一昼の物語
「なんてことなの!?こんなに書物があるなんて、夢にも思わなかったわ」
骨董店『天玄堂』に歓声が響き渡った。
声の主は10代半ばにさしかかるかという年頃の少女だった。からげた唐花の織の桜色の袿に、朱色の掛け帯を胸に巻いた壺装束。その装いは見るからに良家の子女だ。
本棚に積まれた東西の書籍に、少女は喜色満面に、翠玥の手を取って飛び跳ねた。同じ年頃の少女の気安さに、翠玥も嬉しくなって一緒に飛び跳ねた。
「あぁ、本当にお母様に着いてきてよかった。まるで極楽じゃないの」
少女はうっとりと語った。
※※※
聞くところによると、少女の一行が寺社詣の途中、侍女の一人が日差しで具合を悪くしたらしい。看護のため一行はやむを得ず足を止めることになった。
手持ち無沙汰になった少女は散策しようと人目を忍んでそっと抜け出した。
しばらくそぞろ歩いていたところ、近くの廃寺のお堂に行き着いた。そこで、廃屋には似つかわしくない玻璃の嵌った扉が目に着いた。
扉の向こうから漏れ聞こえる楽しげな声に、これは何かがあると思い、彼女は迷わず聞き耳を立てた。
しばらくそうしていたが、埒が開かぬと薄く向こうを透かす玻璃を覗き込んだ。その時、翠玥はお客が来ていないかと扉をこっそりと覗きに来ていた。
偶然にもガラスを隔て互いの目が合った。
二人は気まずく微笑み合い、彼女は店の中へと入った。
「いらっしゃいませ」
カウンターから迪遼が声をかけると、少女は少し驚いた顔をして畏まった挨拶をした。
しかしそれはすぐに未知のものに対する好奇心に取って代わったようだ。少女は迪遼の服を興味深くみて、翠玥の瞳をのぞいた。
「あなたの目は翡翠のようね。きっと、宋にはあなたのような目の人がいるものなのね」
少女は一人頷いた。
「てっきり男女の逢瀬かと思えば、宋の国の方たちがいらっしゃるなんて。都というのはすごいところだわ」
少女は室内を見回した。
水晶のように透明な玻璃を贅沢に使った大きな台の中に所狭しと品物が並べられている。
彼女の基準からするととてつもない財に少女は目を丸くした。
翠玥は幼い頃、初めてこの店に入った時の自分を思い出した。彼女と同じように知らない美しい品々に胸を躍らせていた。
「ご案内しましょうか」
「いいの?私は多分唐物を購えるだけの品は持ち合わせていないけど」
カウンターからチラチラと様子を伺っていた迪遼に翠玥は尋ねた。
「構いませんよね」
「ええ、もちろん。店を訪れた以上、立派なお客様です」
二人の少女は顔を見合わせ、自然と笑みを交わした。迪遼も知らず目元を和ませた。
翠玥は少女を案内しようと一歩前に出て、振りむいた。
「そういえば、あなたをなんとお呼びしたらいいでしょう」
「そうね、私の父は上総国の国司を務めていたので、上総の君とでも呼んでちょうだい。私はあなたをその瞳にかけて、翠の君とお呼びしたいわ」
「では、上総の君。ご案内いたします」
翠玥はほっと胸を撫で下ろした。お店に立ってから一年余、お客様に自分から呼び名を尋ねるのは初めてだった。そして同年代の少女から呼び名を付けられるのも初めてだった。
少女達は和気藹々と店内を歩き始めた。
終始楽しげな声が聞こえていたが、応接スペースに立ち入ったと思われたあたりで、上総の感極まった声が響き渡った。
そして冒頭に戻る。
※※※
応接スペースの本棚を見た上総の喜びは大変なものだった。
「なんと素敵なことでしょう。翠の君、私は夢を見ていないわよね?」
「夢ではありませんよ。上総の君は物語がお好きなんですね」
上総は不意を突かれたような顔をした。
「好き、というのは違うわね。物語というものを読んでみたいと、田舎にいた頃から一心に願っていたの」
上総は少し遠くを見た。頬が薔薇色に染まっていく。翠玥は息を呑んだ。ハッとするほど艶やかだった。
「私はこの世にある物語というものを隅々まで味わい尽くしたいの」
翠玥は『物語』を語る上総に強く惹きつけられた。味わい尽くしたいと言えるほど途方もない情熱を翠玥はまだ知らなかった。それは好きという気持ちよりももっと大きく激しいものなのだと翠玥は思った。
「いくつか、ご覧になりますか」
「是非」
翠玥は上総の瞳の先にあった巻物を手袋をつけた手で引き出した。応接スペースの長卓にそっと載せて、巻き紐を解く。上総は息を詰めてそれを見守っていた。
端書きに『若紫』とあった。
上総は我が目を疑うように瞬き、袂で擦り、そして目玉が溢れてしまうのではないかと翠玥が危ぶむほど目を見開いて驚愕を示した。
「これは、これは……!源氏の物語ではないの。宋の方もこのようなものを読まれるの?」
「いいえ、私は読んだことがありません。老師ならあると思います」
「先ほど入り口のそばにいた殿方のことね。翠の君のお兄様?」
「いいえ、老師は私の育て親です」
事情があるのだろうと上総は理解した。なさぬ仲の親子は世間ではそう珍しいことではない。
「そう……彼ともお話ししたいけど、もうそろそろ家人が私を探す頃だわ。せめてこの帖を読みたいわね」
上総は長卓に広げられた『若紫』に視線を落として、必死に文字を追った。
わずか数行に目を通したところで、応接スペースに迪遼が顔を出した。
「上総の君、あなたを呼ぶ声がそこかしこで聞こえます。そろそろお戻りになる時間ですよ」
上総は視線を上げずに答えた。
「待って、この話を読まないではいられないの」
「それがあなたのお望みですか?」
「そうよ、せめて一帖私に読ませて、他には何も望まないわ」
上総の鬼気迫る様子に、迪遼は根負けしたように溜息をついた。
「いいでしょう。もし、読み終わるまでに彼らが諦めてしまったら、私があなたを邸まで送って差し上げます」
上総は手を合わせ、深い礼をした。
迪遼は壁に凭れて柔和な笑みを浮かべた。
「小玥、お支払いはあなたが決めなさい。彼女はあなたが招いた最初のお客様ですからね」
翠玥は思わず迪遼を振り返った。微かな戸惑いと任された喜びがあった。
「はい、老師」
上総は真剣な表情で物語を読み進めていたが、やがて耐えられぬようにくすりと笑い、切なげに眉を下げ、ハラハラと拳を握った。
翠玥には巻物に書かれた細く流れるような文字が読めなかったが、上総の豊かな感情の変化を眺めているだけで楽しかった。上総をもっと知りたかった。
翠玥は考えた。店のきまりはお客様に与えた分、貰うこと。店は上総に一編の物語を見せた。釣り合うだけの品物はなんだろう。
今は目元に涙を浮かべている上総の横顔を眺めて翠玥は考えた。
「あぁ……ここからどうなるの!?なんて気になるところで終わってしまうのでしょう」
上総は悶えた。
翠玥は何となく水を差し出した。読書に挑む上総は戦士のようだった。
上総は杯を受け取り雅だと一言感想を述べて水を飲み干した。
「ふぅ、ありがとう」
上総はふと翠玥と迪遼を見比べた。
「あなたたちって、源氏と若紫みたいね」
迪遼は肩をすくめた。
「滅相もない。私はむしろ、明石の宮をお育てする紫の上の気持ちでいます」
「おかしなこと。あなたは男の方なのに」
「立派にお育てしたいと思う気持ちに男も女もないのですよ」
「そういうものなのかしら」
上総は素直に受け取った。
「実は、源氏の物語は歯抜けでしか読んでいないの。私はいつか、どんな手を使ってでも全て読むつもりでいるわ。とても名残惜しいけど……私が戻らないと家人が酷く嘆くでしょうから」
上総の君は翠玥に視線を向けた。
「お礼をさせて、私が持っているものなら何でも差し出すわ」
翠玥は頷いた。
「私はあなたにお約束を頂きたいです」
「約束?」
翠玥は少し緊張しながらも言葉を続けた。
「いつか、あなたの物語を書いてください。どんな話でも私はきっと読みます」
翠玥はそっと上総の手を取った。
上総は僅かに沈黙した。
「読むことばかりで、書くことは考えたことがなかったわ」
上総は翠玥の手をしっかりと握り返した。
「えぇ、きっと書くわ。きっとよ。翠の君」
迪遼は微笑ましい二人をまだ見ていたかったが、上総の家の事情もある。迪遼は仕方がなく切り出した。
「そろそろお帰りになる時間です」
上総は涙を飲んで巻物を閉じ、翠玥は丁寧に巻き紐を結んで元の棚へと戻した。
三人は応接スペースを後にした。
店内をゆっくり歩く間、少女たちは手を繋いで、『若紫』の話をしていた。
迪遼が店の扉を開くと、廃寺の苔むした石や生い茂る草はどこにも見当たらず、代わりに洛中の騒々しい雰囲気があった。人の行き交う中、上総の君の侍女の一人が遠くの方で上総の君の姿を捉え、駆け寄ってくるのが見えた。
「上総の君、こちらへ」
迪遼は上総を扉へと促した。
「上総の君、」
「翠の君、お元気で」
二人の手がそっと離れ、上総は店を出て行った。
たった半刻ばかりの出会いは翠玥の心には深く刻まれた。
※※※
日が傾いてから新しい来客があった。
「よお、来たぜ」
大きな風呂敷包みを持った20代くらいの男が現れた。その男のいでたちは派手の一言に尽きた。万華鏡のような極彩色のシャツを着て、細身のデニムを履き、耳にも指にも銀色に輝く輪をいくつもつけていた。彼が歩くたび、何本も首にかかった鎖が音を立てた。彼を見るなり迪遼は渋面を作った。
「静雨、もっとまともな服を持っていないんですか?」
「え?かっこいいだろ」
静雨は真顔で言った。
「お前の今日の服もいいと思うぜ」
迪遼は光沢のある薄紫色の生地で作った胡服を着ていた。襟元には精緻な刺繍が施されている。
「あなた、光ってるものが好きなだけでしょう。烏なんだから黒を着ればいいのに」
「この大荷物に黒い服なんて泥棒に見えるぜ。それに、阿刀羅と被るだろ。あいつ黒ばかり着るから」
「別に被っても気にしませんよ」
「いたのか阿刀羅」
黒いお仕着せを着た阿刀羅がカウンターの陰から生えるように現れた。傍に置かれている文具の入った買い物袋を見るに、店の備品を補充していたらしい。
阿刀羅はすっと静雨に手を伸ばした。
「お土産」
「ハイハイ。ほら、阿刀羅の」
「ありがとうございます」
「こっちは俺のお姫様の。そういえば小玥は?」
「今はお庭です」
「そうか、あとで顔を出すよ。おっと、こっちは天玄堂に。ご所望の品だよ」
静雨は長卓に風呂敷を広げた。現れたのは、迪遼が買い付けを頼んだ古今東西の書物類だった。
この中に、もしくは天玄堂の本棚に既に上総の君の書いた物語もあるのだろうか。迪遼はふと思った。




