第30話 片道2時間半の地獄と、見えない横領
午前4時30分。
まだ夜も明けきらない埼玉拠点、5階のリビング。
目覚まし時計のアラームが鳴る前に、ソファで寝ていた男が跳ね起きた。
「……はぁ。朝か」
重たい溜め息をついたのは、俺の分身である1号だ。
ただし、その姿は以前の俺ではない。
Aランク魔導具【欺きのチョーカー】によって偽装された、白髪交じりの初老の男――通称『田中さん』だ。
背中は丸まり、顔には長年の苦労が刻み込まれたような皺がある。
完璧な、使い潰されそうな社畜の擬態だ。
「行ってきます、本体」
1号がよろよろと玄関へ向かう。
「おう。早く帰って来いよ、夜はダンジョンだ」
俺はコタツに入ったまま、ポテチをつまみながら見送った。
これから彼を待ち受けているのは、地獄の通勤ラッシュだ。
埼玉の田舎にある隠れ家から、湾岸エリアにある『タイタン商事・中央物流センター』まで。
乗り換え3回、片道2時間半。
往復で5時間。
人生の5分の1を通勤に費やす、デスマーチの始まりだ。
「……往復5時間働いて、夜はダンジョンですか。俺、何のために生きてるんでしょうか」
1号が玄関で靴を履きながら、虚ろな目で呟く。
だが、拒否権はない。
彼は俺であり、俺の目的である1000億のために作られた存在だからだ。
1号は、自分自身の運命を呪うように呟きながら、朝の闇へと消えていった。
数時間後。
午前8時。
ラッシュアワーのピークを迎えた都心の駅。
その人波に逆らうように、一人の女性が不機嫌そうに立っていた。
「……近い。息がかかる」
高橋だ。
彼女が持っているのは、黒いアタッシュケースが一つだけ。
中身は、人形状態のレオン、ロザリー、ソフィアだ。
30センチサイズに圧縮された彼らは軽く、このケース一つに全て収まっている。
物理的な負担はほとんどない。
だが、彼女の精神的負担は限界に近い。
『オーナー、次は絶対にタクシー代を出して』
インカム越しに、彼女の呪詛が届く。
『私たち、Cランクパーティよ? 世間的に見れば探索者はセレブの仲間入りなのよ。
なんで私が、満員電車でおじさんと密着してなきゃいけないの』
Cランク。
それは探索者全体の上位10%未満。
年収は数千万を超え、移動はハイヤーか専用車が当たり前の階級だ。
そんな彼女が、埼京線の圧縮プレス機の中で揉みくちゃにされている。
周囲の乗客は、彼女の整った容姿と高級そうなスーツを見て、なんでこんなところにという視線を向けていた。
「我慢しろ。タクシー代も積もれば山となる。
それに、まだ1000億には程遠い。節約こそが最短の道だ」
俺はコタツでコーラを飲みながら却下した。
5億の資産があっても、ランニングコストを垂れ流すのは費用対効果が悪い。
『……このドケチ! いつか絶対、リムジンで送迎させてやるから!』
高橋は悪態をつきながらも、目的地である駅で降りた。
今日の仕事場は、関東近郊にあるBランクダンジョン『黒鉄の鉱山』。
俺からの新指令はシンプルだ。
関東近郊のBランクダンジョンを全て制覇し、地図を埋めろ。
1号が敵地で動くための、受け皿作りだ。
一方、その頃。
タイタン商事、中央物流センター。
巨大な倉庫の入り口で、1号こと田中は入館儀式を受けていた。
「おい田中、首出せ」
屈強な警備員が、黒い首輪のようなものを突きつけてくる。
1号は大人しく首を差し出した。
カチリ、と冷たい音がして、首輪がロックされる。
《管理タグ、認証完了》
《従業員番号4088、田中。作業エリアへの入場を許可します》
「……なんですか、これ」
「GPS付きの管理端末だ。
サボったり、許可なくエリア外に出ようとすると、電流が流れる。
気絶する程度には痛いから気をつけろよ」
警備員がニヤニヤと笑う。
クロノス社も酷かったが、ここはレベルが違う。
完全に軍隊、あるいは刑務所の管理体制だ。
「さあ、行け! 今日のノルマはコンテナ500個の仕分けだ!
終わるまで水も飯もねえぞ!」
怒号と共に、1号は倉庫の中へと放り込まれた。
広大な倉庫内には、何百人もの社員たちが、首輪をつけられ、無言で荷物を運んでいる。
死んだ目をした男たち。
過労で倒れても、警備員が引きずり出していくだけで、誰も気に留めない。
「……すごい職場ですね」
1号が心の中で呟く。
だが、俺にとっては好都合だ。
この過酷な環境なら、誰も他人のことなど見ていない。
そして何より、1号が倉庫内を歩き回れば歩き回るほど、そこが俺の領土になっていく。
「耐えろ1号。
お前が歩いた分だけ、俺たちの支配領域が広がる」
俺はモニター越しに、1号の視界を共有しながら、倉庫のマッピングを進めていく。
一般エリア、保管エリア、搬出ドック。
次々と地図が埋まっていく。
そして昼過ぎ。
1号にチャンスが訪れた。
「おい田中! 手が空いてるな?
奥のSランクセキュリティエリアの掃除をしてこい!」
現場監督が怒鳴る。
本来なら幹部しか入れない区画だが、人手不足と、田中の無害そうな社畜オーラが功を奏したのだろう。
1号はモップを持たされ、厳重な二重扉の奥へと通された。
そこは、別世界だった。
ひやりとした冷気。
徹底された空調管理。
そして、棚に並べられたコンテナの山。
1号がそっとコンテナの一つを開ける。
中には、鈍く光る銀色の鉱石がぎっしりと詰まっていた。
Bランク希少素材『ミスリル銀』だ。
「……重いな」
1号が持ち上げようとして、顔をしかめる。
比重が鉄の数倍ある。
これを転送すれば、俺の脳が死ぬ。
却下だ。
1号は次の棚へ移動する。
『アダマンタイト』。これも重すぎる。
『ドラゴンの大骨』。嵩張りすぎる。
そして、一番奥の棚。
厳重にロックされた小型のコンテナを開けた瞬間、1号の手が止まった。
「……ビンゴ」
中に詰まっていたのは、拳大の結晶体。
内部で揺らめく濃密な光。
『高純度魔石』だ。
Aランク、あるいはBランク上位個体からしか取れない、エネルギーの塊。
「……これなら」
埼玉のコタツで、俺は冷ややかな笑みを浮かべた。
重量は軽い。だが、単価はミスリルの比じゃない。
重量あたりの費用対効果は最強だ。
「義賊ごっこをする気はないが……
ここにある在庫、俺が有効活用してやる」
俺は1号に指示を出した。
『掃除をするフリをして、棚の端から端まで歩け。
座標を確定させる』
1号がモップをかけながら、魔石の棚の前を歩く。
監視カメラは1号を映しているが、彼はただ真面目に掃除をしているだけに見える。
だが、その裏で。
俺のスキル【ワールド・デリバリー】の照準が、コンテナの中身だけにロックオンされていく。
『……準備完了だ』
俺はインカムを切り替え、ダンジョンにいる高橋を呼び出した。
『高橋、レオンの準備はいいか?』
『ええ。ちょうどボス部屋の前よ。いつでも収納できるわ』
『よし。今からそっちに補給物資を送る。
現地のドロップ品に混ぜて、正規ルートで換金してこい。ただし、やりすぎて怪しまれないように気をつけろ』
俺はコタツの中で指を鳴らした。
ここからは、見えない横領の時間だ。
俺は、タイタン商事の倉庫にある『高純度魔石』だけを【受取】対象に指定。
そして、配送先を、ダンジョンにいるレオンの【無限収納庫】の中に指定する。
「【転送】」
俺がスキルを発動した瞬間。
ガギンッ!!
脳髄を直接ハンマーで殴られたような激痛が走った。
視界が白く飛び、平衡感覚が消える。
鼻から温かいものが垂れる。鼻血だ。
(……クソッ、軽いのに……重い……!)
物理的な重量は軽いはずだ。
だが、高密度の魔力を帯びた物体を、空間を超えて転送する負荷は、ただの石ころとはわけが違う。
存在の重さが、俺の脳神経を焼き切ろうとしてくる。
俺は震える手で、テーブルの上に並べた小瓶を掴み取った。
神マケで購入した精神力回復ポーション。
一本5万クレジット。
それを栓も抜かずに噛み砕き、中身を一気に流し込む。
「ぐっ……はぁ、はぁ……!」
焼けるような脳の痛みが、冷たい水で冷やされるように引いていく。
だが、完全には消えない。鈍い痺れが残る。
「……まだだ。まだいける」
俺は血走った目でモニターを睨んだ。
目の前には、宝の山がある。
ここで止めるわけにはいかない。
頭が割れようが、鼻血で溺れようが、いただく。
『1号、次だ。隣の箱……いくぞ』
1号は涼しい顔でモップを動かしていた。
「【配送】ッ!!」
ドクンッ。
再び激痛。
倉庫から魔石が数個、消える。
同時に、ポーションをもう一本空ける。
稼ぎ、痛み、薬、稼ぎ、痛み、薬。
無限のループ。
コタツの周りには、空になったポーションの瓶が散乱し、ティッシュの山が血で赤く染まっていく。
一方、Bランクダンジョン『黒鉄の鉱山』。
最深部、ボス部屋の前。
「……また来たわね」
高橋が慣れた手つきで、レオンの前に立つ。
レオンが両手を広げると、虚空からポロポロと、美しい魔石がこぼれ落ちてくる。
それを高橋がキャッチし、アイテム袋へ丁寧にしまう。
『高橋、それは今日の収穫だ。
現地のドロップ品に、数個ずつ混ぜろ。
決して一度に大量に出すな。市場価格が崩れれば怪しまれる』
インカム越しの俺の声は、酷く嗄れていた。
『毎日少しずつだ。
自然な豊作を装って、正規ルートで換金してこい』
「了解よ。……あんた、声が死んでるわよ」
高橋は呆れつつも、その瞳には一種の敬意が宿っていた。
身を削ってでも利益を出す。
その執念だけは、本物だと認めたのだろう。
初日は地獄だった。
魔石を数キロ転送しただけで、俺はコタツの中で意識を失いかけた。
ポーションを5本消費し、稼ぎの数%が薬代に消えた。
だが、人間とは恐ろしいものだ。
2週間、1ヶ月と続けるうちに、変化が現れた。
「……今日はポーションなしか」
3ヶ月目のある日。
俺は、空になったコーヒーカップを置いて呟いた。
いつものようにタイタンの倉庫から魔石を抜き取り、レオンへ送る。
以前なら脳が割れるような激痛が走った作業だ。
だが今は、こめかみが少し痛む程度。
心地よい疲労感すらある。
《スキル熟練度が上昇しました》
《精神耐性レベルが上昇しました》
《【ワールド・デリバリー】の転送容量が拡張されました》
毎日、限界ギリギリまで脳を酷使し、ポーションで強引に回復させ、また酷使する。
そのサイヤ人のような荒行が、俺の脳内にある魔力回路を強制的に拡張させていたのだ。
扱える魔力量が増え、回数が増え、そして痛みが減っていく。
俺は確実に、化け物へと進化していた。
そして3ヶ月後。
タイタン商事の物流センターで、四半期に一度の大規模な棚卸しが行われた。
「……おい、どうなっている?」
在庫管理課の課長が、端末の数値を何度も見返していた。
顔色が青ざめている。
「重量が合わない。
コンテナの数は合っているのに……中身が軽いぞ」
部下たちが慌てて、奥の棚にあるコンテナを開ける。
そこにあるはずの、Aランク高純度魔石。
だが、箱の中はスカスカだった。
底の方に、数個転がっているだけ。
「な、無い!? 魔石が、ごっそり抜かれている!?」
「そんな馬鹿な! 入出庫の記録は完璧です!
持ち出された形跡も、警報のログもありません!」
管理責任者が顔面蒼白でモニターを睨みつける。
映っているのは、3ヶ月間、誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまで働き続けた模範的な清掃員、田中の姿だけ。
彼が通り過ぎた後の棚から、中身だけが消失していることに気づく者はいない。
「数百キロ分の魔石だぞ!? どうやって持ち出したんだ!」
「幽霊か……!? それとも、システムのエラーか!?」
巨人は、自らの懐が食い荒らされたことさえ理解できず、混乱の渦に叩き落とされていた。
同時刻。
都内某所、サードアイ本部。
薄暗い執務室で、鬼道は一枚の報告書に目を通していた。
「……ほう」
彼が見ているのは、探索者協会から上がってきた最新の取引データだ。
『ファントム・ロジスティクス』が、ここ3ヶ月間、高品質な魔石を継続的に換金している記録。
その量は、通常のダンジョン攻略で得られる量を上回っているが、決してありえない量ではない。
絶妙なラインだ。
「だが、タイタン商事で原因不明の在庫消失騒ぎ。
そして、ファントムからの安定供給。
……時期が一致しすぎている」
鬼道は冷ややかに笑った。
確証はない。証拠もない。
だが、彼の狩人の勘が告げている。
クロノスを食い潰した怪物が、今度はタイタンに寄生し、十分に吸い尽くしたのだと。
「人形使い。
寄生虫が、随分と大きく育ったな」
彼は端末を取り出し、部下に短い指令を送った。
「ファントム・ロジスティクス、およびタイタン商事を重点監視対象に指定。
……特に、現場に出入りする雑音を見逃すな」
包囲網は、静かに、しかし確実に狭まりつつあった。
埼玉拠点。
俺はコタツの中で、大きく伸びをした。
この3ヶ月の総利益は、天文学的な数字になりつつある。
脳の痛みも、今では心地よい達成感に変わっていた。
「……上出来だ」
だが、モニターの端に表示された【国家探知危険度】は、24.8%を示していた。
許容ラインまで、あと0.2%。
「潮時だな」
俺はニヤリと笑った。
これ以上深入りすれば、尻尾を掴まれる。
十分すぎるほど稼がせてもらった。
それに、俺の脳も、そろそろ休暇を求めている。
「1号、撤退だ。
明日の朝一番で、退職届を出してこい」
『やっとですか……! 長かった……!』
1号の歓喜の声が脳内に響く。
巨人は、自らの血が抜かれたことにようやく気づき始めた頃だろう。
だが、もう遅い。
俺たちは既に、次のステージへと向かおうとしている。




