第31話 退職の朝と、置き土産の時限爆弾
翌朝。
午前8時50分。
タイタン商事、中央物流センター。
始業のチャイムが鳴る10分前、事務所はすでに戦場のように殺気立っていた。
電話のベルが鳴り止まず、怒号が飛び交う。ここにあるのは、物流という名の暴力だ。
「おい田中! 何ボケッとしてんだ! 今日の配置はB-4エリアだと言っただろうが!」
現場監督の男が、入ってきた初老の男――田中の皮を被った1号に向かって唾を飛ばした。
昨日までなら、田中は「申し訳ありません」と頭を下げ、小走りで現場へ向かっていただろう。
だが、今日は違った。
田中はゆっくりと、監督のデスクの前まで歩み寄る。
その足取りには、一切の迷いも、社畜特有の卑屈さもない。
彼は懐から一通の白い封筒を取り出すと、監督の目の前にペラリと置いた。
「……あ?」
監督が眉をひそめる。
封筒の表書きには、達筆な文字で『退職届』と書かれていた。
「……なんだこれは」
「字が読めませんか? 退職届です」
田中は、しわがれた声で淡々と告げた。
事務所の空気が凍りつく。周囲の社員たちが、ギョッとして手を止めた。
この会社で、これほど堂々と退職を叩きつける者など、今までいなかったからだ。大抵はバックれるか、過労で倒れて消えていくかのどちらかだ。
「ふざけんなよ、ジジイ!」
監督がバンッと机を叩いて立ち上がった。
顔を真っ赤にして捲し立てる。
「今が一番の繁忙期だぞ! 代わりなんていねえんだよ!
辞めるなら3ヶ月前に言えって就業規則にも書いてあんだろ!
損害賠償請求すんぞコラ!」
ありふれた脅し文句。恐怖で縛り付け、思考を停止させるための呪文。
だが、田中は鼻で笑った。
「賠償? どうぞご自由に」
彼はポケットから、一枚の紙片を取り出して見せつけた。
それは、高橋が偽造した『ロト7の1等当選証明書』の写しだ。
金額、10億円。
「……は?」
監督の目が点になる。
「当たりましてね。10億」
田中は、人生のすべてを達観したような、穏やかで残酷な笑みを浮かべた。
「弁護士費用でも、違約金でも、いくらでも払いますよ。
金なら腐るほどあるんでね。
ああ、それと……」
田中は首にかけていたGPS付きの管理タグを引きちぎり、監督のデスクに放り投げた。
ガシャン、と硬い音が響く。
「こんな首輪で繋がなきゃ人が居つかないような会社、さっさと潰れた方がいいですよ。
では、お元気で」
「ま、待て! おい田中! 田中さァん!?」
監督が慌ててデスクを回り込み、すがりつこうとする。
だが、田中は振り返らなかった。
10億持った人間に、現場監督の怒号など、道端の犬の鳴き声ほどにも響かない。
彼は軽やかな足取りで事務所を出て行き、自動ドアの向こうにある朝の光の中へと消えていった。
あとには、呆然とする監督と、どよめく社員たちだけが残された。
それが、地獄の始まりだとも知らずに。
***
同時刻。
埼玉拠点、5階リビング。
モニター越しにその茶番劇を見届けた俺は、コタツの中で腹を抱えて笑っていた。
「……最高だ。ナイス演技だ、1号」
あの宝くじはもちろん偽造だが、今の俺の資産状況からすれば、あながち嘘でもない。
俺は視界に浮かぶウィンドウを操作し、回収コマンドを選択する。
(戻れ)
会社の敷地を出て、監視カメラのない路地裏に入った1号が、光の粒子となって消える。
数秒後、俺の手元に30センチの人形が転がり落ちてきた。
「【受取】完了」
俺は人形を手に取る。
3ヶ月間、片道2時間半の通勤と過酷な労働を耐え抜いた功労者だ。
普通ならここで休暇やメンテナンスを入れるところだろう。
だが、俺はROIの鬼だ。稼働可能な資産を遊ばせておく趣味はない。
「よし、休憩終わりだ。次の仕事に行くぞ」
俺は人形の首についている【欺きのチョーカー】の設定を操作する。
初老の「田中」から、無個性な「荷運び人夫A」の外見へ変更。
田中のままでは足がつく。別人として再利用する。
「行ってこい、1号。
今日からお前は、高橋パーティの専属荷物持ちだ」
「【配送】」
手元の人形が、抗議する間もなく消え失せる。
奴には休む権利も、辞める権利もない。稼げる限り、死ぬまで働いてもらう。
「さて……と」
俺はモニターのチャンネルを切り替えた。
映し出されているのは、タイタン商事の希少素材保管庫だ。
1号が去った際に、天井の隅に1匹だけ『斥候蜘蛛』を残しておいたのだ。
画面の中。田中の退職騒ぎでざわついていた現場に、新たな悲鳴が響き渡ったのは、それから10分後のことだった。
「か、課長!! もう隠しきれません!!」
真っ青な顔をした倉庫番が、転がるように事務所へ駆け込んでくる。
「あぁ!? なんだうるせえな! 田中の件ならもういい、求人を出せ!」
「違います! 在庫です!
昨日の棚卸しで見つかった『魔石消失』の件……報告しないとマズいです!」
倉庫番の悲鳴に、監督の顔色が変わった。
昨日の夕方、四半期に一度の棚卸しが行われた際、数値が合わないことは発覚していた。
だが、監督たちはそれを上に報告せず、夜通し再カウントをして「何かの間違いだ」と現実逃避をしていたのだ。
「バカ野郎! 声がデカい!
で、どうだったんだ! 数え間違いだったんだろ!?」
「ち、違います……!
何度確認しても、『Bランク高純度魔石』のコンテナだけ、中身が空っぽなんです!」
倉庫番が泣きそうな声で訴える。
「他のミスリルやアダマンタイトは無事です!
なぜか、一番回転率が良くて現金化しやすい『Bランク魔石』だけが、一つ残らず消えています!」
「……は?」
監督の手から、缶コーヒーが滑り落ちた。
「ぜ、全部……だと?
数十億だぞ……?
泥棒が入った形跡は!?」
「ありません! 電子ロックは正常、警報ログもなし!
カメラにも、怪しい人物は映っていません!」
「じゃあなんだ! 荷物が足を生やして逃げたって言うのか!」
一夜明けても現実は変わらなかった。
俺が3ヶ月かけて、毎日コツコツと「中身だけ」を抜き取っていたのだ。
重い金属には手を付けず、最もROIの高い魔石だけを狙い撃ちにした、見えない横領。
「た、田中……!」
監督が、何かに気づいたように叫んだ。
「あいつだ! あいつが毎日、あのエリアを掃除していた!
あいつが辞めたタイミングと一致しすぎている!」
画面の中、大の大人が顔面蒼白で右往左往している。
取引先からの「魔石の納期はどうなってるんだ」という電話が鳴り響く。
だが、送るべき商品は、もうどこにもない。
「……ふッ」
コタツの中で、俺は短く笑った。
気持ちがいい。隠蔽体質の組織が、自らの膿で窒息していく様を見るのは。
「慌てるなよ、タイタン商事。
在庫がないなら、買えばいいだろう?
……『協会』からな」
俺はインカムのスイッチを入れた。
「高橋、1号が着いたら仕事だ。
ダンピング――不当廉売の時間だ。
俺たちが奪った『Bランク魔石』の山を、一気に『探索者協会』に持ち込め。
市場がパンクする量を流し込め」
直接取引などしない。
協会という公的な市場に、安く大量に流す。
そうすれば、市場価格は暴落し、在庫を持たないタイタンは、高値で仕入れることもできず、安値で売ることもできず、ただ干上がっていく。
「価格破壊の始まりだ。たっぷりと味わわせてやるよ」
***
数時間後。
都内、探索者協会本部・買取カウンター。
その日、協会のロビーは異様な熱気に包まれていた。
「……お、おい。あれ見ろよ」
「ファントム・ロジスティクスだ……またかよ」
「いや、今日は量が違うぞ」
ざわめく探索者たちの視線の先。
カウンターの前で、金髪の騎士レオンが両手を広げていた。
彼が空間に手を突っ込むたびに、ゴロゴロと溢れ出してくるのは、鈍く、しかし力強い光を放つ『Bランク・高純度魔石』の山だ。
「え、ちょ、ちょっと待ってください!」
受付嬢が悲鳴を上げる。
「ま、まだ出すんですか!? トレイに乗り切りません!」
「まだまだです! 私の胃袋は宇宙! 愛の在庫処分セールです!」
レオンは止まらない。
100個、500個、1000個……。
Aランクほどの希少性はないが、市場での需要が最も高いBランク魔石。
それが、通常のクランが数年かけて集めるような量で、砂利のように積み上げられていく。
「鑑定完了しました……!
す、すべて『純度A判定』以上! 傷なし、魔力欠損なしの最高品質です!」
鑑定士の声が裏返る。
ロビーが静まり返り、そして爆発的な喧騒に包まれた。
「全部最高品質だと!?」
「これだけの量が市場に出れば……相場が変わるぞ!」
その中心で、高橋は涼しい顔をして告げた。
「すべて換金で。
……ああ、それと。私たちは『薄利多売』がモットーですので。
協会の買取査定に色をつけてもらう必要はありません。
その代わり、メーカーへの卸値を下げて、広く流通させてください」
慈悲深い聖女のような提案。
だがその実態は、競合他社を殺すための毒饅頭だ。
***
翌日。
都内某所、国家魔力監視機関本部。
薄暗い執務室で、特務捜査官の鬼道は、部下からの報告書に目を通していた。
「……ファントム・ロジスティクスが、Bランク魔石を数千個単位で換金?」
鬼道の目が、獲物を見つけた猛禽類のように細められた。
「はい。市場価格が暴落するほどの量です。
出所は不明ですが、すべて『傷ひとつない』最高品質だとか」
「……傷ひとつない、か」
鬼道は手元の資料を机に放り投げた。
彼の脳裏に蘇るのは、数ヶ月前、クロノス・ロジスティクスの応接室で見た光景だ。
あの時、自分が腕を切り落とした人形。
そして、その人形を操っていた「見えない何者か」。
あの時も、クロノスの裏帳簿が消え、会社が潰れた。
そして今度は、タイタン商事で在庫消失騒ぎがあり、直後にファントムが大量の魔石を売却している。
「……繋がったな」
鬼道は口元を歪め、獰猛に笑った。
「小杉の時の、あのネズミだ。
あの時は尻尾を掴み損ねたが……随分と大きく育ったようだな」
彼は端末を取り出し、短い指令を打ち込んだ。
「ファントム・ロジスティクスを、最重要監視対象に指定しろ。
それと、タイタン商事の動きも見張れ。
……近いうちに、必ず接触がある」
「はっ!」
部下が敬礼して退出していく。
鬼道は窓の外、広がる東京の街を見下ろした。
「隠れているつもりだろうが、そうはいかんぞ。
その金と欲の臭いは、隠しようがない」
***
埼玉拠点。
俺は神マケの通知音で目を覚ました。
《換金完了:本日の売上 300,000,000クレジット》
3億。
画面に表示された数字を見て、俺は震えた。
たった一日で3億。
仕入れ値はゼロ。利益率は測定不能だ。
Aランク魔石ほどの単価はないが、Bランクの圧倒的な「量」が、この莫大な金額を叩き出したのだ。
「……動き出したな」
俺はモニターの隅に映る、ニュース映像を見た。
タイタン商事の株価急落を伝えるテロップ。
巨人が膝をつき始めている。
だが、これで終わるような相手じゃないことは、俺が一番よく知っている。
クロノスが「悪徳商人」なら、タイタンは「暴力装置」だ。
追い詰められた獣は、必ず牙を剥く。
「来るなら来いよ」
俺はコタツの中で、冷めたピザをかじった。
「返り討ちにして、その牙ごと引っこ抜いてやる」
第2ラウンドのゴングは、すでに鳴っていた。
「それに……」
俺は視線を別のウィンドウ――以前、クロノス時代に座標登録した『隠し金庫』のリストへと移した。
そこにはまだ、手つかずのまま眠っている『Aランク・ドラゴンの欠片』が山のようにある。
一つ100万の超高級素材だ。
今回のBランク魔石の放出は、あくまでジャブに過ぎない。
本命はこっちだ。
「だが、まだ早い」
今のファントムは、世間的にはCランクからBランクへ上がろうとしている新興勢力だ。
そんな連中が、いきなりAランク素材を大量に持ち込めば、いくらなんでも不自然すぎる。
サードアイだけでなく、世界中の組織に目をつけられるだろう。
「高橋、もっと強くなれ」
俺はモニターの向こう、魔石の山を前にして疲労困憊の高橋に向けて呟いた。
「お前たちがAランクパーティになった時。
その時こそ、この100億の在庫を一気に市場へ流す」
その時、ファントムは名実ともに伝説になる。
そして俺の懐には、澪を救うための1000億への道が、はっきりと刻まれるはずだ。
俺は残りのピザをコーラで流し込み、来るべき大暴落の時を夢想して、不敵に笑った。




