が頷く。
「どこです」
「……北。王都から見て北の水門。この枝番、南門の検問裏と同じ系列。水路の管理番号の癖が一致してる」
俺はコタツの上で指を組み直した。逃げられた。だが、逃げる時に「束」を落とすほど焦った。焦らせられたなら、こちらが1歩進んだ証拠だ。
視界の端で、また短いノイズが走った。押さえつけるような嫌悪。本部が嫌がっている。つまり、合っている。
1号が低い声で言う。
「次は逃がしません」
レオンが笑う。
「感謝です、マスター。次は壊していいですか」
「だめ」
1号の返事は変わらない。ロザリーがふん、と鼻を鳴らす。
「つまんない。でも、次は面白そう」
高橋が番号束を握りしめ、言った。
「時間も近い。次は『300秒前』じゃ済まないかもしれない。澪の移送と同期してるなら、今夜か、明日には動く」
俺は短く指示を落とす。
「出口側を押さえるのは正しい。次も同じだ。北の水門の出口を先に潰せ」
「了解」
1号が言い切った。
水面は何事もなかったように静かだ。だが、その静けさが一番気持ち悪い。水路の奥へ消えた影は見えない。代わりに、俺たちの手の中には防水された番号束が残った。
次は――もう1つ先の出口で、待っている。




