第26話 温存された5億と、切断された右腕
埼玉拠点、5階リビング。
朝の日差しが差し込む中、俺は虚空に浮かぶウィンドウを凝視していた。
《残高:524,300,000クレジット》
5億2千万。
第25話で小杉から毟り取った1億と、その後のBランクダンジョンでの乱獲、さらに高橋ルートでの換金を積み重ねた結果だ。
ついに、大台に乗った。
だが、俺は別のウィンドウを開く。
《【国家探知危険度】:18.7%》
高い。
許容ラインと考えている25%にはまだ届いていないが、上昇ペースが早すぎる。
最近のファントム・ロジスティクスの派手な活動が、サードアイの監視網にノイズとして蓄積されている証拠だ。
俺は神マケの【VIPルーム】を開く。
そこには、以前から目をつけていたアイテムがあった。
《Sランク魔導具:【偽神の仮面】》
《価格:500,000,000クレジット》
5億。
これを買えば、俺も1号も、サードアイにとっては透明人間になる。
どれだけ派手に動こうが、監視システムには映らなくなる。
安全を買うなら、今すぐにポチるべきだ。
だが。
俺の指は、購入ボタンの上で止まった。
「……まだだ。まだ買わない」
俺はウィンドウを閉じた。
3300万の借金など、今の俺には端金だ。
払おうと思えば、今すぐにでも叩きつけて自由になれる。
だが、それでは気が済まない。
俺を実験体として売り飛ばした闇金『カサネ屋』。
架空の医療費を請求し続けた『クロノス社』。
奴らに金を払って終わる?
俺が求めているのは自由じゃない。精算だ。
奴らを社会的に、物理的に破滅させ、俺が味わった屈辱の何倍もの絶望を叩き込んでやる。
そのために、1号を会社に潜入させ続けているのだ。
この5億は、逃げるための盾じゃない。
奴らを殺すための弾薬として温存する。
そう思考を巡らせていた時だった。
インカムに、高橋からの緊急連絡が入った。
『……オーナー、悪い知らせよ』
声が硬い。
ただ事ではない緊張感が伝わってくる。
『さっき、事務所に客が来たわ。
《サードアイ》よ』
「……来たか」
俺はカップを置く。
予想はしていた。
昨日のBランクダンジョンでの水風船作戦。
あれだけの規模の空間干渉を行えば、国家の監視網に引っかからないわけがない。
『安心して。私が企業秘密の一点張りで追い返したわ。
向こうも確たる証拠がないから、無理やり拘束まではできなかったみたい』
「流石だな」
高橋は元々、裏社会で生きてきたプロだ。
警察や公安のあしらい方は心得ている。
ファントム側からは、ボロは出ない。
『ただ……捨て台詞を残していったわ。
「ならば、依頼主に確認させてもらう」って』
「……クロノス社か」
『ええ。小杉課長、大丈夫かしら?
あの人、突っ込まれたらボロを出して、余計なことまで喋りそうだけど』
「……あり得るな」
俺は眉をひそめた。
小杉は小心者の小物だ。
国家権力を前にすれば、誰かを売る。
「警戒レベルを上げる。
俺も1号とのリンク深度を深めて、常時監視モードに入る」
『了解。気をつけてね』
通信を切る。
俺は意識を沈め、会社にいる1号の感覚へと深く潜り込んだ。
クロノス・ロジスティクス、応接室。
重苦しい沈黙が支配していた。
上座に座っているのは、黒いスーツを着た男だ。
特務捜査官、鬼道。
対面する小杉は、すでに汗だくだった。
ハンカチで額を拭いながら、泳いだ目で鬼道を見ている。
「そ、それで……何のご用でしょうか。
うちは協会を通して、正規の手続きで依頼を出しただけで……」
鬼道が淡々とした口調で切り出す。
「我々が調査しているのは、昨日、御社の管理下にあるBランクダンジョンで観測された異常現象についてです」
鬼道は懐から一枚の資料を取り出し、テーブルに置いた。
そこには、波形グラフが記されている。
「『第一級・空間震』。
通常、Sランク以上の空間魔法でしか発生しない、特異な魔力波長です。
テロリストによる兵器実験、あるいは未登録のSランク能力者が関与している可能性があります」
「え、Sランク……?」
「同時期に、御社から謎の組織ファントムへ1億円が流れている。
……単刀直入に聞きます。
御社は彼らに、違法なSランク魔導具、あるいは『魔人』を貸与しましたか?」
鬼道の目が鋭く光る。
小杉の顔色が蒼白になった。
自分が払った1億が、テロ支援の疑いをかけられている。
もしここで疑われれば、会社での立場どころか、人生が終わる。
「ち、違います! 知りませんよそんなこと!
俺はただ、1億払って頼んだだけで……!」
「では、なぜあのような新興クランに、相場の10倍もの額を即決で支払ったのです?
まるで、最初から裏で繋がっていたかのような迅速さですが」
「そ、それは……!」
小杉が言葉に詰まる。
自分のミスや、裏金を使ったことなど言えるはずがない。
追い詰められたネズミが、キョロキョロと視線を彷徨わせる。
「……部下です!」
小杉が叫んだ。
「部下が! 部下が勝手に見つけてきたんです!
九条という契約社員が、あいつが『いいクランを知ってる』って持ちかけてきて……
俺はあいつに唆されただけで……!」
「……ほう」
鬼道が興味深げに眉を上げた。
「その社員に、話を聞かせてもらえますか?」
「は、はい! すぐに呼びます!」
小杉が内線電話に飛びつく。
俺はコタツの中で、冷ややかな笑みを浮かべた。
(……やっぱりそうなるか)
小杉の行動パターンなど予測済みだ。
だが、これで俺こと1号が、サードアイと直接対面することになった。
これを機に、1号という駒の役割を終わらせる時が来たのかもしれない。
俺は覚悟を決め、1号の身体を動かして応接室へと向かった。
ガチャリ。
ドアを開ける。
「……失礼します」
1号が部屋に入った瞬間。
空気が変わった。
鬼道がゆっくりと振り返り、1号を見た。
その視線が、1号の顔、胸、そして手足へと舐めるように移動する。
ただの観察ではない。
魔力を視る目だ。
(……まずい)
俺の背筋が粟立った。
鬼道の目が、人間のそれではない。
獲物を見つけた猛禽類の目だ。
「……君が、九条くんかね?」
「はい。契約社員の九条です」
1号は平静を装って答える。
だが、鬼道は答えない。
無言のまま立ち上がり、ゆっくりと1号に近づいてくる。
「……変だな」
鬼道が呟いた。
「生体反応が薄い。
心拍、呼吸、体温……すべてが一定すぎる」
「……緊張しているもので」
「いや、違う」
鬼道が1号の目の前、至近距離で立ち止まった。
その瞳が、1号の瞳孔を覗き込む。
「お前からは、あの現場と同じ……
『作られた魔力』の臭いがする」
看破された。
論理ではない。
Sランク級のエリートだけが持つ、研ぎ澄まされた直感だ。
現場に残っていた「空間震」の痕跡と、この1号から漏れ出る微弱な魔力リンクの波動が一致することを見抜いている。
「ひッ……!?」
小杉が悲鳴を上げて後ずさる。
鬼道から放たれる殺気が、部屋の温度を氷点下まで下げていた。
「……見つけたぞ」
鬼道が右手をだらりと下げたまま、1号に告げる。
「ファントムの正体は不明だが……『端末』はここにあったか」
その瞬間。
俺の脳内で、最大級のアラートが鳴り響いた。
逃げろ。
思考するより早く、俺は1号にバックステップを命じた。
だが、遅かった。
シュンッ。
音がなかった。
鬼道の右手が、鞭のようにしなっただけに見えた。
不可視の斬撃。
カマイタチのような真空の刃が、1号の右肩を通り抜けた。
ボトッ。
重たい音がして、1号の右腕が床に落ちた。
「ひぃぃぃぃッ!? う、腕がぁぁぁ!?」
小杉が腰を抜かして絶叫する。
だが、1号は悲鳴を上げない。
切断された肩口を見る。
そこから流れているのは、赤い血ではなかった。
灰色の霧のような、魔力の粒子。
それが傷口を塞ごうと、生き物のように蠢いている。
「……痛みはない」
1号が、事実を口にした。
「やはりな」
鬼道がつまらなそうに吐き捨てた。
「精巧だが……中身は空っぽだ。
人間じゃない。
Sランク相当の『自律型パペット』か」
鬼道の視線が、1号のカメラを通して、埼玉にいる俺を射抜いた。
「聞こえているか、人形使い。
チェックメイトだ」
ここから逆探知されれば、埼玉の拠点も、澪の居場所もバレる。
(……回収だ。逆探知をされる前に)
俺は【ワールド・デリバリー】を発動した。
対象は、1号本体と、切り落とされた右腕。
「【受取】」
ズクン、と脳に負荷が走る。
シュゥゥゥ……!!
1号の身体が、急速に収縮する。
質量が失われ、光の粒子となって虚空へと吸い込まれていく。
床に落ちていた右腕も同様だ。
「む?」
鬼道が手を掴もうとしたが、空振った。
そこにはもう、何もなかった。
魔力反応も、痕跡も、すべてが空間ごと消滅した。
「……消えた?
転移痕すらない。……面白い」
鬼道は何も掴めなかった自分の手を見つめ、獰猛に笑った。
逆探知不可能。
完全な逃走だ。
部屋には、腰を抜かして失禁している小杉と、不気味に笑う鬼道だけが残された。
「あ、あぁ……消え……」
小杉がガタガタと震えている。
鬼道はゆっくりと小杉に向き直った。
「さて、端末は消えましたが……あなたは残っていますね、小杉課長。
じっくり聞かせてもらいましょうか。あの人形について」
応接室に、小杉の絶望的な悲鳴が響くことはなかった。
音もなく、防音結界が張られたからだ。
埼玉拠点、5階。
俺の手元に、片腕を失った30センチの人形が転がり落ちてきた。
「……間に合ったか」
俺は安堵と共に、テーブルを叩いた。
鬼道の追跡は断った。
だが代償は大きい。1号は損傷が激しく、修復が必要だ。
そして何より、クロノス社への潜入ルートは完全に消滅した。
これでもう、会社員ごっこは終わりだ。
「……いいだろう」
俺は人形を握りしめ、立ち上がった。
サードアイに目はつけられた。
会社には戻れない。
なら、やることは一つだ。
「コソコソするのは終わりだ。
総員、準備しろ」
俺はインカムで高橋たちに告げた。
「今夜、クロノス社と闇金を物理的に解体する。
俺たちを縛る鎖を、全部叩き切ってやる」
宣戦布告だ。
5億の資金と、Sランクの戦力。
そのすべてを投入して、俺は本当の自由を掴み取りに行く。




