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天玄堂仙譚  作者: 由花子
7/13

愚者の水盆 前編

※本話は精神的苦痛、自殺、ハラスメントを想起させる描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。

その日、骨董店『天玄堂(てんげんどう)』を訪れたのは、全身を覆う丈の長い黒い服の壮年の男性だった。ふっさりとした銀の混じる暗い髪を撫で付け、手にはロザリオを掛けていた。眼鏡の奥の瞳は穏やかで、年齢を重ねても端正な印象を与える顔立ちだった。

「いらっしゃいませ」

迪遼(ディーリャオ)は目録をまとめる手を止めて声をかけた。陶磁器の皿を磨いていた阿刀羅(アトラ)と翠玥(スイユエ)も同じく声をかける。

「ここは……一体。どういうことだ。あなた達は?」

男性は困惑したように室内を見渡した。王朝風の調度、所狭しと並べられた異国情緒あふれる美しい品々。そして、東洋人と思われる人々。どれも司祭として教会に勤める彼とは縁のないものだった。

「これは、神父様。当店は骨董店です。古今東西あらゆる商品をお取り扱いしております。あなたのお望みを叶える品をご紹介いたしますよ」

戸惑う神父に迪遼は儀礼的に微笑んだ。

「望みを叶えると。これはなにかね、君はなんだ、悪魔か?」

神父は一歩後ろに下がり、ロザリオに下がる十字架を翳した。

迪遼は面倒臭そうに腕を組み、ため息をついた。

「少なくともあなたのおっしゃる悪魔ではありませんね。十字架でも聖水でもお好きにどうぞ。大切なのは、あなたの望む品をお渡しすることが私の仕事だということです。……あ、こんな言い方するとまた怪しがられちゃいますかね」

神父は険しい顔をしていたが、ロザリオをゆっくりと下ろした。

「望みを叶える品を与えると……君が悪魔でないなら、私の望みがこの世で叶うものか」

「聞き捨てなりませんね。当店に、お客様の望みで叶えられないことなどございません。もちろん、望みに応じてそれなりにお支払いただきますけどね」

迪遼は神父に近づいて優しく囁いた。

「神父様、言ってご覧なさい。あなたの望みを」

神父はしばらく口を開けたり閉じたりを繰り返し、ようやく意を決したように話し始めた。

最近、彼の勤める教会の近くの修道院で若いシスターが亡くなったと神父は語った。彼女は昔神父が勤めていた教会の孤児院の出身で、子供の頃から交流があり、目をかけていたという。

「彼女がなぜ亡くなったのか知りたい、真面目で控えめで、清貧・貞潔・従順を絵に描いたような娘だったのに……鐘塔から落ちたなんて、なぜあんな所にいたのか」

「神父様、それは死者の秘密を暴きたいという事ですか」

「そういう言い方をされると……いや、そうだ。二度と悲劇を繰り返さない義務が私にはある」

「よろしいですよ。あまり気乗りはしませんがね」

神父はまだ半信半疑といった様子だった。迪遼は立ち上がって、そっと阿刀羅に目配せした。

阿刀羅は翠玥を店から下げようとしたが、翠玥はそれをやんわりと拒否した。

「大丈夫。以前のようにはならないわ」

翠玥は阿刀羅の手を握り返して、真剣に言った。阿刀羅は困ったように迪遼を見たが、迪遼は渋い顔をして頷いただけだった。

難しい年頃なのだと迪遼は思った。ただ遠ざけるだけでは反発を生みかねない。

阿刀羅は主人の甘さを歯痒く思った。3年ほど前に翠玥が誤って死の記憶に触れた後の動揺をまざまざと思い出していた。しかし翠玥が望み迪遼が許したならば、反論する事は難しかった。

阿刀羅は自分がいる限りどのような危険も翠玥には近づけないと神経を尖らせた。

「あ、あった。これです」

迪遼はカウンターの少し奥の棚から大きな鈍色の盆を取り出した。

迪遼は神父を長椅子に座らせて、長卓に品物を丁寧に置いた。

「こちらは、死者の記憶を映す水盆です」

迪遼は意味あり気に翠玥を見た。翠玥は視線に気づいたが握ったままの阿刀羅の手をささやかな力を込めて、目を逸らした。

「そちらは、君の妻子かね」

迪遼の視線を追って、神父は初めて翠玥と阿刀羅の存在に気がついたように言った。

「彼女達は当店の店員です」

「ほぉ、まだ幼いのに感心なことだ」

「使用方法をお伝えいたします」

迪遼は遮るように言った。しかし神父の興味はなお翠玥に向いていた。

「こちらへおいで。一緒に店主の話を聞こう」

翠玥は戸惑ったが、神父に近づいた。迪遼は眉を顰めた。

「どれ、いい子だね」

神父は親愛の意として翠玥の肩を抱こうとした。その手が触れる前に阿刀羅が見えないほどの速さで払った。

神父は何が起こったか分からず、叩き落とされた衝撃に僅かに痺れる自分の手を少し遅れて見つめた。

「了承を得ずに触れるのは無礼です」

阿刀羅が淡々と言った。

神父は一瞬目を細め、鷹揚な態度で詫びた。

「失敬。子供と接する機会が多くて、つい癖が出てしまった」

阿刀羅は無表情に翠玥を自分の後ろに庇った。

「いいのよ、阿刀羅。西洋の方に私たちは年齢より幼く見えるのでしょう」

「良くありません、小姐。次にこのようなことがあれば私がお屋敷にお連れします」

阿刀羅の過保護ぶりに翠玥は眉を下げた。

「どうした。立っていないでこちらに座ればいい、ご婦人も」

神父は阿刀羅の警戒を意に介さなかったようで、自分の隣を指し示した。

「では、お言葉に甘えて」

阿刀羅は冗談なのか本気なのか分からない調子で答えて、神父の隣に座った。その隣に少し遅れて翠玥が座る。神父は隣に座った女性が迪遼の顔とそっくりなことに気が付いて、不思議そうな顔をした。

阿刀羅はツンと澄まして、迪遼に続きを促した。

「ご主人様、水盆のご説明を」

「ありがとうございます、阿刀羅。使い方は簡単です。この盆を清水で満たし、故人のゆかりの品を沈めます。そして水盆を覗き込むと、故人の体験した過去を追体験することが可能です。神父様、こちらは大変貴重な品ですので店内使用のみの商品となっております。あらかじめご承知おきください」

迪遼は一度言葉を切り、翠玥に言った。

「阿刀羅と一緒に庭の井戸から清水を汲んできてください」

「はい、老師」

翠玥は立ち上がると阿刀羅を連れて店の奥へと向かった。残された迪遼はほっと息を吐いた。

「形見の類はお待ちですか?」

迪遼は神父の上衣から感じる気配に目を向けた。

「これを、彼女の遺品だ」

神父は女性好みのレースの縁取りが施された白いハンカチを取出した。迪遼はじっと検分した。

「……使えそうですね」

迪遼は少し目を眇めて、ハンカチを長卓の上に置いた。

「して、私は何を差し出せばいいかね」

「そうですね……では、あなたのお持ちのロザリオを」

「こんなものを?少しは持ち合わせもあるが」

「ええ。よく使い込まれている。よほど信心深いお方とお見受けします。そう言った物には価値があります」

「いいだろう」

神父は手に掛けていたロザリオの感触を確かめるように指を動かした。

「お客様、使用上の注意がございます。この水盆が見せるのはあくまで記憶。当人にとってのみの真実。人は時に自分の心すら欺きます。惑わされませぬように」

「私は司祭として人々の過ちを許す身。たとえ彼女にどのような過ちがあろうとも、受け止めよう」

「ご立派な心がけです」

迪遼は微笑んだが、眼差しは冷ややかだった。

「……彼女は私を父のように慕っていた。私もまた彼女のことを本当の娘のように思っていた。もちろん、神に仕えるものとして皆に平等に接していたがね」

しばらくして、木桶を抱えた翠玥と阿刀羅が戻ってきた。阿刀羅が翠玥にテキパキと指示を出し、水盆をたっぷりの水で満たした。迪遼は清水にハンカチを浸し、手を離した。

白布が沈み切ると波打つ水面が鏡のように静かになった。

迪遼は少し離れたところで見守っていた翠玥たちに振り向かずに言った。

「記憶を見るのはお客様だけです。あなた達は少し応接スペースで休んでいてください。さっき体を動かしましたからね」

「老師、でも」

「小玥、お店に立つにはお客様と節度を持った距離感を守らなければなりませんよ。阿刀羅と復習なさい」

迪遼は有無を言わせなかった。

「神父様、彼女達への配慮をご理解いただけますね。これからご覧になる記憶は、死を扱うものですので」

「私から申し出るべきだった。ご婦人方は下がってよろしい」

神父は彼らを気遣い離席を促した。翠玥たちは退出の挨拶を述べて去っていった。

「お待たせいたしました。どうぞ覗きこんでください」

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