第42話 王都の神殿と、監査団の出立
石畳を叩く蹄の音が、嫌になるほど澄んでいた。
ボルドー伯爵は馬車のカーテンをわずかに開き、外を盗み見た。行き交う人影。磨かれた鎧を着た衛兵。香草と焼き菓子の匂いが混ざる大通り。
――王都。自分の領の泥道とは、同じ国とは思えない。
馬車が緩やかに速度を落とす。顔を上げると、視界いっぱいに白い石の階段が立ち上がっていた。山のような神殿だった。
磨かれた白大理石。空を切り取る巨大な三角屋根。正面には金色の装飾が施された扉。その上には、祈る女神の浮き彫り。
ボルドーは、思わず舌打ちしそうになる衝動を飲み込んだ。
(こんなものに、毎年どれだけ金を注ぎ込んでいると思っている)
だが、ここで顔に出すわけにはいかない。
馬車が止まり、従者が慌てて扉を開ける。石の階段を見上げた瞬間、足がすくみそうになったのは、年のせいだけではなかった。
「殿」
後ろから、参謀の老人が小声で囁く。
「お気を確かに。ここで敵を作るわけには参りませぬ」
「分かっておる」
ボルドーは、腹の肉を揺らしながら階段を上り始めた。1段、2段、3段。息が上がる。胸が苦しい。ふと昨夜、黒鉄の城の前で感じたのとは違う種類の圧迫感を覚える。
あちらは、牙を剥いた獣の重圧。こちらは、絹で首を絞めるような、静かな締め付けだ。
やけに、扉の前に辿り着く。神官服を着た若い男が、慇懃な笑みを浮かべて頭を下げた。
「ボルドー伯爵様。ようこそ神殿へ。高位神官様がお待ちです。どうぞこちらへ」
案内されるままに、冷たい石の廊下を進む。彩色ガラス越しに差し込む光が、床に赤や青の模様を落としていた。香の匂いが鼻をくすぐる。壁には、神々の武勲を描いた絵。魔獣を1撃で薙ぎ払う聖騎士、病人に手をかざす白衣の聖女。
ボルドーは、ほんの1瞬だけソフィアの顔を思い出し、慌てて頭を振った。
(あれと一緒にするな)
奥まった小部屋の前で、案内役が立ち止まった。
「こちらでございます」
扉が開かれる。部屋の中は意外なほど質素だった。長机と椅子が数脚。壁には書棚。窓からは、神殿中庭の木々が見える。
机の向こう側に、1人の男が座っていた。髪と顎鬚に白いものが混じり始めた中年。純白の神官服に、金糸の刺繍。胸元には神殿紋章のブローチ。目だけが、笑っていない。
「遠路はるばる、ご苦労でした、ボルドー卿」
高位神官が立ち上がり、軽く頭を下げた。
「わたくしはラグナ=エルド。王都神殿の評議員の1人です。お座りください。霧の森の件を、詳しくお聞かせ願いましょう」
ボルドーは、喉の奥がひりつくのを感じた。王城の役人と違い、神殿の人間は笑顔で人を切る。それを、地方の領主は嫌というほど知っている。それでも、ここまで来た以上、引き返すわけにはいかない。
「……霧の森に、『城』が現れました」
ボルドーは、椅子に腰掛けると、真正面から言葉を絞り出した。
「黒鉄の城です。魔獣どもの巣のど真ん中に、異物のように立っている。そこから現れた者たちが、我が兵を……」
昨夜の光景が蘇る。粘つく床、絡みつく糸、折られる骨。キーワードそして、翌朝には湯気の立つスープと共に返された部下たち。喉の奥で何かがごろりと転がる感覚を、酒で流し込みたくなる。
「兵を傷つけられたのですね」
ラグナが静かに問う。
「……ああ。だが、それだけではない」
ボルドーは、拳を握りしめた。
「奴らは、傷つけた我が兵を治癒した。村の医者でも出来ぬような治療を、1夜でやってのけた」
ラグナの目が、わずかに細くなる。
「治癒の……奇跡、ですか」
「他にもだ」
ボルドーは続ける。
「魔獣を退け、病を癒やし、食をばらまく。領主たるこのボルドーに断りもなく、霧の森で好き勝手に『奇跡』を売り歩いている」
最後の言葉は、怒りと恐怖と屈辱が混じっていた。
「もし奴らが、神の名を騙る者であれば――それは、神殿の権威を踏みにじるものではありませんか」
ラグナは、静かに頷いた。穏やかな笑みは崩さない。だが、その目の奥に、冷たい光が灯る。
「……確かに。神の名を語って奇跡を振るう者がいれば、調べねばなりません」
ラグナは机の上に指を置き、軽く叩いた。
「ですが、まずは確認からです。神々の『帳簿』に、その城の名が記されていないかどうか」
「帳簿?」
「ええ。世界中で行われた奇跡は、1つ残らず記録されています」
ラグナは、まるで今日の天気の話でもするような口調で言った。
「霧の森に、新しい『奇跡の拠点』が登録されているか――それを確かめるのが、わたしたちの役目です」
ボルドーは、その言葉の意味を掴みかねて、眉をひそめた。だが、ラグナはそれ以上説明しようとはしない。
「詳しいことは、こちらの務めです。ボルドー卿は、領民のことだけ考えていてください」
そう言って、ラグナは柔らかく微笑んだ。
「黒鉄の城については、神殿から正式に調査団を出しましょう。その結果は、しかるべき時に、王都と貴殿のもとへ」
ボルドーの胸の奥に、別種の冷たさが広がった。それは安心ではない。毒の味を確かめる前に、誰かに「預かろう」と言われたときに覚える感覚だ。
「……お任せする」
そう言うしかなかった。神殿に反旗を翻せる領主など、この国にはいない。
ラグナは、満足げに1度だけ頷いた。
「では、わたくしどもも『記録』を改めておきます。霧の森に関する報告は、他にもいくつか届いておりますので」
「他にも?」
ボルドーが思わず聞き返す。
ラグナは、うっすらと笑みを深めた。
「勇敢な冒険者や、好奇心旺盛な商人は多いものでして。『黒鉄の城で奇妙な品が売られている』という噂は、既に王都にも届いていますよ」
ボルドーの背中に、冷たい汗が流れた。霧の森は、もう辺境だけの問題ではない。黒鉄の城は、すでに王都の遊び場になりつつある。
「……早く、調べてくれ」
ボルドーは、絞り出すように言った。
「奴らが神の使いならいい。そうでないなら――」
「ええ」
ラグナが静かに頷く。
「しかるべき処置を」
その声には、微塵も迷いがなかった。
信徒も兵も立ち入れない、神殿の奥。厚い扉に2つの鍵。1つは銀、もう1つは黒鉄。
ラグナは2本の鍵を順に差し込み、低く呟いた。
「開け」
重い金属音。扉が、石の床を擦るように少しずつ開いていく。
部屋の中は、薄暗かった。中央に置かれた祭壇の上に、1つの箱が鎮座している。古い聖櫃を思わせる形。だが、表面は滑らかな金属で覆われ、継ぎ目には微かな光が走っている。
箱の上には、板のようなものが伏せられていた。
「……失礼いたします」
ラグナはひざまずき、胸に手を当てる。横に控えた若い補佐神官も同じように祈りの姿勢を取る。形式は祈り。だが、その目は、箱の上の板をじっと見つめていた。
ラグナは立ち上がると、そっと板に触れた。淡い光が浮かび上がる。板の上に、文字とも記号ともつかぬ光の粒が並び、くるくると回転しながら列を成していく。
「……また、書式が変わったな」
ラグナがほんの少しだけ肩をすくめた。
「神々の市場の連中は、本当に気まぐれだ」
補佐神官が息を呑む。
「評議員様、それを口にしては――」
「ここには耳はない」
ラグナは笑い、指先で光の列をなぞる。
「さあ、霧の森を見せてもらおうか」
光が、きらりと色を変えた。幾本もの線が絡まり、1つの地図のようなものを形作る。その一角に、小さな印が明滅した。
「……あった」
ラグナは目を細める。
「北方辺境、霧の森。新規拠点のフラグ――『黒鉄要塞(仮)』」
光の下に、いくつかの文字列が並ぶ。
『無許可の奇跡行使:件数 **
監査候補リスト:追加済』
補佐神官が、ごくりと喉を鳴らした。
「……やはり、記録されているのですね」
「あれだけ派手にやればな」
ラグナは、指先を滑らせて別の欄を開いた。
「問題は、その背後だ」
光が切り替わる。新たなリストが、縦に並んだ。その中に、1つだけ、埋めに目を引く行があった。
『迷子魂:ID【MIO-***】
出自:地球/日本
現状:延命処置→聖域隔離→座標転送
現在地:箱庭世界/北域“世界樹計画”』
補佐神官が顔をしかめる。
「……また地球ですか。あの世界は、本当に厄介な魂ばかり送ってきますね」
「黙りなさい」
ラグナが短く制した。
「上の機嫌を損ねたいのか」
光の端に、小さく赤字が点滅している。
『※当該案件:上位管理レイヤー監督下
現地での干渉状況:要報告』
ラグナは、そこだけを目でなぞった。
(――霧の森。黒鉄の城。迷子の魂)
断片が、1つの線で繋がる。ラグナは、ゆっくりと目を閉じた。
「……市場は、先に手を打っていたわけだ」
箱庭世界。世界樹計画。上の連中は、この世界のことなど、ただの数字と在庫だとしか見ていない。だが――。
「神殿を無視して好き放題されては、示しがつかん」
ラグナは目を開けた。
「補佐。霧の森に監査団を送る準備を始めなさい」
「はっ」
「名目は、奇跡を真似る異端の調査。実際には、黒鉄の城がどこまで上と繋がっているかを測る」
光る板の上で、霧の森の印がまた1つ明滅した。
「上への報告も忘れるな。『特別案件の魂に、現地から不審な干渉あり』――そう書いておけば、向こうも無視はできまい」
補佐神官が頷き、慌ただしく部屋を出ていく。
静寂が戻る。ラグナはひとり、光の地図を見つめ続けた。
霧の森に灯った、小さな印。黒鉄の城。そして、その向こう側に繋がる市場の気配。
「……さて」
彼は呟いた。
「神々の市場と、神殿と、地上の黒鉄の城。この3つを、どう並べ替えるべきか」
光が、静かに脈打った。




