第17話 2億の投資と、心なき理想の社員
あの潜入ミッションから、2週間が過ぎた。
俺の生活は、劇的に、そして静かに変貌していた。
午前7時。
安アパートの薄い布団の上で目を覚ます。
以前のような、絶望的な倦怠感はない。
俺は起き抜けのコーヒーを啜りながら、スマホを操作する。
日課の業務だ。
高橋からのメッセージが届いている。
『準備OK。いつもの場所へ』
俺は意識を集中させる。
脳内に浮かぶのは、会社の地下深く、B級ダンジョンの最奥にある隠し金庫の座標。
2週間前、俺が自分の足で踏みしめ、マーキングした場所だ。
コンテナの中には、100億円分のAランク素材、ドラゴンの欠片が眠っている。
俺はその山から、一つだけをイメージして掴み取る。
配送先は、高橋が指定した私書箱の中。
「【配送】」
ヒュン、と風を切るような感覚。
以前なら、この距離と質量を送れば、脳を金槌で殴られたような衝撃が走っていた。
だが今は、デコピン程度の軽い負荷しか感じない。
熟練度が上がっている。
毎日欠かさずスキルを使い続け、脳の魔力回路が拡張された証拠だ。
これで、今日の高橋との契約は完了だ。
俺は彼女から運送料を取っていない。
これは、俺たちが対等なパートナーであり続けるための共益費であり、彼女の口を封じ、太い換金ルートを使わせてもらうための必要経費だ。
俺の本当の稼ぎは、ここからだ。
俺は残ったコーヒーを飲み干し、左目にモノクルを装着する。
スイッチを入れると、馴染んだ起動音と共に、ARウィンドウが視界を覆う。
蜘蛛リストを展開。
No.12、管理通路B2エリア。
No.15、管理通路B3エリア。
あの日、高橋の後ろをついて歩きながら、俺はただ怯えていたわけではない。
通りがかったモンスターの出現地点や安全地帯に、こっそりと斥候蜘蛛を産み落としてきていた。
画面の中に、獲物が映る。
《Bランク:シャドウ・ストーカー》
以前は俺を死の淵まで追いつめた影の悪魔。
だが今の俺には、ただの動く30万クレジットにしか見えない。
捕捉。
モノクルの照準補正が、実体のない影の核に吸い付く。
以前は0.5秒かかっていたロックオンが、今は視線を向けた瞬間に完了する。
タイムラグ、0.1秒未満。
俺は工具箱から鉄杭を取り出し、無造作に放つ。
「【配送】」
ズドンッ。
画面の向こうで、影が霧散した。
即死。
鉄杭は正確に核を破壊し、魔石を傷つけることなく生命活動を停止させた。
回収。
間髪入れずに【受取】を発動する。
ズシリとした質量の負荷が脳にかかる。
以前なら膝をついていた重みだが、今は心地よい疲労感でしかない。
手元に現れたのは、漆黒のBランク魔石。
俺はそれを、高橋が指定した私書箱の座標へ転送する。
小杉のルートではない。
あんな安値で買い叩くうえに、キャパシティの低いゴミ箱に用はない。
これはプロの相場で換金されるべき極上品だ。
所要時間、3分。
これで、俺の取り分は手数料を引いても20数万。
日給換算で、会社の給料の何ヶ月分だろうか。
だが、今日は調子がいい。
脳のノイズが少ない。
スキルのレベルが上がった感覚がある。
俺は次々とチャンネルを切り替え、獲物を探す。
2匹目。
通路を徘徊するガーゴイル。
空中を飛んでいるが、関係ない。
未来位置予測のラインが見える。
撃墜。
3匹目。
4匹目。
以前なら、1日10回も使えば気絶していた。
だが今は、20回、30回と重ねても、脳が焼き切れる気配がない。
精神力の最大値が増えている。
それだけじゃない。
1回あたりの消費コストが、明らかに減っている。
無駄な魔力漏れがなくなり、最適化されているのだ。
これが、成長。
俺というシステムが、金を稼ぐために鋭利に研ぎ澄まされていく感覚。
時計を見る。
出社時間まで、あと30分ある。
まだいける。
俺は狩りの手を休めず、淡々と、しかし猛烈な勢いで資産を積み上げていった。
会社に行けば、俺はただのゴミスキル持ちの契約社員だ。
小杉に怒鳴られ、倉庫の埃を吸い、時給数百円で命を削る。
だが、その裏で。
俺は時給数百万を叩き出す最強のハンターとして君臨している。
この落差。
この優越感。
それが、俺の乾いた心を潤す唯一の栄養剤だった。
……
19時30分。
俺は泥のように疲れて帰宅した。
今日の小杉は特に酷かった。
俺がトイレに行く隙さえ与えず、膨大な伝票整理を押し付けてきた。
罵倒のボキャブラリーだけは豊富な男だ。
だが、俺の心は晴れやかだった。
小杉が俺を拘束している間も、俺の脳内では計算機が回り続けていたからだ。
帰宅と同時に、俺はネクタイを緩めるのも忘れてベッドに倒れ込んだ。
スマホを取り出す。
高橋からの通知が来ている。
都内某所のコインロッカーの番号と、暗証番号だ。
「……回収だ」
俺はコインロッカーの中を脳内に描く。
以前、もちろん事前に座標を登録済みだ。
現地に行く必要はない。
「【受取】」
ズクン。
ベッドの上に、分厚い茶封筒の束が出現した。
帯封のついた万札の山。
今日の成果、そしてここ数日の積み重ねだ。
現実の重みが、俺の掌にある。
だが、俺にとってこの紙切れは、ただの燃料に過ぎない。
俺は神マケを起動し、クレジットチャージを選択する。
札束の山に手をかざす。
「【配送】」
札束が光の粒子となって消える。
同時に、スマホの画面上の数字が跳ね上がった。
《チャージ完了》
《現在残高:200,240,000クレジット》
到達した。
2億。
3300万の借金を返しても、まだ1億6000万以上が残る。
一生遊んで暮らせる額ではないが、人生の主導権を取り戻すには十分な軍資金だ。
俺は震える指で、ずっと狙っていたページを開いた。
Sランクスキルガチャ。
1回2億クレジット。
俺が欲しいのは、ただ一つ。
国家の監視から逃れるための、絶対的な隠れ蓑。
完全隠蔽、あるいは認識阻害系のスキルだ。
それが手に入れば、俺は怯えることなく、さらに大胆に稼ぐことができる。
《Sランク確定ガチャ》
《価格:200,000,000クレジット》
《説明:Sランクスキルが1つ確定で排出されます。中身はランダムです》
購入ボタンが、光って見える。
これを押せば、俺の全財産はほぼ消える。
だが、迷いはなかった。
金はまた稼げばいい。
だが、このスキルがあれば、安全が買える。
「……頼むぞ」
俺は息を止め、画面をタップした。
画面が激しい光に包まれる。
ファンファーレと共に、金色のカプセルが弾けた。
《おめでとうございます!》
《Sランク・スキルを獲得しました!》
表示された文字を見て、俺は瞬きをした。
《Sランク・英雄の影法師》
「……は?」
隠蔽じゃない。
聞いたこともないスキルだ。
俺は慌てて詳細をタップする。
《説明:意思を持つ分身体を作成し、使役するスキル。作成された分身体はアイテムとして扱われます》
「……分身?」
俺はベッドの上で呆然とした。
ハズレか?
2億も払って、ただの人形遊びスキルか?
俺が欲しかったのは、身を隠す力だ。
自分が増えてどうする。
目立ってどうする。
だが。
説明文の最後の一行を読んだ瞬間、俺の思考が止まった。
『作成された分身体はアイテムとして扱われます』
アイテム。
非生物。
つまり――俺の【ワールド・デリバリー】で、配送と受取ができる対象。
「……待てよ」
脳内で、パズルのピースが組み合わさる音がした。
分身を作れる。
それはアイテム扱いだ。
俺の命令で動く。
意思を持つ。
もし、自分そっくりの分身を作って、会社に行かせたら?
俺は家で寝ていられる。
もし、戦闘用の分身を作って、ダンジョンに送り込んだら?
俺は傷つかずに素材を回収できる。
もし、何かの罪を擦り付けるための、身代わりを作れたら?
「……これだ」
俺の口元が、三日月形に歪んだ。
隠蔽スキル以上の当たりだ。
自分が透明になるんじゃない。
自分という存在を、使い捨ての駒として量産できる。
サードアイがどれだけ俺を監視しようと、捕まえるのはいつだって偽物だ。
ズズズ……。
空間が歪む。
ベッドの横、何もない空間に、黒い亀裂が走る。
そこからゆっくりと、黒塗りの重厚なアタッシュケースがせり出してきた。
まるで、プロの殺し屋が道具を持ち運ぶような、機能美を感じさせるケースだ。
俺はゴクリと唾を飲み込み、その冷たい金属のロックを外した。
カチリ。
蓋を開く。
「……なんだ、これ」
中には、デッサン用のような、のっぺらぼうの人形が4体、綺麗に収まっていた。
大きさは30センチほど。
フィギュアサイズだ。
顔もなく、性別もなく、ただの灰色の素体。
だが、UIの表示が、その正体を示している。
《未設定の影法師:4体》
《キャラメイクを開始しますか? 完了後、自律稼働モードへ移行し、実体化サイズへ拡張されます》
「……なるほどな」
俺は震える手で、その冷たい人形の一つをつまみ上げた。
軽い。
だが、この小さな人形の中に、俺の人生を変える革命的な機能が詰まっている。
4体。
つまり、俺の手足となって動く忠実な部下が4人。
会社用の影武者。
戦闘用の兵隊。
荷運び用のポーター。
全部、作れる。
「……始めようか」
俺はUIに表示されたキャラメイク画面を見つめた。
まずは、1体目。
俺の理想を詰め込んだ、心なき最強の社員を作る時間が始まった。




