第29話 5億の要塞と、社畜の再就職
翌朝。
埼玉の拠点、5階のリビング。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、埃の舞う空気を白く照らしていた。
俺はソファに深く沈み込み、壁掛けの大型モニターを眺めていた。
『――次のニュースです。中堅物流会社クロノス・ロジスティクスの巨額横領および不正取引事件について、新たな動きがありました』
ニュースキャスターの淡々とした声が響く。
画面には、捜査員に囲まれて連行される小杉の姿が映し出されている。
顔を隠すことも忘れ、呆然とした表情でパトカーに押し込まれていくかつての上司。
その姿は、かつて俺を怒鳴り散らしていた威厳など欠片もなく、ただの怯えた中年男にしか見えなかった。
『同社は、ダンジョン省庁への贈賄や、指定暴力団への武器横流しなど、組織的な犯罪に関与していた疑いが持たれています。
証拠となる内部資料が流出したことを受け、探索者協会は同社のライセンスを無期限停止とし――』
「……終わったな」
俺は手に持っていたコーヒーを飲み干し、リモコンで電源を切った。
プツン、という音と共に、部屋に静寂が戻る。
感傷はない。
あるのは、計算機が弾き出した「タスク完了」の文字だけだ。
俺を縛り付けていた3300万の借金。
架空の医療費請求。
そして、奴隷のような雇用契約。
それら全てが、クロノスという巨塔の崩壊と共に、跡形もなく消え去った。
「おめでとうございます、オーナー。完全勝利ですね」
キッチンから、高橋が焼きたてのトーストを運んでくる。
彼女の表情も晴れやかだ。
古巣への復讐を果たし、産業スパイとしての汚名も削いだのだから。
「勝利、か。……そうかもしれないな」
俺は立ち上がり、窓の外を見た。
遠くに見える都心のビル群。
平和そうに見えるその景色の裏で、今頃サードアイが血眼になって「犯人」を探しているはずだ。
昨夜の派手な立ち回り。
Bランクダンジョンでの水攻め。
そして、クロノス本社からのデータ強奪。
これだけの痕跡を残せば、国家の監視レベルは最高潮に達している。
この拠点が特定されるのも、時間の問題かもしれない。
俺は視線を、リビングの奥にある扉――澪が眠る特別室へと向けた。
ソフィアの結界に守られ、彼女は安らかに呼吸している。
だが、それが最大のリスクだ。
「……光りすぎている」
澪を生かしているのは、ソフィアが展開しているSランク相当の持続魔法だ。
これは、魔力を視ることができる人間からすれば、暗闇の中でサーチライトを点灯させているようなものだ。
日本全土を監視するサードアイのレーダーには、この埼玉の廃ビルが異常な高エネルギー反応点として映っているに違いない。
「今のままでは、守りきれない」
いずれ踏み込まれ、澪を人質に取られる。
それだけは、絶対に許容できないリスクだ。
ROIの鬼として、資産(澪)の損失だけは防がなければならない。
「金ならある。使うぞ」
俺は神マケのウィンドウを開いた。
残高、約5億2000万クレジット。
1000億という目標を考えれば、1円でも多く貯金し、さらなる攻撃スキルや運用資金に回すべき金だ。
だが、拠点の安全確保は全ての前提条件だ。
足元が崩れれば、積み上げた金など何の意味もない。
俺は迷わず【建築・拠点防衛】のカテゴリを選択した。
無数に並ぶ防衛設備の中から、以前から目をつけていたSランクの設置型魔導具をタップする。
《Sランク設置型魔導具:【虚数座標の隠れ家】》
《価格:450,000,000クレジット》
《説明:指定した建造物の存在座標を現世からわずかにずらし、外部からの物理的・魔力的干渉をすり抜けさせる。外部からはただの廃墟にしか見えず、内部の魔力反応も完全に隠蔽される》
4億5千万。
ほぼ全財産だ。
クリック一つで、中小企業の生涯年収が消える。
だが、物理的な壁で防ぐのではなく、存在そのものを隠すという機能が重要だ。
どれだけ頑丈な扉をつけても、場所がバレればいつかは破られる。
だが、そこにないものは、見つけようがない。
「購入」
チャリーン、という重厚な音が脳内に響く。
残高の数字がごっそりと削られ、手元には拳大の虹色の結晶が現れた。
ずっしりと重い。
これが、4億5千万の重みだ。
「設置」
俺が結晶を床に置くと、それは水のように溶け出し、床材へと染み込んでいった。
ズズズズズ……。
廃ビル全体が微かに振動し、空気が変わる。
気圧が下がったような、耳が詰まる感覚。
窓の外の景色が、一枚の薄い膜を隔てたように、少しだけ遠く感じられる。
「……展開完了か」
俺は息を吐いた。
これで、このビルは現世の座標から切り離された。
澪から発せられる強烈な魔力反応も、この結界が完全に遮断してくれる。
サードアイのレーダーから、この拠点の輝点は消失したはずだ。
「これで、夜も眠れるな」
だが、油断はできない。
これはあくまで隠れ家だ。無敵の要塞ではない。
俺がここで【ワールド・デリバリー】を乱発すれば、隠蔽容量を超えてノイズが漏れる。
ここを特定されないためには、もう一つ、手が必要だ。
「攪乱だ」
敵の目を、この埼玉から逸らし続ける必要がある。
俺は部屋の隅に置かれた黒いアタッシュケースを開けた。
中には、昨夜の任務で腕を失い、その後ソフィアによって修復された1号が横たわっている。
「起きろ、1号」
「……おはようございます、本体」
1号が身を起こす。
五体満足だ。傷跡ひとつない。
だが、このままでは使えない。
彼の顔と魔力波長は、鬼道によって完全に特定されている。
一歩でも外に出れば、即座にあの時の端末だとバレて、追跡されるだろう。
「お前には、別の顔になってもらう」
俺は神マケで、残りの資金を投入して新たなアイテムを購入した。
《Aランク魔導具:【欺きのチョーカー】》
《価格:30,000,000クレジット》
《説明:着用者の容姿、声、そして魔力波長を、指定した別人のものへと完全に偽装する。Sランクの鑑定スキルでも看破は困難》
3000万。
安い買い物ではないが、1号という最強の駒を再利用するためには必要な出費だ。
「装着」
俺は1号の首に、黒革のチョーカーを巻いた。
目の前に設定画面が開く。
俺はスライダーを操作し、1号のパラメータを細かく調整していく。
身長を5センチ低く。
体格を少し猫背気味に。
髪は白髪混じりの短髪にし、肌のツヤを消す。
顔立ちは、どこにでもいそうな、疲れ切った中年男性風に。
そして何より重要なのが、オーラの設定だ。
無害で、押しに弱く、使い潰しやすそうな社畜全開の雰囲気に調整する。
ボワン、と煙が出て、1号の姿が変わる。
そこにいたのは、もはや俺のコピーではない。
人生に疲れ、定年間際でリストラされたかのような、哀愁漂う初老の田中さんだった。
「……鏡を見てみろ」
1号が鏡を覗き込む。
自分の新しい顔を見て、彼は深くため息をついた。
「……うわぁ。なんか、人生に疲れてますね俺。涙が出てきそうです」
「完璧だ。これなら鬼道もスルーする」
俺は満足げに頷き、インカムで高橋を呼び出した。
「高橋、仕事だ。この男のIDを用意しろ」
『……誰? そのおじさん』
キッチンから顔を出した高橋が、怪訝な顔をする。
「1号だ。偽装した」
『あー、なるほどね。サードアイ対策か。趣味悪いわね』
「名前は田中だ。
戸籍、住民票、マイナンバー、そして運転免許証。
明日までに完璧な身分を用意しろ。お前のコネなら造作もないだろ?」
『……また無茶を。まあいいわ、昔のツテを使うから300万ほど経費がかかるけど』
「許可する。最優先で頼む」
これで、1号は社会的に実在する人間となる。
準備は整った。
俺はタブレットを取り出し、ある求人広告を表示して1号に見せた。
『【急募】倉庫管理・配送スタッフ。
未経験歓迎、体力に自信のある方。
※繁忙期につき残業あり。寮完備』
募集主は――『タイタン商事』。
クロノス社が潰れた今、その利権をハイエナのように食い荒らし、業界シェア1位に躍り出ようとしている最大手企業だ。
噂では、クロノス以上にブラックで、えげつない商売をしているという。
Bランク素材の市場価格を操作し、暴利を貪っている巨悪だ。
「お前にはここに潜入してもらう」
「……また社畜ですか? しかも、さらにブラックな香りが」
1号がげんなりした顔をする。
「そうだ。だが、今度はただの荷運びじゃない」
俺はニヤリと笑った。
「お前の任務は二つだ。
一つは、タイタン商事の巨大倉庫に入り込み、内部から座標を確保すること。
奴らが市場を独占するために溜め込んでいる在庫……その全てを、俺たちのものにする」
「そしてもう一つは……東京のど真ん中で、派手に動いて囮になることだ」
「囮……ですか」
「そうだ。お前が東京で微弱なスキル反応や騒ぎを起こせば、サードアイの目はそちらに向く。
その隙に、俺はこの拠点で安全に過ごせるというわけだ」
「……つまり、俺は敵陣のど真ん中で、サンドバッグになれと?」
「人聞きが悪いな。エリート・デコイと呼べ」
1号は諦めたように肩を落とした。
だが、その目には奇妙な覚悟が宿っていた。
彼は知っているのだ。
自分が働けば働くほど、本体である俺が強くなり、1000億というゴールに近づくことを。
「……分かりました。やってやりますよ」
1号は高橋が手配した偽造書類を鞄に詰め込み、田中としての顔を作った。
最強のトロイの木馬にして、最高級の囮。
新たな戦場へと、1号が放たれた。




