第14話 3匹の追跡者と、0秒の招待状
定時。
17時30分を告げるチャイムが鳴ると同時に、経理課の高橋はパソコンを閉じた。
デスクの上を綺麗に片付け、お先に失礼します、と小さな声で挨拶をする。
目立たない眼鏡。
地味な色のカーディガン。
どこにでもいる、真面目で影の薄い事務員。
完璧な擬態だ。
「お疲れ様です、高橋さん」
俺は残業用の伝票を抱えながら、通路ですれ違いざまに彼女へ声をかけた。
彼女はビクリと肩を震わせ、おどおどと会釈を返してくる。
その怯え方すら、計算された演技なのだろう。
だが、俺の用事は挨拶ではない。
すれ違ったその一瞬。
俺の指先から放たれた3つの小さな影が、彼女の持ち物へと飛び移っていた。
斥候蜘蛛Aは、彼女の鞄の底へ。
斥候蜘蛛Bは、コートの裾の裏側へ。
斥候蜘蛛Cは、ヒールの踵の内側へ。
すべて、Fランクの【配送】スキルによる座標移動だ。
接触する必要すらない。
認識した座標に、物質を強制的に配置する。
コスト、3万クレジット。
小杉という無料の宿主に見切りをつけた俺が支払った、新たな宿主への手付金だ。
「……お疲れ様でした」
彼女は足早にオフィスを出て行く。
俺はその背中を、社畜の仮面の下から冷ややかに見送った。
逃がさない。
お前がどれだけプロだろうと、俺の視界からは逃げられない。
帰宅後。
俺はシャワーを浴びる間も惜しんで、モノクルを起動した。
左目の視界に、3つのウィンドウが同時に展開される。
「……ほう」
思わず感嘆の声が漏れた。
彼女が向かった先は、俺が住んでいるような貧民街のボロアパートではなかった。
都心の夜景を一望できる、湾岸エリアの超高層タワーマンション。
エントランスにはコンシェルジュ。
エレベーターには幾重ものセキュリティロック。
小杉のような小物が一生かかっても住めないような要塞だ。
だが、鞄に張り付いた蜘蛛にとっては無意味だ。
彼女自身がパスキーとなり、俺の目であるスパイを最上階へと運んでいく。
45階。
彼女が部屋に入ると同時に、蜘蛛たちはそれぞれの配置につく。
鞄の底からリビングのソファの下へ。
コートから天井の照明の裏へ。
広々としたリビング。
イタリア製の高級家具。
窓の外には、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景が広がっている。
「……いいご身分だ」
俺はワンルームのベッドの上で、コンビニの冷えたおにぎりをかじりながら呟いた。
この格差。
昼間は安月給の事務員を演じながら、夜はこの城で優雅に暮らす。
それだけの金を、彼女は裏で稼いでいるということだ。
小杉の小遣い稼ぎとは桁が違う。
やはり、俺の目に狂いはなかった。
彼女なら、俺のBランク魔石を捌ける。
画面の中、彼女が動き出した。
玄関の鍵を厳重に閉め、カーテンを閉め、遮音結界の魔導具を起動する。
ここが安全地帯だと確認した瞬間。
彼女は、眼鏡を外した。
後ろで束ねていた黒髪を解く。
地味なカーディガンを脱ぎ捨てる。
そこに現れたのは、昼間の冴えない事務員ではなかった。
冷ややかで、鋭利な刃物のような美貌を持つ女性。
安酒ではなく、ヴィンテージのワインをグラスに注ぎ、ソファに深く沈み込む。
「……ふぅ」
彼女が長く息を吐いた。
完全に油断している。
俺はその無防備な姿を見ながら、手元のメモ帳に手を伸ばした。
今すぐ、このテーブルの上に手紙を送りつけてやりたい。
だが、俺の手は止まった。
(……無理か)
俺のスキル【配送】の条件。
それは、対象座標への物理的な訪問履歴があること。
俺の脳が場所を知らなければ、送れない。
蜘蛛の映像は見えている。
だが、俺自身の肉体は、あのタワマンに足を踏み入れたことがない。
視界共有だけでは、座標登録にはならない。
「……チッ」
悔しいが、ルールには逆らえない。
この絶対安全圏にいる限り、俺は彼女に指一本触れられない。
だが、焦る必要はない。
彼女には、必ず訪れなければならない場所がある。
俺が座標を知り尽くし、誰よりも自由に支配できる場所。
会社だ。
俺はモノクルを外し、不敵に笑った。
「明日の朝だ、高橋」
「その完璧な擬態を、俺が剥がしてやる」
翌朝。
始業15分前。
オフィスの空気はまだ冷たい。
高橋はいつものように定時より早く出社し、誰とも目を合わさずにデスクワークを始めていた。
眼鏡にカーディガン。
昨夜のタワマンでの美女とは別人のような、地味な事務員の背中。
俺は自分の席で、スマホを弄りながらその様子を監視していた。
もちろん、ゲームをしているわけではない。
画面に映っているのは、昨夜彼女の私物に仕込んだ斥候蜘蛛からの映像だ。
会社でモノクルなど装着すれば、即座に不審者扱いだ。
だが、スマホなら誰も気に留めない。
仕事に飽きてサボっているダメ社員。
今の俺には、それが完璧な迷彩になる。
(……さて、値踏みだ)
俺は昨夜の光景を反芻する。
タワマンの家賃、高級家具、ヴィンテージワイン。
あの生活水準は、小杉のような小遣い稼ぎレベルの横領では維持できない。
彼女は本職だ。
組織に雇われた産業スパイか、あるいはフリーの潜入屋か。
いずれにせよ、盗んだ情報や裏金を洗浄し、正規の資産に変えるための太いパイプ――プロ御用達の換金ルートを必ず持っているはずだ。
俺が欲しいのは、彼女自身ではない。
彼女が持っているそのルートだ。
小杉の貧弱なルートでは、俺のBランク魔石は捌ききれない。
だが、プロのルートならあるいは。
(……試させてもらうぞ)
俺は手元に用意した3枚のメモと、ハンカチに包んだあるブツを確認する。
手書きではない。
PCで打ち出し、指紋がつかないように処理した印字用紙。
特定されるリスクは徹底的に排除する。
彼女がコーヒーを一口飲み、キーボードへ手を伸ばした、その一瞬。
無防備になったその隙こそが、俺の狙うタイミングだ。
俺は彼女のデスク、その一番上の引き出しの中の座標を指定する。
このオフィスなら、俺は何百回と歩き回っている。
座標の誤差はミリ単位で修正できる。
「【配送】」
音もなく。
閉じた引き出しの中に、一枚の紙片が出現する。
彼女が伝票を取り出そうと、引き出しを開けた。
その手が、ピタリと止まる。
そこにあるはずのない、見覚えのない紙。
彼女は不審げにそれを手に取り、開いた。
『私は、あなたの正体を知っている』
彼女の背中が、石のように硬直した。
慌てて周囲を見渡す。
だが、誰も彼女を見ていない。
俺も、欠伸を噛み殺しながらスマホをスクロールしているだけだ。
彼女の動揺が、スマホ越しの映像から手に取るように分かる。
誰?
いつ入れたの?
正体って、どこまで?
思考が混乱している隙に、追撃だ。
二枚目。
今度は、彼女のカーディガンのポケットの中へ。
ふとした拍子に、彼女がポケットへ手を入れた。
指先に触れた異物に、彼女の肩が跳ねる。
恐る恐る取り出されたその手は、小刻みに震えていた。
『昨夜、小杉のデスクから抜いていましたね』
彼女が口元を押さえ、小さく嗚咽を漏らした。
顔色が蒼白になり、冷や汗が頬を伝う。
決定打だ。
正体を知っているという抽象的な恐怖と、犯行現場を見たという具体的な証拠。
この二つを突きつけられれば、彼女の擬態は崩壊する。
昨夜のタワマンでの余裕はどこにもない。
ここは彼女にとっての敵地。
誰が監視者か分からない状況で、秘密を暴かれる恐怖。
彼女は今、見えない銃口を突きつけられているのと同じだ。
仕上げだ。
俺は、手元のハンカチ包み――中身はBランク魔石――を握りしめる。
未登録の場所には送れない。
だからこそ、ここで渡す。
配送。
彼女の足元に置かれた鞄、その底へ。
三枚目のメモと共に、重たい異物を送り込む。
彼女が鞄の異変に気づき、中を覗き込もうとした瞬間、一番上に置かれたメモが目に入る。
『中身を見るな』
『沈黙を守ってほしければ、そのサンプルをあなたの商人の元へ運びなさい』
『それはあくまで見本です。商談が成立すれば、同品質のものを山のように用意できると伝えなさい』
彼女は息を呑み、鞄の口をきつく握りしめた。
Bランクの魔石ひとつ程度なら、彼女のクラスなら驚かないかもしれない。
だが、それをただのサンプルと言い切り、山のようにあると豪語する供給能力。
それが本当なら、個人の探索者が扱える規模ではない。
背後に巨大な組織か、あるいは未知のダンジョンルートを持っていると錯覚するはずだ。
要求の意味を理解したのだろう。
これは単なる脅迫ではない。
極めて高額なビジネスの仲介役になれという、逃げ場のない命令だ。
彼女にとって、最もROIが高い選択肢は服従だ。
彼女は震える指でスマホを操作し、メモアプリに文字を打ち込んだ。
そして、画面をさりげなく――監視者に見えるように――デスクの上に置いた。
『……わかった。今夜22時。私がいつもの店に行く』
『そこで商人に話を繋ぐ。それ以上のことはできない』
画面に表示された服従の言葉を確認し、俺は心の中で頷いた。
(……交渉成立だ)
俺は無表情のまま立ち上がり、給湯室へ向かうフリをして彼女の席の横を通った。
彼女はビクリと身を縮め、書類に顔を埋めるようにして俺をやり過ごす。
もちろん、声などかけない。
接触すれば、俺が監視者だとバレるリスクが発生する。
俺はただの同僚Aとして通り過ぎ、彼女の服に張り付いている3匹の蜘蛛とのリンクを確認するだけだ。
会員制バーか、裏ギルドか。
彼女がどこに行こうと構わない。
彼女が運んだサンプルと、俺の供給能力という情報が、あらゆる言葉よりも雄弁に語ってくれるはずだ。
俺は社畜の死んだ目を装いながら、その場を後にした。
会いになんて行ってやるものか。
俺は幽霊のまま、実利だけを啜らせてもらう。




