温もりの対価 後編
ローレルは片田舎の板金工の家に生まれた。
祖父の代までは裕福だったが、父の代になってからは家計は厳しくなっていった。
両親は度々お金のことで言い争った。父がもっと仕事を取ってくればいい。母が働きに出ればいい。互いに責任を押し付けあった。それでも、ローレルが2歳の時には弟が生まれた。弟の産後に母が体調を崩して、ローレルは一時、父方の祖母の家に預けられた。
祖母は子供の遊びに付き合い、優しい笑顔を向けてくれた。
ある日生まれて初めてデパートに連れて行かれて、白いうさぎのぬいぐるみを買ってもらった。祖母はローレルの持ち物だからと、ぬいぐるみの耳に彼女の名前を刺繍をした。
ローレルはうさぎにミミと名前をつけて、毎晩一緒に眠った。
両親の暮らす家に戻ってから、母の関心はまだ幼い弟に向けられた。
ローレルはミミを抱いて一日の大半を子供向けのビデオを見て過ごした。
ビデオが終わると巻き戻してまた最初から見た。一度、テープがビデオデッキに引っかかったことがあった。ローレルがどうやっても伸びたテープは直せず、父は激怒しローレルを叩いた。
両親は普段ほとんど口を聞かなくなっていたが、ローレルと弟を寝かせた後は毎夜のように怒鳴り合った。
ローレルはリビングから漏れ聞こえる両親の声に、固くミミを抱きしめて眠ったふりをしていた。
辛いことがあるとミミを抱きしめて泣いた。
嬉しいことがあるとミミに話しかけた。
刻一刻と悪化していく状況で変わらないものは、腕のなかのミミの柔らかな温もりだけだった。
ローレルが6歳になった頃のことだ。その頃父は酒に逃げるようになっていた。歩くのが覚束なくなるほど酒を飲んでは管を巻く。母は父に代わって郵便局に働きに出ていた。
夜、珍しく父が人と会うと言って出て行った。
父が家を出た瞬間、母はローレルの腕を掴み「これからおばあさまの家に行くよ。長いお泊まりになるから、着替を持ってきなさい」と言った。母のいつもと違う様子が怖くて、入るだけの着替えを唯一持っていたカバンに詰め込んだ。そしてミミを掴んで、訳がわからないなりに母のいうことを聞いた弟の手を握った。
「必要なものは全部持ったね?」
母の言葉にローレルは頷いた。ミミがいる。着替えも持った。
玄関には割れた酒瓶が転がっていた。ガラスの破片を避けて、母は子供達に靴を履かせた。そして、弟とローレルの手をきつく握った。痛いほどだった。
三人は街灯も少ない夜道を歩いた。
バスを乗り継いで、何処かもわからぬ街を歩き続けた。地下鉄に乗ると母が言った。ローレルは疲れていた。弟は母に背負われて眠っている。ホームについた頃、意識が朦朧として、しっかりと握っていたミミを取り落としてしまった。地下鉄の扉が開き、どっと人が降りてきた。ローレルは落としてしまったミミに意識を取られ、母の手を放してしまった。母も気づかないまま、人混みに消えていく。踏まれたミミを泣きそうになりながら抱え上げ、ローレルが視線を上げた時には、母の後ろ姿さえそこにはなかった。
全身が緊張して、ひどく鼓動が速かった。どうしたらいいのかも分からなかったときに、一人の男が声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、迷子かい?」
上から下まで黒尽くめの男は大きな体を精一杯小さく折りたたんでローレルに視線を合わせた。男が首にかけているチェーンネックレスが揺れていた。ローレルは頷いた。声を出したら嗚咽が漏れそうだった。
「着いといで、どうにかしてやるから」
男はローレルに手を差し伸べた。たくさんの指輪がついていた。ローレルが手を掴むと男はギョッとした顔をして、自分が着てた上着でローレルを包んだ。
「こんなに冷えてちゃ死んじまうぜ」
男は結局ローレルを抱えて、駅員に行き先を間違えたと言って地下鉄駅を出た。
ローレルはひょっとして自分は攫われて、二度と母や弟には会えないのでは無いかと思った。
逃げ出さなければと考えるのに体は動かなかった。母に会いたい、でもどうやって?
ミミの柔らかい体を抱いて、ローレルはただ身を固くしていた。
男は迷いなく駅前に並び立つ瀟洒な建物へと入った。
扉を開いた途端に甘い異国の香りがした。
何かのお店のようだ。カウンターには長髪の美しい人が座って本を読んでいた。
「よぉ、来たぜ。天玄堂」
「静雨、その子供は何ですか」
声をかけられた青年は怪訝そうな顔をした。
ローレルは声を聞いて初めてその人が青年だと分かった。
「迷子」
「迷子ですって?うちは交番じゃありませんよ」
静雨はどこ吹く風だった。
「交番よりも確実だろ。お嬢ちゃん、名前は?」
ローレルは見知らぬ人間に囲まれて戸惑いながらも答えた。
「……ローレル」
「いい名前じゃないか」
静雨は屈託なく微笑んだ。
「ローレルを連れていくから、親の居場所を教えてくれ」
「構いませんが、彼女は人間なのでただで望みを叶えるわけにはいきません」
「堅いこと言うなよ。代金なら俺が出すよ」
「静雨、これは決まりです」
青年がため息をつき、ローレルの前に跪いた。
「小さなローレル、あなたの望みを教えてください」
瞳は優しかった。家族から離れて、ローレルはもうずっと不安だった。望みを言えと言うのならば一つしかない。
ローレルは瞳に涙をいっぱいに浮かべて青年を見上げた。
「……お母さんに会いたい」
※※※
「あなたがお母様との再会を願い、ミミはその代償としてこの店に留まったのです。あなたが迎えに来くれる日をずっと待っていたのですよ」
白昼夢のように蘇った記憶にローレルは混乱していた。確かに、子供の頃夜逃げ同然で遠方の母方の祖母のもとへ避難したことがあった。しかし、母と逸れたこともミミをこの店に預けた記憶も今の今まで覚えていなかった。
「ミミ、あなたを置いていくんじゃなかった」
ローレルはミミをかつてのように抱きしめた。
ミミがいなくなって幼いローレルは毎晩ミミの手触りを思い出して嗚咽した。そんなローレルに母は「自分で落としたんでしょう」と呆れたように言った。ローレルはひどく傷ついた。
ローレルは母の言葉をいつしか自分の記憶にすり替えていた。温もりを思い出すたびに失った自分を責めた。母を嫌いになりたくなかった。
「あなたがいなくて、私は辛いことばかりだった」
翠玥は息を呑んだ。ローレルはミミを抱いて子供のように泣き出した。
そのうちローレルの母は恋人をつくり、子供達を連れて同棲するようになった。
母の恋人は初めは優しかったが、すぐに本性をむき出しにローレルと弟を虐めるようになった。ローレルは17歳の時に実家を飛び出して、付き合っていた男性の家に転がり込んだ。
彼は二人で生きようと言ってくれて、指輪を買ってくれた。初めて安心できる人ができたと思った。学校を辞めて働きに出た。慎ましい暮らしが送れれば十分だった。
ローレルは自分の左手で今も光る指輪を撫でた。
同棲してしばらくしてから、彼は度々大金を持ち帰るようになった。
「暮らしていくには金がいる。余っているところからもらっているだけさ」と彼は言った。
ローレルは見て見ぬ振りをした。彼との幸せな暮らしを壊したくなかった。
ある日、弟が亡くなったと連絡があった。弟はひどく真面目な青年に成長していた。堅い職業に就いて真面目に働いていたのに、鬱になって亡くなってしまった。
ローレルは半狂乱になった。自分があの家に置いていかなければこんな結末にはならなかったのではないかと、何度も自分を責めた。
泣き伏せるローレルに、恋人は言った。
「弟さんは真面目すぎた。生きていくためには真面目になっちゃいけないんだよ。俺たちは賢く強く生きるんだよ、ローレル」
ローレルは恋人に言われるがまま、盗みの片方を担ぐようになった。彼女が見張り、彼が盗む。成功した日は祝杯をあげた。
ローレルは思った。自分は生きるためにこうしている。彼と生きるためにこうしている。
だけど、苦しかった。そのうち眠れなくなり、睡眠薬を常用するようにった。
父のようにはなりたくない。お酒は飲まない。
母のようにはなりたくない。子供は産まない。
弟のようにはなりたくない。私は真面目に生きない。
でも苦しい。私は弱く無いのに、苦しい。
どうやって生きたらいいの。
「ミミ、ミミ……」
「この腕輪と、ミミを引き換えますか」
迪遼が静かに問いかけた。
ローレルはゆっくりと視線を上げた。ダイヤモンドは冷たく冴えた輝きを放っていた。
しばらく置いて、ローレルは首を振った。
彼女の心が一つの望みに向かってまっすぐに伸びてゆくのを翠玥は見つめていた。
腕の中のミミもう二度と置いていきたくない、大切なミミを盗品とも替えられないと、彼女の瞳は語っていた。
「この子を売って」
ローレルは迪遼に申し出た。
安心できる場所でミミと一緒に眠りたい。子供の頃のように。ローレルは願った。
「では、お支払いは?」
ローレルは財布を取り出して、紙幣を数えた。全てを渡しても迪遼の反応は冷ややかだった。
「とても足りませんね」
「老師!」
翠玥は抗議の声を上げた。迪遼の判断は少し厳しく感じられた。ミミはそもそもお金で購えるような物ではないのに、と翠玥は思った。
迪遼はすっと自分の唇に指を当てた。
何か考えがあると翠玥は信じた。
ローレルは自分が身につけているものを確認した。ダウンジャケット、化繊のニット、合皮の革靴にベルト。そして、薬指の指輪に視線を落とした。
彼女は指輪を撫でた。これを渡してくれた時の恋人の屈託のない笑顔を思い出した。彼が好きだった。あの笑顔を最後に見たのはいつだっただろう……
ローレルはいつも確認していないと落ち着かなかった指輪をそっと指から引き抜いた。指には丸い跡が残っていた。
「足りるかわからないけど、これしかないの」
「充分ですよ」
指輪を受け取って迪遼は微笑んだ。
「今度はもらい過ぎですね。これを持ってお行きなさい。お釣りです」
迪遼は小さな鉢植えを一つ渡した。ローレルは自分の名前の付いた月桂樹の鉢植えを受け取ると、ミミをしっかり抱いた。
「ありがとう」
「あなたらしく生きられますように」
ローレルは店を出た。
帰るところも定かではないのに不思議と体は軽かった。ローレルは近くの学校に寄ろうと思った。運が良ければルームメイトを募集するチラシが貼ってあるはずだ。
冬の冷たい空気を吸って、ローレルは歩き出した。
※※※
「その腕輪はどうするのですか?」
置いていかれたダイヤモンドの腕輪を見て阿刀羅が尋ねた。
迪遼は一瞬忘れていたと言う顔をした。
「盗品ですから、持ち主のところへ返します。静雨を呼ばないと」
「静雨が持ち主を探してくれるの?」
翠玥も腕輪の行方が気にかかっていた。ローレルがいない今、持ち主を探すのは困難に思われた。
迪遼はあっさり答えた。
「持ち主の居場所は腕輪が教えてくれますよ。見たところ長年受け継がれてきた思い出の品です。座標はこちらで割り出して、静雨に運んでもらいます。カラスと光り物は相性がいいですからね。自然に返してくれます」
翠玥は微笑み返した。
「よかった、あなたも帰れるのね」
翠玥は目を閉じた。
一つの腕輪と、一つのぬいぐるみ、そして一人の女性があるべきところへと帰っていく姿を思い浮かべた。




