第55話 旧水門の石蓋と、出口側の封鎖
「条件は5つ。王都の外、水の近く、石の蓋、300秒前、番号」
高橋が言い、伝票束の端を指で弾いた。
「場所は吐かない。でも、癖は揃ってる。次は『水辺の石蓋』に来る」
俺はコタツから動かず、視界に浮かぶ斥候蜘蛛の映像を眺めた。
王都の出張所は1号が回している。医療と兵站と厨房の列が途切れないのに、現場の空気は妙に落ち着いている。慣れだ。依存は慣れを生む。
「候補は増やすな。2つまで絞れ」
俺が言うと、高橋は即座に頷いた。
「分かってる。無駄に走ったらあなたが嫌がる」
「嫌がるだけだ。止めはしない」
「止めてよ」
高橋が鼻で笑い、伝票束を抱え直す。
「聞き取りは1号にやらせる。水利の職人と検問の古参。あの手の人間は地図より口の中に道を持ってる」
その日の昼、1号は表の顔のまま門前へ出た。役人に頭を下げるでもなく、威張るでもなく、必要な言葉だけを落としていく。
「王都の外で、石の蓋が残っている古い水路はどこです」
「そんなもん、いくつも……」
「2つでいい」
古参は最初、面倒くさそうに唇を歪めたが、最後は指で2箇所を示した。
「川沿いの旧水門の脇。もう1つは土手下の廃水路だ。石蓋が残ってる」
「番号は」
「知らん」
「結構です」
1号はそれ以上聞かずに引いた。情報を引き伸ばすと、余計な嘘が混じる。短く切るのが一番きれいだ。高橋が押収した印刷札の番号と見比べ、眉を寄せる。
「枝番の癖が合うのは……旧水門の方。廃水路は桁が違う」
「旧水門に寄せる?」
「寄せる。だけど、廃水路も踏む。念のための1回だけ」
俺は頷いた。候補を増やす気はないが、外すリスクも嫌いだ。
問題は、こちらの制約だった。配送が届くのは、九条か1号が足を運んだ場所だけ。見たこともない場所へ、いきなり手は伸ばせない。
「踏んで登録してこい」
俺の指示に、1号は短く答えた。
「了解。レオン、同行しますか」
「もちろんです、マスター」
レオンの声が弾むのを聞きながら、俺は視界の蜘蛛を切り替えた。斥候蜘蛛もまた、置ける場所には限りがある。だからこそ、足で稼いだ座標は価値になる。
夕方前、レオン隊が2箇所を踏んだ。
土手下の廃水路は、苔と泥の匂いが濃く、石蓋は割れていた。隠れるには向いているが、逃げるには足場が悪すぎる。
旧水門の方は、逆に「逃げ道」がはっきりしていた。水路の口が複数あり、石壁が滑らかで、身軽な相手なら潜って消えられる。
1号が低い声で言う。
「逃げるなら、こちらです」
「逃げる前提なのが嫌だな」
高橋が唇を尖らせた。
「でも確かに、あの手の連中は逃げ道のある場所を選ぶ」
ロザリーが水面を覗き込み、にやりと笑った。
「水の中ってさ。燃やせないよね」
「今日は燃やしません」
1号が即答する。
「つまんない」
そう言いながらも、ロザリーの目は楽しそうだった。危険の匂いが好きなのだ。ソフィアは腕を組み、冷たい声で釘を刺す。
「追い過ぎは禁止。水に入ったら治療費が跳ねる。請求は4重」
「マスター、もっと請求を」
レオンが嬉しそうに言う。
「これ以上は増やさない」
1号が淡々と切った。
「感謝です」
狩場は旧水門に決めた。理由は単純だ。相手が来る確率が高い。来なければ意味がない。石蓋の下に、包みを置く。中身は囮。その脇に、印刷札の端切れを落とす。完全に同じ番号は使わない。違和感が強すぎれば引かれる。だが「匂い」は残す。
高橋が裏窓口で、追い依頼を流した。文面は整っていて、時間指定は例の癖を混ぜる。
300秒前。
それだけで、胸の奥が冷えるのが分かった。
「日没まで――300秒」
現地。旧水門の脇。川の匂いが湿っていて、石は冷たい。草が風に擦れる音が、やけに近くに聞こえる。斥候蜘蛛は5体。
石蓋の真上、水路口の縁、土手の影、旧水門の裏、そして――水路の出口側へ1体。出口側の蜘蛛は、暗い水の中でじっとしている。水面の揺れだけが頼りだ。
1号は視界に入らない位置で待ち、レオンは1歩で飛び出せる距離。ロザリーは土手の影で笑っている。ソフィアは捕まえた後の縄と袋を用意している。淡々としていて、逆に怖い。
「残り240秒」
高橋が囁く。
「……静かすぎる」
ロザリーが言い、口元だけを吊り上げた。
「静かな場所ほど、動く音が目立つ」
1号の声が、低く返る。
残り120秒。石蓋の縁に、影が落ちた。
最初は水面の反射かと思ったが、影は反射の揺れ方をしない。揺れずに、じわりと伸びる。
残り90秒。石蓋が、ほんの僅かにずれた。石が擦れるはずなのに、音がない。
残り60秒。水路の闇から、手が出た。白い指。爪が短い。迷いがない。包みに触れ、止まる。確かめる仕草。そして、脇に落とした端切れを1瞬だけ覗き込む。
その瞬間だった。水門の裏――もう1つの影が動いた。
視界の端、蜘蛛の映像が「そこだけ」静かに揺れる。風でも水でもない揺れ方だ。高橋の呼吸が浅くなる。
「……いる。上が」
「今です」
1号の声。レオンが踏み込む。石蓋の前に落ち、手首を掴み、相手の肘を折らない角度で固める。壊さない、逃がさない、喋らせるための力。
小物が暴れた。だが暴れるほど、糸が絡む。蜘蛛が吐いた細い糸が、足首と膝を縛っていく。
ロザリーがしゃがみ込み、耳元に甘い声を落とす。
「吐かなかったら、ずっとここだよ。ずっと」
小物の目が泳いだ。時間が怖い反応だ。こいつも地球側の匂いがする。ソフィアが袋を投げた。
「口。噛まれたら請求」
袋が被せられ、呻き声が湿った布に吸われる。
――その瞬間。視界がざらりと荒れた。
蜘蛛の映像が乱れたのではない。映像を映している俺の視界そのものが、1瞬だけ歪む。高橋が息を呑む音がした。
「……また」
ノイズは短い。だが鋭い。嫌悪が混じっている。押さえつけるような、指の力。乱れが収まった時には、もう遅かった。水門裏の影が、音もなく水路へ滑り込んでいた。水面が1度だけ、ぐらりと大きく揺れる。それきり、何もない。匂いだけが残る。
「逃げた!」
ロザリーが笑いながら叫ぶ。腹が立っているのか楽しいのか分からない。レオンが1歩、追おうとした。
「マスター、追いますか」
「追うな」
1号が即答した。
「水の中は危険です。出口側を――」
そこまで言いかけた時、斥候蜘蛛の1体が、水路の奥で微かに揺れた。出口側に置いていた蜘蛛だ。水面の裏で、何かが通った。高橋が声を落とす。
「出口……動いた」
俺はコタツの上で指を組み直す。追尾はできる。だが、追い切れない。途中でまた視界が荒らされる。嫌な確信が、喉の奥に引っかかったままだ。
1号がすぐに動いた。
「出口側を押さえます。レオン、先行」
「感謝です、マスター」
レオンが駆ける。水路沿いの土手を、躊躇なく走り抜ける。足場の悪さなど関係ない。あいつは重さで押し切る。ロザリーも跳ねるように立ち上がった。
「出口側なら、燃やしていい?」
「だめです」
1号がまた切る。
「つまんない」
その間に、こちらは「収穫」も逃さない。小物の胸元から、薄い紙片が覗いていた。高橋がそれを引き抜く。均一な白い紙。印刷文字。英数字。指先が少しだけ震えた。
「番号……束の端。これ、次の桁が見える」
ソフィアが覗き込み、冷たく言う。
「喋れない仕込みでも、紙は黙らない」
高橋が紙片を指で隠し、1号を見上げた。
「出口側を押さえれば、次は取れる。上は水路で逃げる癖がある。なら、逃げ口を塞いで待つ」
「同意します」
1号の声は淡々としている。だが、その奥にわずかな熱があった。逃した悔しさだ。
視界の端で、また短いノイズが走った。嫌がっている。こちらが出口側へ動くのが、相手にとって都合が悪い。俺は湯飲みを置き、息を吐く。
「出口を先に押さえろ」
言葉はそれだけでいい。水路へ潜るなら、出口で待つ。逃げる癖を読むのは、得意だ。
夕焼けが沈みかけ、川面が黒くなる。水の中に消えた影は見えないままだが、出口側の蜘蛛の揺れだけが、確かに「向こうがまだ近い」と告げていた。




