第22話 重たい通勤鞄と、1億の魂の共有
「……痛い、押さないで」
朝のラッシュアワー。
埼京線の満員電車の中から、高橋の悲痛な呟きがインカム越しに聞こえてきた。
俺は埼玉拠点の5階、朝日が差し込む快適なリビングで、優雅にコーヒーを飲んでいる。
目の前のモニターには、電車内でサラリーマンの背中に押しつぶされそうになっている高橋の視界が、リアルタイムで映し出されていた。
彼女の吐く息が、レンズを白く曇らせている。
『ちょっとオーナー、次はタクシー代を経費で落とさせてよ。これ、精神修行か何か?』
画面の端に見えるのは、彼女が胸にしっかりと抱えている、黒いアタッシュケースが一つだけ。
中身は、俺の可愛い部下たち――人形状態のレオン、ロザリー、ソフィアだ。
Sランクスキル【英雄の影法師】で作られた彼らは、収納状態なら30センチほどのフィギュアサイズに圧縮される。
装備品ごと質量が変化するため、物理的な重量も発泡スチロール並みに軽い。
指一本で持てるレベルだ。
人間3人を連れて移動すれば、往復の電車賃だけで数千円が飛ぶ。
だが、人形にしてしまえば手荷物扱い。交通費はゼロだ。
費用対効果の観点から見れば、これ以上の節約術はない。
だが、運搬役の高橋にとっては地獄だ。
満員電車という現代日本の圧縮プレス機の中で、このケースが潰されないように死守しなければならない。
周囲の湿った熱気。
おじさんの整髪料の臭い。
容赦なく食い込んでくる他人の鞄の角。
彼女の精神力が、物理ダメージとは別のベクトルで削られていくのが手に取るように分かる。
「却下だ。タクシー代も積もれば山となる。それに、有名になってブランド価値がついたら考えてやる」
俺はポテチを摘まみながら、冷徹に指示を出す。
サードアイの監視網を潜り抜けるには、不特定多数の濁流に紛れるのが最も安全な迷彩になるのだ。
『あんた、数億持ってるくせにドケチね……! 私の時給、のちほど特別手当として請求するわよ!』
高橋の恨み言を聞き流し、俺は手元のスマホに視線を落とした。
会社からの通知メールが届いている。
《給与明細(控除通知):医療支援代行費 800,000円》
今月もしっかり引かれていた。
澪はもう病院にはいない。
この拠点の最上階、ガラスの向こうの特別室で、ソフィアの結界に守られて安らかに眠っている。
なのに、会社ことクロノス・ロジスティクスの搾取システムは止まらない。
生きていようが死んでいようが、俺から月80万を毟り取り、3000万の借金を盾に飼い殺しにする気満々なわけだ。
「……まあいい」
俺は神マケの残高を確認する。
《残高:385,000,000クレジット》
3億8千万。
ここ数週間のBランク乱獲と、高橋ルートによるAランク素材の換金で、俺の資産は爆発的に回復していた。
80万の請求など、今の俺には誤差の範囲だ。
痛くも痒くもない。
だが、舐められた分は倍にして吸い尽くす。その決意は変わらない。
俺は、ウィッシュリストにある1億のアイテムを睨みつけた。
これがあれば、俺の支配領域は劇的に広がる。
これを買う時が、来たのかもしれない。
『……着いたわよ』
インカムの声で、意識を引き戻される。
画面の中、高橋が人気のない駅の公衆トイレに入ったところだった。
彼女は慣れた手つきでケースを開き、中から3体の人形を取り出す。
まるで精巧な球体関節人形だ。
無機質なプラスチックの肌が、トイレの蛍光灯を反射して鈍く光る。
「展開」
俺の遠隔操作で、3体の人形が淡い光を放ち、ボコボコと膨張する。
30センチの塊が、一瞬で人間のサイズへと変貌した。
狭いトイレの中に、身長190センチの金髪騎士と、フリルのゴスロリ少女と、巨乳の聖女がひしめき合う。
カオスだ。
人口密度が異常なことになっている。
「……狭いですわ! 早く外の空気を吸わせなさい!」
「おお、この密着感……! 壁と高橋さんに挟まれて、私の鎧が悲鳴を上げている!」
「ちょっとレオン、近いですよ。暑苦しい」
相変わらず騒がしい連中だ。
高橋がこめかみをピキピキさせながら、彼らを引率して外に出る。
「準備完了。行くわよ」
高橋を先頭に、ぞろぞろとトイレから出てくる美形集団。
ここからは「ファントム・ロジスティクス」としての顔だ。
Dランクダンジョン『枯れた渓谷』。
そのゲート前で、周囲の空気が一変した。
「おい、見ろよあれ……」
「噂のファントムじゃないか?」
「マジか、Dランクに来てるのかよ」
先日のCランクボス討伐の噂は、すでに広まりつつあるらしい。
輝く鎧のレオン、フリルのドレスのロザリー、聖女服のソフィア。
そして、それらを率いるクールなスーツ姿の高橋。
圧倒的なビジュアルの暴力に、荒くれ者の探索者たちが道を空ける。
「チェックインお願いします」
高橋が涼しい顔でIDを提示し、全員揃ってゲートを通過する。
完璧な行進だ。
中身がドMと爆破魔とドSと産業スパイだとは、誰も気づいていない。
ゲートをくぐり抜けると、空気が変わった。
乾いた風が頬を撫で、砂埃の匂いが鼻をつく。
『枯れた渓谷』の名が示す通り、そこは植物の枯れ果てた荒野だった。
見上げるような高さの断崖絶壁が両側にそびえ立ち、空を細く切り取っている。
足元には大小様々な岩が転がり、踏みしめるたびにジャリジャリと乾いた音を立てた。
遠くから、ヒュオオオオ……という風鳴りの音が響いてくる。
いや、風ではない。
生物の羽ばたきだ。
「敵影確認! 上空、ロックバードの群れよ!」
高橋の鋭い声が響く。
俺もモニター越しに上空を確認した。
峡谷の岩肌と同じ、灰褐色の羽毛に覆われた怪鳥の群れだ。
翼を広げれば2メートルはあるだろう。
その最大の特徴は、岩をも砕くと言われる鋼鉄のようなクチバシと、獲物を逃さない鉤爪だ。
群れを成して急降下し、探索者を谷底へと突き落とすDランクの厄介者。
「キェェェェェッ!!」
耳をつんざくような金切り声と共に、5羽のロックバードが弾丸のように降ってきた。
普通のパーティなら盾役が前へ出て盾を構え、魔法使いが詠唱時間を稼ぐために陣形を組んで迎撃するところだ。
上空からの攻撃は死角になりやすく、防ぐのが難しい。
だが、うちは違う。
「私を見ろぉぉぉッ!!」
レオンが叫びながら、崖の縁から飛び降りた。
防御姿勢など取らない。
空中で大の字になり、自らを標的として晒け出す。
輝く金色の鎧が、太陽の光を反射してギラリと光る。
それは、鳥たちにとって最高の目印であり、挑発だった。
「ギャッ!?」
怪鳥たちが、あまりに無防備な餌に反応し、軌道を変える。
5羽すべてが、レオン一点に群がった。
鋭い嘴が鎧を突き、爪が肉を裂く。
ガギン! ズプッ!
硬質な衝撃音と、肉が穿たれる鈍い音が同時に響く。
「ぐはっ……! いい嘴だ! だが甘い! もっと深く愛してくれ!」
レオンは地面に激突してもなお、自分に食らいつく怪鳥たちを離そうとはしなかった。
それどころか、愛しい恋人を抱きしめるように、太い腕で5羽まとめて羽交い締めにする。
「キモいですわ! まとめて消えなさい!」
ロザリーが杖を振るう。
詠唱などしない。
ただ膨大な魔力を叩きつけるだけの、暴力的な爆撃。
ドォォォン!!
轟音と共に、紅蓮の炎が谷底で炸裂した。
レオンごと、怪鳥の群れが爆炎に飲み込まれる。
熱波が舞い上がり、焦げ臭い匂いが周囲に充満する。
煙が晴れると、そこには炭化した鳥たちの残骸と――
全身黒焦げになりながらも、白い歯を見せて親指を立てるレオンの姿があった。
「……生きてますか、肉壁さん」
ソフィアが舌打ちしながら近づき、死なないギリギリまで放置してからヒールをかける。
淡い光がレオンを包み、焼けた皮膚が再生していく。
「……相変わらず、酷い絵面ね」
高橋が頭を抱える。
だが、遠巻きに見ていた他のパーティの反応は違った。
「お、おい見ろよ……あの金髪の騎士……」
「崖から飛び降りて、空中の敵を一網打尽にしやがった……!」
「空中の敵は魔法使いにとって狙いにくい。だからあえて自分が囮になって敵を一箇所に集め、魔法使いの範囲攻撃に巻き込ませる捨て身の戦法か……!?」
「すげぇ……あの連携、絶対的な信頼関係がなきゃできねぇぞ!」
驚嘆の声がさざ波のように広がる。
違う。
信頼関係などない。あるのは歪んだ欲望の連鎖だけだ。
だが、結果として超効率的な殲滅が成立しているため、評価だけが勝手に上がっていく。
これが「ファントム」の強みだ。
ファントム・ロジスティクスの進撃は止まらない。
迷うことなく、休むことなく、ただ一直線に最奥を目指す。
そして開始からわずか二時間。
通常なら丸一日はかかる行程を踏破し、俺たちはボス部屋の前に立っていた。
「……早すぎるわ」
高橋が息を整えながら呟く。
だが、アバターたちの表情には疲労の色ひとつない。
「開けるぞ」
俺の指示で、レオンが重厚な岩の扉を押し開ける。
広大なドーム状の空間。
その中央に、岩塊を積み上げたような巨体が鎮座していた。
「グオオオオオッ!!」
Dランクボスモンスター、『キャニオン・ゴーレム』。
全身が硬質な岩石で構成され、物理攻撃を無効化する堅牢な守護者だ。
普通のDランクパーティなら、この硬さに絶望し、撤退を余儀なくされる壁。
だが。
「硬そうですわね! 壊し甲斐がありますわ!」
ロザリーが嬉々として杖を構える。
「待て待て! まずは私がその硬さを味わってからだ!」
レオンが盾も構えずに突っ込んでいく。
ゴーレムが巨大な腕を振り上げる。
質量数トンの岩石パンチ。
まともに喰らえば人間などミンチになる一撃だ。
ドォォォォォン!!
凄まじい衝撃音が響き渡り、土煙が舞う。
だが、レオンは吹き飛ばされていなかった。
地面に足をめり込ませながら、その巨大な拳を顔面で受け止めていたのだ。
「ぐふぅ……ッ! 重い! 硬い! これぞ大地の愛ッ!」
鼻血を出しながら、レオンはゴーレムの腕にしがみついた。
完全に動きを封じている。
「今ですわ! エクスプロージョン・ゼロ距離!」
ロザリーが、レオンの背中越しに杖を突き出す。
ゴーレムの懐、ゼロ距離からの最大火力。
カッ!!
閃光が視界を埋め尽くす。
爆音と共に、ゴーレムの岩の身体が内側から粉砕された。
バラバラになった岩塊が雨のように降り注ぐ中、黒焦げのレオンだけが仁王立ちしていた。
「……終了ですね」
ソフィアがつまらなそうに呟いた。
戦闘時間、わずか30秒。
Dランクボスが、瞬きする間に瓦礫の山と化した。
戦闘が終わる。
地面には、ゴーレムの核であった巨大な魔石と、希少なミスリル鉱石、そして道中で狩り尽くした大量の素材が散乱していた。
『よし、回収しろ高橋。全部だ』
俺はコーヒーを啜りながら、冷徹に指示を出した。
だが、画面の中の高橋の動きが止まる。
『……は?』
彼女は足元の死屍累々を見下ろし、さらにインカムに向かって声を荒げた。
『全部って言った? これ全部? 嘘でしょ!?』
ロックバードの羽。
リザードマンの皮。
ゴーレムの鉱石。
Dランクダンジョンの深層まで潜った結果、その総重量は相当なものになっている。
普通の探索者なら、魔石などの換金率が高いものだけを選別し、重くて安い素材は捨てていくのが常識だ。
『ねえ、あんた数億持ってるでしょ!
いい加減、『収納スキル』のスクロールか、『魔法の鞄』を買ってよ!
経費で落ちるでしょ!』
高橋の悲痛な叫び。
もっともな提案だ。
Cランク以上の攻略を目指すなら、収納系アイテムは必須となる。
だが、俺の返答は決まっている。
「却下だ」
『なんでよ!』
「収納スキルはSランク並みに高い。魔法鞄は容量が少なくて費用対効果が悪い」
俺はポテチをかじりながら続ける。
「それに、お前らが大量の荷物を涼しい顔で運ぶことこそが、『ファントムはフィジカルも化け物』という宣伝になる」
「筋肉はタダだ。使え」
『鬼! 悪魔! ドケチ!』
高橋が叫ぶが、俺の決定は覆らない。
彼女は観念したようにため息をつくと、レオンに向かって顎をしゃくった。
「……レオン、持ちなさい」
「おお! この大荷物! まさか全て私に!?
なんという重み……これが、リーダーからの愛の重量!」
レオンは歓喜の声を上げ、巨大な麻袋を何個も肩に担ぎ上げた。
ロザリーもブツブツ文句を言いながら、自分の身長ほどある素材袋を引きずっている。
そして、数時間後。
ダンジョンの受付カウンター前。
ザワッ……。
受付嬢の手が止まった。
周囲の探索者たちが、口を開けたまま固まった。
「チェックアウトお願いします」
高橋が涼しい顔でIDカードを出す。
その背後。
カウンターの横に、ドサ、ドサ、ドサッ!! と次々に積み上げられていく麻袋の山。
その量は、明らかに1パーティが1回の探索で持ち帰れる限界を超えている。
「え……早っ……?」
誰かが呟いた。
入場記録から、まだ数時間しか経っていない。
ボスを倒して帰ってくるだけでも異例のスピードだ。
「それに……なんだあの量は……?」
「全部持って帰ってきたのか? 普通は捨てるだろ、そんな安い皮まで」
「あれだけの量を担いで、なんで息が上がってないんだ?
スタミナが化け物かよ……」
「収納スキル持ちじゃないのか?
純粋なフィジカルで解決するタイプか……底が知れねえ」
驚愕。
困惑。
そして、畏怖。
「速さ」と「量」。
この二つを同時に、しかも圧倒的なレベルで見せつけられた周囲は、ファントム・ロジスティクスという存在を「規格外」として脳に刻み込んでいた。
(……計画通りだな)
俺は自宅のモニターでその様子を見届け、満足げに頷いた。
収納スキルがないという「弱点」を、圧倒的な「身体能力」という強みに誤認させる。
これでまた一つ、ファントムの株が上がった。
探索を終え、高橋たちが帰路についたのを確認してから、俺は神マケを開いた。
(……さて)
パフォーマンスとしては成功したが、効率は最悪だ。
毎回こんなことをしていては、時間がかかりすぎる。
それに、俺の狙いはDランクじゃない。
もっと深く。
さらに危険な、立ち入り禁止の高ランクダンジョンだ。
俺自身が入ることはできず、高橋たちに運ばせるのも限界がある場所。
そこを攻略するためには、根本的な解決が必要だ。
俺はスマホを操作し、以前から目をつけていたアイテムをタップする。
高橋の「収納スキル買って」という要望はスルーだ。
あいつらには筋肉がある。
だが、俺にはこれが必要だ。
《Sランクオプション:魂の共有》
《価格:100,000,000クレジット》
《説明:契約した分身体である1号と魂をリンクさせ、その視覚・位置情報を本体と完全に同期します。分身体が存在する座標は、本体の「訪問済み座標」として登録されます》
これだ。
ただの人形であるレオンたちでは意味がない。
だが、俺の因子を使って作ったコピーであり、魂の一部を共有する「1号」なら、このオプションの対象になる。
「購入」
チャリーン、という重たい決済音。
残高が一気に1億減る。
だが、痛みはない。
これは未来の1000億へのチケットだ。
《システム拡張完了》
《1号とのソウル・リンクを開始します》
瞬間。
ドクン、と心臓が跳ねた。
脳内に、新しい感覚が開通する。
埼玉の拠点にいながらにして、今、会社の寮で死んだように眠っているはずの1号の感覚が、リアルタイムで流れ込んでくる。
「……繋がった」
俺はニヤリと笑った。
1号は今、社畜として飼い殺されている。
だが、明日からは違う。
1号を行かせれば、そこが俺の庭になる。
立ち入り禁止のAランクダンジョンだろうが、海外の秘境だろうが関係ない。
1号を潜り込ませれば、俺はコタツにいながらにして、そこの宝を回収できる。
「明日は忙しくなるぞ、1号」
俺は、遠く離れた分身に向けて呟いた。
会社の仕事だけじゃない。
お前には、もっと危険で、もっと稼げる場所へ走ってもらう。
俺の視界には、すでに次の獲物――高ランク素材の山が見えていた。
ファントム・ロジスティクスの快進撃は、ここからが本番だ。




