愚者の水盆 後編
※本話は精神的苦痛、自殺、ハラスメントを想起させる描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。
神父は漣一つない水盆の完璧な鏡面を覗き込んだ。本気で信じていたわけでは無かった。怪しげな東洋人が適当なことを言って自分を煙に巻いている可能性の方がずっと高いと考えていた。しかし、水面を見つめているとぼんやりと浮かぶ色があった。それは像を作った。4-5人ばかりの若いシスターが話している姿が垣間見える。神父は、自分のものではない小鳥のような胸の鼓動を感じた。瞬きとフォーカスがかかった景色の中、草を踏み締める感触がはっきりとあった。視界は自分で制御できない。しかし、確かに今神父はシスター達の話を物陰で立ち聞いていると感じる。
これが記憶の追体験なのだと神父は実感した。
記憶の主はひどく緊張していた。記憶が感じさせる焦燥感に神父も落ち着かなくなった。他愛無い娘達に何を怯えることがあるというのだろう。
「神父様は今日も素敵だったわね」
「そうね、恐れ多いけどやっぱりお顔がいいのよ」
神父は少しいい気分だった。
「そういえば、あの子。また呼び出されてたわ」
「えぇ、またぁ?なんなのかしらね」
「神父様は元々若いシスターには距離が近いけど、あの子はそれほど見た目も良くないのに贔屓されてるのが不思議よ」
「別に不思議じゃないわ。あの子、神父様を誘惑してるのよ。全くふしだらな女」
神父はその発言の主に見覚えがあった。確かセシリアという素行に問題のあるシスターだった。
話を聞きながら鼓動がどんどん早くなって肩が上がっていくのを感じた。なんと落ち着きのないことだろうと神父は思った。
そのような事実はないのだから堂々としていればいいのだ。
「しっ!滅多なこと言っちゃダメよ」
「私見たのよ、神父様に体を触らせているところを。怖いことに彼女、笑ってた」
神父は耳を疑った。この修道院に派遣されているのは自分だけのはずだ。何かがおかしい。聖職者たる自分が、若いシスターを変な目で見ていると思われるのは耐え難かった。
「……誓願に背いたということ?」
記憶の主の鼓動が一層早くなった。顔が痺れてきて、息がうまく吸えなくなった。手はひどく冷え切って、全く血が通っている感じがしない。頭からサッと血流が引いていくような感覚があった。しかし、耳は話を拾い続けていた。
神父は記憶の主の身体感覚に引きずられそうになる意識を必死で保った。しっかりしなさい。後ろめたいことはない、言い返しなさいと心で叫んでいた。
「いつもあの子だけミサの後に呼ばれるのはそういうことだったの?」
「いつもというほどでもないじゃない」
「でも先週は2回も呼び出されてたわよ」
話し声はいつの間にか遠くでこだまするように頭に入ってこなくなった。しかし、それでも記憶の主は立ち尽くしていた。シスター達が完全に立ち去ってから、記憶の主はようやく二、三度喘いで、ハンカチを口元に当てた。顔が酷く熱かった。涙は顔中を濡らしていた。
記憶の主はその場に座り込んだ。
溶けるように景色が移り変わっていく。
背中に衝撃を感じ、運んでいた箱を取り落としてしまった。記憶の主は倒れ込んだようだ。床が近く見える。ジンジンと響く膝の痛みが鮮明だった。おそらくバザー用に作られたクッキー入りの袋が箱からこぼれ周囲に散乱した。
記憶の主は酷い羞恥から顔があげられなかった。声すらも、喉が詰まったようになって苦しかった。
「ご、ごめんなさい」
「いいけど、鈍臭いから隅の方を歩いてくれる?」
「……ごめんなさい」
クッキーをかき集めて逃げるようにその場を後にした。足はまだ痛んだ。記憶の主はハンカチを取り出すとそっと目元に当てた。
神父は気の毒になった。彼女が控えめなことは知っていたが、自分からぶつかってきた人間にまでどうしてこれほど下手に出るのだろう。
また、滲むように景色が変わった。
現れたのは神父自身だった。
不思議なことに記憶の主はまた緊張しているようだった。鼓動がひどく早かった。
ひょっとしたら彼女は自分に思いを寄せていたのだろうかと神父は思った。
「変わりはないか?君は我慢強いから心配だ」
神父が肩を抱いた。その手が肩から二の腕に向かって滑ると、記憶の主はゾワっと全身に鳥肌を立てた。体は力が入り石のように固くなっていた。
「神父様……私のようなものをいつも気にかけてくださってありがとうございます」
「当然のことだ。子供の頃から知ってるのだから、君の考えていることなどお見通しなんだよ。今、何か悩みがあるね」
神父は微笑みを浮かべて記憶の主の瞳を覗き込んだ。吐息が顔にかかり、記憶の主は思わずのけ反りそうになったのを、必死で押さえ込んで笑顔を作った。
一体これは、何を見せられているのだろう。神父は思った。確かに自分の顔をしているのに、まるで知らない人間のように見えた。彼女を見つめるその目は、蛇のような嫌悪感を感じさせた。本当にこれは彼女の記憶なのだろうか?
「神父様にはお見通しですね……以前、お話ししたセシリアのことですが、彼女はやはり個人的にいくつかの金品を手に入れているみたいです。大事にはしたくないのですが……」
「おお、なんということだ。君が胸を痛める必要はないよ」
神父は彼女の腰を抱き寄せた。神父の体に触れた左半身が強い違和感を訴えているのを彼女は無視した。そうしているうちに、体は緊張し切ってもう何も感じなくなっていた。
「私が良いようにするから、安心しなさい」
「神父様……ありがとうございます。彼女の魂が救われますように……」
「おお……なんて慈悲深い」
神父の手が僅かに腰より下に触れた。記憶の主はギョッとして神父を見たが、神父とは目が合わなかった。神父は何も気がついていないような顔をしていた。記憶の主も慌てて気にしていないフリをした。
鼓動の速さだけが彼女に警告し続けていたが、石のような体は少しの身じろぎも、ましてや神父を拒むこともなかった。
神父が去っていって、記憶の主は教会の壁へと身を寄せた。緊張が切れたようにその場に崩れ落ちて、苦しい呼吸を繰り返した。
「私はずっとこうやって生きていかなければならないの?こうやって、嫌なことをして、自分を守っていかないといけないの?こんなの商売女と変わらない……」
頬をいくつも涙が伝った。記憶の主はハンカチを取り出すと開いて顔に当てた。
そんなつもりじゃなかったんだ……神父は彼女に訴えたかった。心通じ合っていると思っていたのに、騙されたと神父は思った。
涙に滲んだ光景もやがて消え去った。
一人の若いシスターが鬼のような形相で詰め寄ってきた。胸元を掴まれて、壁に背を強かに打った。
「尻軽女!あんたが神父様に何か言ったんでしょう、シスター・セシリアがあんな鄙びた土地に飛ばされるなんてどう考えてもおかしい」
息が苦しかった。とにかく逃れたかった。
「わ、私はなにも、」
シスターは呆れたように鼻を鳴らした。
「シラを切るわけ?あなたが朝のミサの後、神父様を誘惑してたこと、みんな知ってるから。我慢できないから告発する。あなたみたいな人は修道会を追放されればいい」
シスターが立ち去った後、しばらく記憶の主はその場にとどまった。手が小さく震えていた。止めようとしたら,体全体がガクガクと震えた。寒いと思えば寒いような気もした。止めようと思っても止められなかった。
記憶の主は体を震わせながら、大声で笑った。どちらも完全に制御を外れたもので自分がどうなってしまったのか恐ろしかった。
「あははは、わたし、壊れちゃったのかなぁ。あはは、きっと使いすぎたのね、あははははは」
哄笑だけがしばらく響いた。そのうちぱったりと笑いが消えると、全く息が吸えなかった。顔は酷く痺れ、手は羊の蹄のような形に固まっていた。記憶の主は酸欠に倒れ込みながらも、天を仰いだ。
「神様……」
記憶の主は浅い呼吸を繰り返しながら壁に手をついて立ち上がった。呼吸は完全におかしくなっていて、酷く苦しかった。
「神様……あなたのお側なら息ができますか?」
肩で息をしながら天に問いかけた。天は答えなかったが、代わりに鐘が目に入った。
力の入らない体を引き摺りながら記憶の主は階段を登った。鐘塔の手すりに捕まると、激しい風を頬に感じた。彼女の意識は水盆の場面が切り替わるように溶けて消えた。
それきり水盆は何も映さなかった。
※※※
「お客様、意識はしっかりされていますか?」
放心する神父に迪遼が声をかけた。
神父の目は迪遼を映していたが見ていなかった。
「そんなつもりじゃなかったんだ……私は、彼女を元気づけようと良かれと思って。彼女だって笑ってた。いつだって」
神父は言い訳を続けながら、本当は一度だけ、彼女にやんわりと手をよけられたことがあったことを思い出していた。年頃の娘の照れだと思って、下心はないのはわかり切っているのだから、あからさまに嫌がるのは失礼だと教えたことがあったっけ。
「お飲みなさい」
うわ言を繰り返す神父に迪遼は水を注いで長卓に置いた。神父には触れたくなかった。
神父は差し出された水に手をつけずに空を見つめて呟いた。
「すべて、私のせいか?」
神父は瞳をめぐらせて、ようやく迪遼を見た。そして憎々しげに呟いた。
「やはりお前は悪魔だった……」
迪遼は思わず笑ってしまった。
「あなたにとってはそうなのかもしれないですね。彼女にとってはどうなのでしょう」
神父は迪遼を睨みつけたが、迪遼は全く意に介さなかった。
「彼女の死の理由はご覧いただけましたね。あなたの望みは叶いました。お代をいただきます」
「待て、待ってくれ」
神父の持つロザリオを迪遼は奪い取った。十字架の角は取れ、身につけていた歳月と神父の権威が窺えた。
迪遼はこんなものは最初から要らなかった。欲しいのはそれが齎す結果だった。
「神父様。これで、あなたの罪を知るのはあなただけです。二度と悲劇を繰り返さない義務があなたにはあります」
神父は水盆を覗いた時は一滴も流さなかった涙を流した。そして、何も言わずに、店を出ていった。その背は細く何十歳も老け込んだようだった。
※※※
迪遼は知らずに眉を顰めていたことに気づいて眉間を伸ばした。
「まったく、シワができたらどうしてくれるんですか」
神に仕える者であっても、父親の顔をしていても、自分の欲で弱い者を窒息させる者こそ悪魔と呼べるのではないか。迪遼は神父を嫌悪する反面、我が身を振り返ってみるとどうかと思った。
自分は翠玥を恐怖で固めていないだろうか、無意識に自分の機嫌をとるように操作していないだろうか。
迪遼はぐるぐると考えながら応接スペースに向かった。
「老師!今ちょうど阿刀羅がお茶を淹れてくれたところでした」
翠玥が駆け寄ってきて、迪遼の手を引いた。
迪遼は翠玥の表情や、自分に触れた手を観察した。
「老師、お辛いの?」
翠玥に覗き込まれて迪遼はハッとした。
「いいえ、少し考え事をしてて」
翠玥は椅子を引いて迪遼に座るよう促した。
「ミントティーです。茶葉は小姐が選びました。気分がさっぱりしますよ」
阿刀羅がガラス製のティーカップを迪遼の前に置いた。清涼感のある湯気が立ち上った。
「ありがとうございます。小玥、阿刀羅」
迪遼は肩の力を抜いて、爽やかな香りを楽しんだ。




