温もりの対価 前編
凍てつく風が吹いていた。
彼女は何度もポケットの中身を気にしながら、追われるように街を歩いていた。
摩天楼を見上げることもなく、往来から外れて、人気の無い方へと出鱈目に向かう内に、細い路地に寂れたビルが並び立つ一角に出た。切れかけのネオンを掲げたフライドチキンの店の隣に『骨董店・営業中』の掛札が揺れていた。
彼女は最初通り過ぎようとしたが、ふと足を止め、引き返した。
「こういうお店の方が、いいのかもね……」
白い吐息が現れて、消えた。
彼女は扉を握る手に光る指輪を見つめて、自分を鼓舞するように頷いた。
※※※
若い女性が天玄堂の扉を開いた。
彼女は背が高く、天鵞絨に似た深い艶のある肌をしていた。細かくカールした髪の毛が顔の周りを柔らかく縁取っている。目元には深い隈があり、瞳はどこか苦しげに見えた。
「いらっしゃいませ」
翠玥は刺繍枠を脇机に置いて声をかけた。
女性の肩に降り積もった雪が溶けて床に水滴をつくった。
雪の降る街に扉が繋がったのだなと、手巾を差し出しながら翠玥は思った。
女性はお礼を言って、翠玥の手巾を受け取った。左手の薬指に嵌った金色の指輪が、彼女の肌を一層美しく引き立てているように感じた。
「あなた、目は緑だけど中国人?こんな時間に家の手伝いをしてるの?」
「はい」
「学校は?」
「行っていません」
翠玥は学校というものを知識でしか知らなかったが、女性の言葉にはどこか物悲しい響きがある気がした。
女性は翠玥のよく手入れされた髪や、整った身なりを見て呟いた。
「自宅学習か……」
「お客様?」
翠玥は聞き慣れない言葉に少し首を傾げた。
「なんでもないよ、お家の人はいるの?」
「いらっしゃいませ、何かお探しですか」
店の奥から身頃に豪奢な刺繍の入った黒い華服を着た青年が顔を出した。店主の迪遼だった。
「御来店ありがとうございます。以前お会いしましたね」
「この街に来たのは最近だし、人違いだと思うわ」
女性は怪訝そうに眉を上げた。
「それは失礼。勘違いでした。お茶を淹れたところです。いかがですか?」
迪遼はゆったりと笑って、女性を奥へと促した。女性は戸惑った顔をしたが、迪遼の招きに従った。
「小玥、貴女もいらっしゃい」
「はい、老師」
翠玥は裙の裾を翻して後に続いた。
応接スペースでは、茉莉花と枸杞が浮かぶ香りよく目にも楽しいお茶が振る舞われた。
女性はお茶を口にして息を吐いた。
「お口にあいますか?」
「うん。美味しい……実も花も食べられるの?」
「召し上がっていただけますよ。枸杞は血行を促進しますから、寒い日には助けになります」
女性は少し微笑んだが、すぐにその笑みは物憂げな表情に変わった。
彼女はしばらく無言でお茶を飲んでいた。
同席していた翠玥も、彼女が何か言いたいがそれが怖いのだと気がついていた。
「……あなたがこのお店の店主なんだよね」
女性は空になった茶器を両手で持ったまま迪遼に尋ねた。
「そうです、お客様。お望みの品をなんなりとお申し付けください」
「買いに来たんじゃない」
女性は左手の指輪に触れた。そして意を決したようにポケットの中に手を入れた。
取り出されたのは、大粒のダイヤモンドが連なった腕輪だった。天井の明かりを反射して虹色の煌めきが応接スペースに散った。
女性は長卓にそっと腕輪を載せた。
「1900年製よ。祖母の形見なの。いくらで買い取ってくれる?」
迪遼は薄い笑みを浮かべた。
「当店、買取は行っておりません。それにこれは、あなたのものではありませんね」
女性は笑った口のまま言葉を探した。
「いきなり何を言うの、失礼な人。これは私の祖母のものよ」
迪遼はとりつく島もなかった。
「当店に盗品を持ち込まれては困ります。あなたもこんなことはお止めなさい」
「何を知ったような口を聞いているの?私の何がわかるの?」
「ご自身が一番わかっていることです。あなたは、自分のやっていることに怯えていますね」
迪遼はお茶を一口含んで静かに言った。女性は唇を震わせた。
「私は怯えてなんかない!これは、当然の権利。生きるためにやったことなんだから。胡散臭いアンティーク・ショップをやってる人にとやかく言われたく無い。あなたたちだってどうせ後ろめたいことをやってるくせに」
女性の叫び声を聞いて屋敷につながる扉から阿刀羅が現れた。阿刀羅は女性から遮るように翠玥の横に立った。
店主とそっくりな顔をした阿刀羅に女性は驚き、次に酷く傷ついた顔をした。
「なに、あなたたち双子?……盗みをやったからって、その子には何もしないよ、やめてよ。子供まで盾にして、私を責めないで」
「阿刀羅、大丈夫よ」
翠玥は阿刀羅の袖を引いた。阿刀羅は答えず迪遼を見た。迪遼は待て、と言う風に手を上げた。そして、ダイヤモンドの腕輪を興味なさげに取り上げた。
「気が変わりました。これを買い取ることはできませんが、特別に店の商品と引き換えて差し上げましょう」
「ふざけないで、本物のダイヤモンドなのよ。こんなお店に、」
気色ばむ女性に迪遼は言葉を被せた。
「この腕輪よりも価値のある品は当店に数多くございます。一眼見てからでも遅くはありません」
迪遼は本棚の上に並ぶ螺鈿の箱を指し示した。
「宝石、というのなら」
迪遼は宝石箱の一つから拳ほどの大きさの深緑のエメラルドを取り出した。
「これは、とある王家の家宝で、家の繁栄と幸福を守ると言い伝えられています」
女性は鮮やかな輝きに息を呑んだ。しかしその目は眩んではいなかった。むしろ翠玥は女性の横顔に焦りが滲んでいると感じた。
「あぁ……ここで交換しても、これほど価値ある宝石でしたら質入れに苦労するかもしれませんね。でしたらこんなものはいかがですか?」
迪遼は応接スペース近くの本棚から、いくつか冊子を取り出し広げた。
「これは世界各国の切手を集めたものです。価値は計り知れません。この赤い子猿の切手一枚でしばらく生活するのに困らない金額が手に入るでしょう。もちろん、切手帳ごとお渡ししますよ」
女性は迪遼の手に握られた腕輪と切手帳に視線を往復させた。忙しなく何かを考えているようだった。
「本当に、なんでもいいの?」
左手の指輪を撫でながら女性は尋ねた。
「もちろん、あなたの望みのままに」
迪遼は微笑んで指を立てた。
「あぁ、そうそう。とっておきがございます……小玥。阿刀羅と一緒に倉庫に行って、あれを持っていらっしゃい」
翠玥は頷いて阿刀羅と共に倉庫に向かった。
最近になって入り口近くの棚に置かれるようになった品物を翠玥は手袋を着けた手でそっと持ち上げた。
「老師があなたを呼んでるわ」
「小姐、肌に触れないようお気をつけて」
阿刀羅は一応注意を促した。
「平気よ。首の詰まった服だし、この子はとてもおとなしいから」
翠玥は直接手に触れたら何が見えるのだろうと、気になる気持ちはあったが、阿刀羅がいたので試すことはなかった。
「お客様は気にいるかしら。彼女はお金が必要なのでしょう?」
阿刀羅は少し眉を顰めた。
「どうでしょう」
「お客様を嫌わないで。きっと、本当はやりたくなかったのよ」
「一線を越えるか超えないかは自分で決めること。超えてしまったら、どんな思いでも関係ないと私は思います」
「……老師もそうおっしゃるかしら」
「わかりません。ご主人様にはご主人様のお考えがありますから」
阿刀羅は翠玥を心配そうに見つめた。
「小姐、お客様とは適度な距離感を取らなければなりません。体だけではなく、心もです」
応接スペースに戻ると、女性は隈の浮いた目で億劫そうに翠玥の抱える物を見た。
「それもマニアに高く売れるの?」
「手にとってご覧になってください」
翠玥は女性に品物を差し出した。
赤茶色のくりくりした瞳の、柔らかな白い布地でできたうさぎのぬいぐるみだった。
女性は吸い寄せられるようにぬいぐるみを受け取ると、長く垂れた耳をそっと持ち上げた。
耳の内側は少し色褪せたサテン生地で、左耳の先には"Laurel"と刺繍が入っていた。
女性は信じられないものを見るように、その文字を見つめた。
「どうして、ここに……」
女性は呆然と呟いた。
「あの日失くしてしまったものだと思ってた。どうしてここに……?」
迪遼は彼女の問いに答えた。
「それはあなたからお預かりしたものです。あなたはしっかりとお友達を抱いて、この店に来ました。小さなローレル」




