第46話 監査中の非常事態と、300秒の防衛線
要塞司令室の空気は、外部の喧騒とは無縁の静寂を保っている。
俺はコタツに深く潜り込み、ポテチの最後の1欠片を口に放り込んだ。
壁一面を埋め尽くす大型モニターには、複数の視点から霧の森の境界線が映し出されている。
「地鳴り……いや、これは個体数の暴力ね。推定、3000。いえ、さらに奥から増援の反応があるわ」
隣で端末を叩く高橋の声に、焦りはない。
あるのは、これから始まる作業の規模に対する、事務的な見積もりだけだ。
彼女の背後のサブモニターには、日本支部となった旧タイタン商事の倉庫から流れてきたばかりの補給物資リストが並んでいる。
「3000か。1匹あたりの処理コストを魔石換算で弾いておけ。オーバーキルは経費の無駄だ」
俺はインカムの回線を、門前に立つ1号へと繋いだ。
現場。
黒鉄の門の前で、監査団の連中は文字通り凍り付いていた。
若い聖騎士セイルが、震える手で剣を抜き放つ。
その顔には、教科書通りの正義と、死を覚悟した者の悲壮感が張り付いている。
「くるぞ……! この魔圧、ただの群れではない! 神官長、すぐに王都へ援軍の要請を!」
セイルの叫びに、監査官リオネルが苦々しく顔を歪める。
彼は胸元の聖印を握りしめ、必死に術式の構築を試みていた。
彼らにとにとって、スタンピードとは、命を薪にして奇跡を燃やし、1秒でも長く民を逃がすための聖戦なのだ。
だが、俺にとっては違う。
これは単なる害獣による施設への物理干渉であり、早急に処理すべきシステムのノイズに過ぎない。
「聖騎士様、剣を収めてください。邪魔です」
1号が、無機質な声でセイルの言葉を遮った。
黒いスーツの裾を整えながら、1号は悠然と1歩前へ出る。
その背後で、要塞の壁面に等間隔で配置された鉄の箱が、駆動音を立てて起動した。
「なっ、貴様……何を言っている!? 相手は数千の魔獣だぞ! 退け! ここは我ら神殿の盾が――」
「その盾が壊れた際、我が社が支払う見舞金と、神殿への弔慰金の総額を計算したことがありますか?」
1号の問いに、セイルが言葉を失う。
1号は視線をセイルから外し、霧の向こうから迫る黒い波を凝視した。
「熟練した聖騎士1名を育成するコスト、その後の活動寿命による期待収益、および装備の維持費。それらを合計すれば、ここであなた方が無駄死にすることは、経済的に極めて大きな損失です。我が社の敷地内でそのような赤字を出されるのは、非常に困るんですよ」
「経済的、損失……? 命の話をしているんだぞ!」
セイルの憤りなど、1号は意に介さない。
彼は耳元のインカムに軽く指を添えた。
「オーナー、観測地点A付近に先遣隊が到達。防衛フェーズ・アルファへの移行を推奨します」
「承認だ。レオン、1歩も通すな。ただし、自分の耐久テストに夢中になって門を壊すなよ」
俺の指示が飛ぶと同時に、門の横で待機していたレオンが、嬉しそうに盾を打ち鳴らした。
「御意! 異世界の獣どもの熱量、この魂で、肉体で、余すところなく受け止めましょう!」
黄金の騎士が、弾かれたように前進した。
それと同時に、要塞の屋上に設置された複数の大型投光器が、轟音と共に点灯する。
カッ!!
太陽を地上に引きずり下ろしたかのような、暴虐なまでの白い光。
夜目の利く魔獣たちにとって、それは光ではなく、眼球を直接焼き切る物理的な攻撃だった。
「ギャアアアアッ!!」
先頭を走っていた魔獣の群れが、突然の閃光に平衡感覚を失い、次々と転倒する。
だが、これはほんの序の口だ。
「セイル、神官たちを下がらせろ。これより、清掃作業を開始する」
1号が静かに告げると、要塞の壁から何かが射出された。
それは、プロペラの回転音を響かせる、数10機の斥候蜘蛛・空戦型だ。
監査団の面々は、ただ呆然と、自分たちの理解を超えた奇跡の光景を見上げることしかできなかった。
そこには祈りも、詠唱も、自己犠牲の精神も存在しない。
あるのはただ、対象を効率的に排除するためだけに最適化された、冷徹な計算式だけだった。
大型投光器が作り出した偽りの昼。
光に目を焼かれた数千の魔獣が、狂乱の中で折り重なり、黒い津波となって押し寄せてくる。
その圧倒的な質量を前に、聖騎士セイルは剣を握り直すが、その膝は微かに震えていた。
「くるぞ……総員、神の加護を信じろ! 第1陣、盾を構え――」
「5、4、3」
1号の淡々としたカウントダウンが、セイルの鼓舞を冷酷に上書きする。
「2、1。……着火」
瞬間、音は消えた。
いや、あまりにも巨大な衝撃波が、鼓膜の機能を一時的に奪ったのだ。
要塞から50メートル地点。あらかじめ土中に埋設されていた対魔獣用指向性散弾、現代のクレイモア地雷が、座標に連動して一斉に起動した。
魔力など一切介在しない、純粋な火薬と物理法則による暴力。
数万個の鋼鉄製ベアリングが、扇状の死域を形成し、最前列の魔獣たちを文字通り細切れの肉塊へと変えていく。
監査団の目には、何が起きたのかさえ分からなかっただろう。
詠唱はない。魔法陣の輝きもない。
ただ、1号が指を鳴らした瞬間、前方の魔獣たちが透明な巨人に叩き潰されたかのように、一瞬で赤い飛沫へと変わったのだから。
「な……風魔法……? いや、真空の刃か!?」
リオネルが叫ぶが、その答えを待つ猶予などない。
第1陣の残骸を乗り越え、第2陣、第3陣が血の匂いに狂って突っ込んでくる。
「ロザリー、収穫作業に移れ。レオン、漏れたのを拾え。タイムリミットはあと300秒だ」
司令室で俺が命じると、要塞の屋上で欠伸をしていた銀髪の少女が、身の丈ほどの杖を優雅に掲げた。
「ふふ、お任せくださいませ。壊しすぎないように、丁寧にお掃除してあげますわ」
ロザリーが放ったのは、巨大な爆炎ではなかった。
指先から放たれた無数の細い光線――超高出力のレーザー照射が、魔獣たちの眉間を、正確に、そして慈悲なく貫いていく。
脳幹を直接焼き切る。それは魔石に一切の傷をつけず、素材としての価値を最大に保ったまま絶命させる、極限の職人芸だ。
ドォン、ドォン、と重厚な音を立てて、Sランク級の魔獣たちが次々と沈んでいく。
かつて王都を滅ぼしかけた変異種が、ベルトコンベアに乗せられた製品のように、一定のサイクルで処理されていく光景。
「……ありえない」
セイルの手から、剣が滑り落ちた。
彼らが命を懸け、信仰を盾にして立ち向かうべきはずの厄災が、ここではただの不燃ゴミの回収作業として処理されている。
正義も、勇気も、ここには必要ない。
あるのは、1号が手元の端末で確認している処理効率という名の無機質なグラフだけだ。
「よし、9割沈んだな。レオン、残りは好きにしていいぞ」
「待っていました! この飢え、この渇き! さあ、私の肉体を削り、魂を震わせてくれ!」
門の前で待機していた金髪の騎士が、自ら鎧の留め金を外し、上半身を晒して魔獣の群れへとダイブした。
狂気。それ以外の言葉が見当たらない。
生き残った魔獣の牙がレオンの肩に食い込み、鋭い爪がその胸を切り裂く。
だが、彼は恍惚とした笑みを浮かべ、素手で魔獣の顎を叩き折っていく。
「ギャハハハ! 痛い! 実に痛いぞ! これこそが我が主への忠誠の証!」
その背後から、ソフィアが冷めた声で魔法を飛ばす。
「はいはい、残業代は出ませんよ。修理コストが嵩むから、さっさと終わらせなさい」
淡い光がレオンを包み、肉が盛り上がり、血が止まる。
傷ついては治り、治っては突っ込む。
死すらもコスト管理の支配下にある光景。
監査団の神官たちは、ついに膝をついて祈り始めた。
それが神への祈りなのか、目の前の化け物たちに対する畏怖なのかは、誰にも分からない。
5分。
予告通り、300秒が経過した。
霧の森の入り口には、静寂が戻っていた。
数千の魔獣は、1匹の例外もなく、物言わぬ死体の山へと姿を変えている。
門の前に立つ1号は、スーツの袖についた僅かな埃を払い、動揺しきったリオネルに向き直った。
「監査官、本日の定時防衛業務は以上となります」
1号は懐から1枚の書面を取り出し、リオネルの鼻先に突きつけた。
「これは……何だ?」
リオネルが震える手でそれを受け取る。
そこには、今日の戦闘で使用された物資、魔力消費、人件費、および「監査協力に伴う特別防衛手数料」という名の、目が眩むような金額が記されていた。
「今回、あなた方の安全を確保するために我が社が費やしたコストの見積書です。……さて、これを神殿側でご負担いただけますか? それとも、この箱庭プロジェクトの共犯者として、別の形での支払いをご検討いただけますでしょうか」
1号の冷たい笑みが、夕闇に溶け込んだ。
数字で殴り、利益で縛る。
神殿という巨大な権威が、九条の計算機の中に飲み込まれた瞬間だった。




