第48話 聖域の晩餐と、陥落する聖騎士
要塞司令室のモニターには、無機質な廊下を歩く監査団の姿が映し出されている。
先ほどロザリーが焼き払った広大な灰の平原から一転、要塞の内部は、汚れ一つない白壁と、影を落とさないLEDの光に満ちていた。
俺は心地よい温度に保たれたコタツの中で、精神力回復ポーションの3本目を空にする。
脳を焼くような感覚が、冷たい魔力の奔流で強引に鎮められていく。
「高橋、食堂の準備は?」
「完璧よ。レオンに日本のスーパーから大量に買い込ませた冷凍の鶏肉を、1号が指示通りに調理しているわ。……ねぇ、本当にこれを見せつけるの? 相手は王都から来た最高位の聖職者たちなのよ」
「だからこそ意味がある。腹の減った人間に、神の教えは届かないが、揚げたての油の匂いは魂まで届く」
俺はマルチモニターの中央に、1号の視界を固定した。
1号に案内され、リオネル監査官や聖騎士セイルたちが辿り着いたのは、広々とした社員食堂だった。
そこには、神殿の質素な食堂とは比較にならない光景が広がっている。
ステンレス製のカウンターは鏡のように磨かれ、テーブルは汚れ一つない滑らかな樹脂製だ。
何より、部屋全体に充満している匂いが、彼らの理性を激しく揺さぶっていた。
「……なんだ、この匂いは。香草ではない、もっと……暴力的で、濃厚な」
リオネルが、自らの鼻を疑うように呟く。
ニンニクと生姜の刺激、そして、高温の油で肉が弾ける芳香。
空腹の極みにあった監査団の面々の喉が、一斉に鳴った。
彼らはこの数日間、王都から霧の森までの過酷な行軍を耐え、さらには先ほどのクレイモア地雷による大虐殺と、ロザリーの爆撃を目の当たりにしてきた。
精神的にも肉体的にも、彼らの防御壁はすでにボロボロだった。
「本日のメニューは、弊社自慢の若鶏の唐揚げです。監査業務における休憩時間の確保は、我が社の規定で義務付けられておりますので」
1号は、事務的な口調で彼らを席へと促した。
テーブルには、すでに黄金色に輝く山盛りの唐揚げが並げられている。
衣はカリッと音を立てそうなほどに立っており、そこから肉汁がじわりと滲み出していた。
そして、その傍らには、霜を纏うほどに冷やされた銀色の筒が置かれている。
「それは……何だ。金属の小瓶か?」
セイルが、警戒心と好奇心が混ざった目で缶ビールを見つめる。
「お飲み物です。非常に刺激が強いので、お気をつけて」
1号が、慣れた手つきでプルタブに指をかけた。
プシュッ!
その快音とも言える音が食堂に響き渡った。
筒の口から、白い冷気がふわりと立ち上る。
同時に、麦芽の香りと、喉を刺激する独特の苦い香りが広がった。
1号は迷いなく、それをキンキンに冷えたグラスへと注ぎ込んでいく。
黄金色の液体の上に、真っ白でクリーミーな泡が分厚い層を作る。
セイルは、目の前のグラスに吸い寄せられるように手を伸ばした。
彼が知るエールは、もっと温くて濁った、酸味の強い飲み物だ。
だが、この液体は、まるで宝石を溶かして氷に閉じ込めたような清涼感を放っている。
彼は震える手でグラスを掴み、一気に煽った。
「――っ!?」
彼の目が、驚愕に見開かれた。
口の中で弾ける、無数の針のような刺激。
喉を焼くような炭酸の快感。
そして、鼻から抜けるホップの爽やかな苦み。
最後に残るのは、これまでの疲れをすべて洗い流すような、圧倒的なキレだ。
「なん……だ、これは……。喉が、焼けるようなのに……清々しい……」
1号は、その様子を冷めた目で見つめながら、次の一手を打った。
「では、そのお飲み物が最高に引き立つ主菜をどうぞ」
1号が箸で唐揚げを1つ摘まみ、セイルの目の前に差し出す。
セイルは、もはや拒むことができなかった。
彼は獣のような勢いで、その熱い肉の塊を口に放り込んだ。
パリッ。
軽快な咀嚼音が、静まり返った食堂に響く。
直後、セイルの身体が、雷に打たれたように硬直した。
噛み締めた肉の隙間から、溜め込まれていた熱い肉汁が溢れ出し、口内を暴力的なまでの旨味で満たした。
ニンニクの香りと、濃い口の醤油、そして鶏肉そのものの脂。
それらが、魔法の触媒のようにセイルの脳内物質を爆発させた。
「……あ、あぐ……ッ!」
セイルは言葉にならない声を漏らし、狂ったように顎を動かし始めた。
2口、3口。咀嚼するたびに、彼はこれまで20数年の人生で信じてきた食の概念が、足元から崩れ去るのを感じていた。
神殿で出される泥の味がする硬いパンや、保存性だけを重視した、石のように味気ない干し肉が、砂利か何かに思えてくる。
本能が叫んでいる、これを求めていたのだと。
「セイル! 何をしている、正気に戻れ! それは毒だと言っただろう!」
隣でリオネルが叫び、セイルの肩を掴む。
だが、セイルはその手を振り払い、震える手で2つ目の唐揚げを掴み取った。
「……毒、ではありません……監査官……これは、これは……!」
セイルの目から、大粒の涙が零れ落ちる。
彼は唐揚げを口に押し込みながら、絞り出すように呻いた。
「帰りたくない……。神殿の、あの祈りと共に噛み砕く無味乾燥な粥や、水で薄めたような酸っぱいエールなんて……もう二度と口にしたくない! 私は……私は、ここで九条様の番犬として生きたい! この至高の快楽を守るためなら、私は神殿の剣さえ捨ててみせる……!」
「何を、何を言っているのだお前は……ッ!」
リオネルは絶句し、膝をつく部下を見下ろした。
だが、叫び続けるリオネルの鼻先にも、揚げたての油の匂いが容赦なくまとわりつく。
1号が、無造作に山盛りの皿をリオネルの前に突き出した。
「監査官。冷めると油が回って重くなります。まずは1口、公務として確認されてはいかがですか。部下がここまで乱心した原因を、その身で確かめるのも責任者の務めでしょう」
「……っ。愚かなことを……」
リオネルは震える手で、黄金の塊を掴んだ。
指先に伝わる熱と油。
彼は覚悟を決め、その肉塊に食らいついた。
パリッ、ジュワッ。
リオネルの思考が、真っ白に塗りつぶされた。
舌の上で踊る、圧倒的なアミノ酸の奔流。
神殿の教典には、食は命を繋ぐための苦行であると記されている。
だが今、彼の脳を支配しているのは、苦行とは対極にある、純粋なまでの快楽だった。
彼は気づいてしまった。自分たちが一生を捧げて仕えてきた神は、1度もこれほどの多幸感を与えてはくれなかったことを。
「……ああ」
リオネルはビールが注がれたグラスを両手で掴み、一気に飲み干す。
喉を突き刺す強烈な炭酸が、脂っこくなった口内を劇的に洗浄し、次の「1口」を強烈に要求した。
「……セイル。お前の言う通りだ……」
リオネルは、唐揚げを口に運ぶ手を止められず、涙を流しながら笑った。
「神殿には……天国などなかった。……神は、ここにいたのだ。この鉄の城に、本物の神がいらっしゃったのだ……!」
2人の最高位聖職者が、社員食堂の椅子に座り込み、なりふり構わず唐揚げを貪り食う。
スーツ姿の1号は、その無様な姿を冷淡に見下ろしながら、手元の端末に接待完了のチェックを入れた。
司令室のコタツの中で、俺は最後の1口のポーションを飲み干し、マルチモニターを消した。
脳にかかっていた圧迫感が、一気に霧散していく。
「……落ちたわね」
高橋が、呆れたように呟く。
「ええ。人間、一番根源的な欲求を支配されると、理屈なんて一瞬で消し飛ぶ。……これでいい。明日からの監査は、驚くほどスムーズに進むぞ」
俺はホワイトボードに、新しい1行を書き足した。
《監査団・買収完了:コスト(鶏肉10キロ、ビール3ケース)》
命を懸けた正義。何十年と積み上げた信仰。
それらが、地球のスーパーで特売されていた鶏肉と、工場で量産されたビールによって、無価値なガラクタへと書き換えられた。
これこそが、俺が最も得意とするROIの極致だ。
「さあ、高橋」
俺はペンを回し、不敵に笑った。
「大口顧客への報告書を作ろうか。……この箱庭は、今、劇的に価値を上げているとね」
窓の外では、2つの月が冷たく要塞を照らしていた。
だが、その内側には、かつてないほど濃厚で、背徳的な脂の匂いが満ちていた。




