第54話 南門の石蓋と、三百秒前の影
「日没まで五分。指示通り」
高橋の声が、耳の奥を冷たく叩いた。
俺はコタツから動かないまま、視界に浮かぶ映像を切り替える。
南門。
検問所の裏。
古い水路。
石の蓋。
夕焼けの赤が石壁を薄く染め、門前の喧騒だけが遠い。
人の声は多いはずなのに、検問所の裏だけ妙に乾いていて、息を吸うと喉の奥がざらついた。
斥候蜘蛛の視点は四つ。
蓋の真上、壁の影、裏路地の角、排水口の奥。
どれも動かず、ただ待っている。
置くだけ。
拾うのは別のやつ。
だから、今日は拾うやつを押さえる。
南門の手前では、1号が役人に紙を見せていた。
「物流点検です。こちらは王都の供給を担っている。止まれば困るのはそちらです」
淡々としているのが効く。
相手が反論を組み立てる前に、首を縦に振らせる言い方だ。
役人は喉を鳴らし、視線を逸らした。
「……分かった。だが妙な真似はするな」
「しません」
短い返事のまま、1号は検問所の裏へ通る。
その横を、レオン隊が荷を担いで通り過ぎた。
いつもの配送のふりをして、いつもの歩幅で周囲へ散っていく。
壁の影にはロザリーが座り、足をぶらぶらさせて笑っていた。
「逃げたら燃やしていい?」
「だめ」
1号は即答する。
「じゃあ、怖がらせていい?」
「それなら」
「やった」
ロザリーの声が弾んだ。
火薬が許されない日は、こういう遊びに切り替えるらしい。
ソフィアは腕を組み、冷えた笑みで言う。
「今日は捕獲優先。壊したら請求。逃がしたら請求。余計な怪我も請求」
レオンが小声で首を傾げた。
「マスター、もっと請求を」
「四重にする」
「最高です」
会話だけ聞けば世界が終わっているが、段取りは崩れない。
変な連中ほど、仕事の手順だけはやけに正確だ。
「残り二百四十秒」
高橋が時間を刻む。
夕焼けの色が濃くなるにつれ、検問所の裏の空気が少しずつ冷えていく。
「残り百二十秒」
石の蓋の縁に、薄い影が落ちた。
人影はまだ見えない。
だが影だけが先に動くのは、いつだって厄介な相手だ。
「来るな」
俺が呟くと、高橋が短く返す。
「見えてる」
残り九十秒。
蓋がほんの僅かにずれた。
石が擦れるはずなのに、音がない。
残り六十秒。
暗い水路の中から手が出た。
白い指で、爪が短く整っている。
動きに迷いがない。
その手が、蓋の脇に置かれた包みへ伸びた。
囮だ。
軽い。
価値は低い。
指先が触れた瞬間、手は止まった。
迷ったのではなく、確かめている。
次に、少し離して置いたもう一つへ動く。
本命の位置だ。
見た目は同じだが、重みだけは揃えてある。
指が包みを掴んだ、その瞬間だった。
「今だ」
1号の声。
レオンが踏み込む。
壁の蜘蛛が糸を吐き、裏路地の出口を塞ぐ。
排水口の蜘蛛が水路側へ回り、戻る道を潰す。
受け取り手は跳ねるように身を引いた。
速い。
だが逃げる方向がない。
それでも相手は諦めず、路地へ飛び込もうとした。
その瞬間、視界がざらりと荒れた。
蜘蛛の映像が乱れたんじゃない。
映像を映している俺の視界そのものが、一瞬だけ歪む。
高橋が息を呑むのが分かった。
「今の……」
「本部だ」
言い切った自分の声が乾いて聞こえる。
嫌な確信だけがある。
澪の線に近づくたび、こうなる。
乱れが収まる。
その一瞬で、受け取り手は動いていた。
逃走。
合図を待っていたみたいに迷いがない。
レオンが追う。
「おいで」
優しい声で言うのが一番怖い。
受け取り手が路地へ飛び込む。
だが角には蜘蛛がいる。
糸が足首に絡み、逃げ足を鈍らせた。
よろけたところへ、1号が手首を取る。
関節を決める。
壊さない。
だが逃がさない。
「抵抗は無駄です」
受け取り手の肩が震えた。
顔は布で隠れているのに、目だけが冷たく濡れている。
ロザリーがしゃがみ込み、耳元へ柔らかい声を落とした。
「吐かなかったら、ずっとここにいるよ。ずっと」
受け取り手の呼吸が乱れる。
死が怖いんじゃない。
時間が奪われるのが怖い。
そういう怯え方だった。
ソフィアが布袋を投げる。
「口。噛まれたら請求」
布袋が被せられ、声が塞がる。
「移動します」
1号の指示で、検問所の死角へ引きずり込む。
蜘蛛の映像を切り替えると、受け取り手の胸元から薄い紙片が覗いていた。
高橋がそれを引き抜く。
白くて薄い。
滑る。
均一すぎる紙。
黒い印刷文字が並び、端に英数字が混ざっている。
「これ……王都の紙じゃない」
「地球の匂いだな」
高橋が喉を鳴らした。
1号が低い声で問う。
「澪はどこです」
受け取り手がぴくりと反応した瞬間、喉の奥が詰まったような音がして咳き込んだ。
苦しそうに肩が跳ね、息がうまく吸えない。
高橋が眉を寄せる。
「今の、演技じゃない。喋れないやつ」
ソフィアが淡々と頷いた。
「口封じ。毒じゃない。仕込み」
1号は一拍置いて、問いを変える。
「次の受取地点」
受け取り手は首を振った。
拒否というより、答えを出せない動きだ。
高橋が言う。
「場所そのものじゃなくて、条件なら。条件なら発動しない可能性がある」
1号が黙って視線を渡す。
高橋は頷き、短い質問を刻んだ。
「次は王都の外」
受け取り手が小さく頷く。
「水の近く」
頷く。
「石の蓋みたいな構造」
頷く。
「時刻指定は三百秒前」
頷く。
その頷き方が、妙に嫌だった。
こっちの人間の癖じゃない。
高橋は紙片の番号を指で隠しながら続ける。
「合図はこの番号だね」
受け取り手は露骨に視線を逸らした。
見たくない、触れたくない。
そういう反応だった。
高橋は紙片を引っ込め、息を吐く。
「番号体系がある。束で回してる。次も同じ形式で来る」
視界の端で、またノイズが走った。
短く鋭い、押さえつけるみたいな嫌悪。
向こうが嫌がるなら、こちらは近づいている。
1号が立ち上がる。
「情報は不完全です。ですが、十分です。王都の運用は止めません。外の準備をします」
レオンが拳を鳴らした。
「マスター。次は外ですか」
「仕事です」
「感謝です」
ロザリーが笑う。
「外なら燃やしていい?」
「だめ」
「つまんない」
そう言いながら、ロザリーの目はもう南門の外を見ていた。
俺はコタツの上で指を組む。
地点そのものは抜けないままだが、相手が動く条件と合図の癖は掴めた。
なら次は、条件の方から相手の足を縛ってやればいい。
先に場を作り、先に待ち、取りに来たところを押さえる。
視界のノイズが、もう一度だけ走った。
俺は湯飲みを置き、小さく息を吐く。
「……次は、先回りする」
夕焼けが沈む。
外の戦場が、ゆっくり形を持ち始めていた。




