閑話 烏の翼
ある日の午後、迪遼の執務室で4歳の翠玥は絵本を読み上げていた。身近な大人にに絵本を読み聞かせるのが最近の翠玥のブームだった。孫悟空が筋斗雲に乗って悠々と空を飛ぶ場面を読みながら、翠玥は胸を踊らせた。
「老師は飛べるの?」
音読を止めて、翠玥は尋ねた。
迪遼は絵本の音読を聞きながら書類仕事をしていた。
「ん〜、空は飛べませんね。ちょっと人より高く跳躍はできますけど」
いつの間にか屋敷を訪れていた静雨がヒョイと顔を出した。
「翠玲は飛べたぜ」
「お母さまが!」
翠玥は目を輝かせ、静雨に食いついた。
「どうやったら飛べるようになるの?」
「昔崖から落ちて、気がついたら飛んでいたとか」
「崖から……」
「火事場の馬鹿力ってやつかね」
「ダメ、ダメダメ。反対です。試すと言わないでくださいね」
翠玥は固唾を飲み、明らかに何かを検討していた。迪遼は経験則として即座に止めなければならないと判断した。
「大きい布を持って飛びます」
翠玥は真剣だった。
「発想はいいけど、ぶっつけ本番はだめだろうな」
静雨が冷静につっこんだ。
「おためしが必要」
翠玥はやる気に満ちていた。静雨のアドバイスを即座に取り入れようとしている。迪遼は思いとどまらせようと説得を試みた。
「小玥。ただでさえ人間の技術の進歩で我々は制空権を失って久しいんですからね。空はもう昔のような楽園ではないのですよ。飛ばなくたっていいじゃありませんか」
「そうだなぁ。俺も飛行機は好かないな。おっかねぇよ」
「でも、飛ぶってどういう感じなのか知りたいです」
翠玥は諦めていなかった。静雨はできるだけありのままを伝えようと言葉を選んだ。
「そんないいもんじゃないぜ。疲れるし、寒いし、でも、どんな遠回りもせずに、行きたい場所に行けるのはいいかな」
「静雨はお母さまと一緒に飛んだ?」
「飛んだよ。色んなところに行った」
静雨の脳裏にはかつて翠玥の母と過ごした日々が鮮やかに蘇っていた。翠玲は飛ぶのが好きだった。静雨は翠玥にも同じ体験をさせてあげたいと考えた。
「興味があるなら今度カラス連中に頼んで、少し運んでもらおうか?あんまり高くは厳しいだろうけど」
「本当に!?ありがとう、静雨!」
翠玥は喜んで静雨に抱きついた。
「絵面が、攫われる子猫みたいになりませんか、それ」
迪遼の懸念は誰にも拾われることはなかった。
※※※
翌日、翠玥は烏たちに運ばれて空を飛んだ。
静雨は仲間の手前、烏型を取って翠玥に付き添っていた。傍目には夥しい烏の群れに攫われているように見えたが、翠玥本人は大興奮だった。
「わぁ〜〜!にゃ〜〜〜!!」
風が強くて、浮遊感が強くて、痛いほどだが、見渡した景色の広さに翠玥は力いっぱい歓声を上げた。
「わああ!小玥!!降ろして!降ろしてください!!」
初めは見守っていた迪遼だったが、大量のカラスに包まれながら遠ざかる翠玥の姿に耐えられなかった。叫ぶ迪遼の隣で、式神で養育係の阿刀羅は青ざめて震えていた。
「小姐はこのあと…捕食されないですよね…?」
「されてたまるもんですか!」
そんな会話が地上で繰り広げられているとも知らず、静雨が遠くに見える保護者二人を嘴で指し示した。
「手を振ってるぞ」
「本当だ!老師〜!阿刀羅〜!」
翠玥は喜色満面で二人に応えた。
「助けを求めてる!!」
阿刀羅は悲鳴を上げた。
「阿刀羅、本体に戻って!!あなた式神で、本性は紙人形ですよね?紙人形なら飛ばせます!」
「ダメです!飛んでいっても、本体じゃ何もできません!!」
二人が翠玥を救出するため目を剥きながら作戦を練っている間に、翠玥はゆっくりと下降し、地上に降り立った。地に足をつけた途端、体の重みに翠玥は少しよろけた。翠玥は烏に支えられて、体重を忘れていたのだと気づいた。翠玥は腕を振り回したくなった。
「楽しかった!!鳥になったみたい。空の上ってどこまでもどこまでも見渡せるのよ!お屋敷もお庭も、老師も阿刀羅もぜんぶ見えたの!」
翠玥は空を飛んだという興奮そのままに、静雨と手を繋いで回った。
「気に入ってもらえて良かった」
静雨は回りながら屈託なく笑った。
お礼のさくらんぼを受け取って、烏の群れは帰って行った。
「老師、阿刀羅!またやりたいです」
翠玥が駆け寄ると、阿刀羅と迪遼は代わる代わる翠玥を抱きしめながら泣いた。
「小玥ごめんなさい、許可できません…」
「小姐、私からもお願いです。心臓が保ちません…」
「あらら、こりゃダメだ。老師と阿刀羅が泣いちゃったなぁ」
「どうして?二人とも泣かないで…ぇ…っく…」
翠玥は飛行を禁止された悲しみと、保護者が泣いているのに釣られて泣いた。
「みんな泣いちゃったぁ…」
静雨はおろおろした。
「もう危ないことしないでください小玥」
迪遼がおいおいと泣いた。
「危なくなかったです、静雨がいたもの!」
翠玥は泣きべそをかきながらも果敢に主張した。視線の先には静雨がいた。
大人二人に険しい瞳に見つめられて静雨は空を仰いだ。お前たちだって反対しなかったじゃん。静雨は思った。
面倒臭いことになるのは目に見えていたが、一応主張できることは主張したほうがいいと経験則で知っていた。
「危なくなかったぜ。ずっと俺がついてたんだから。カラスはあれぐらい持ち上げられるし、万が一の時も俺が人型になって小玥を抱えるはずだったんだよ」
「それなら!あなたが最初から人型で抱いて飛べばいいでしょう?」
「小玥は自分で飛んでみたかったんだろ。抱っこされるのだと感覚が違うだろうが!」
「お二人とも落ち着いて、静雨も一理あります。光景は最悪でしたが……」
冷静になった阿刀羅のとりなしがあって、安全性の問題について改めて話し合い、静雨はなんとか無罪放免となった。
しかし、次回の約束は取り付けられなかった。
翠玥は小一時間ほど拗ねていた。




