閑話 金の鳥籠
「小姐、私はお買い物に行ってくるので。ご主人様のいらっしゃるお部屋に行きましょう」
「ううん、阿刀羅。今日はひとりでお絵描きしたいです」
6歳の翠玥は少し胸を張って言った。おしゃまな様子だった。
「おひとりで?」
「そうです、ひとりで。私はもうお姉さんなのよ」
そういう年頃なのだろうと阿刀羅は思った。この屋敷にいる限り危険はない。
事前に伝えておけば、万が一の時にも迪遼が駆けつけるだろう。
これも、経験だろうか。阿刀羅は思った。
式神は色鉛筆を握る翠玥に寄り添って、優しく問いかけた。
「お姉さんだから、ひとりでお留守番できますか?」
「できるわ!」
阿刀羅は何度も振り返り、寂しくなったら迪遼の執務室に行くように言い含めて、主人の許可を得て外出した。
翠玥はしばらく一人で絵を描いていたが、やがてほかのことがしたくなり、迪遼の執務室に向かおうと思った。
歌いながら廊下を歩いていると、いつもは鍵がかかっている扉が少し開いていることに気がついた。
「老師?」
迪遼がいるのだと思って翠玥は小走りになった。向かった先は屋敷の奥、迪遼が昼間を過ごす「店」と呼ばれる区画だった。迪遼は今は執務室にいるはずだが、用事ができたのだろうか。
翠玥は扉に手をかけた。
「老師、いますか?扉が開いてました」
返事はなかった。翠玥はそっと扉を開いた。
中から流れる空気はひんやりとしていて、お香の香りがした。翠玥はわずかに逡巡したが、一歩踏み入れた。
そこには、翠玥がみたこともない品々が所狭しと並んでいた。色とりどりの宝石がついた冠、鮮やかな南国の花々、無造作に立てかけられたタペストリー、名前もわからない道具類たち…
綺麗なものがたくさんある。ここは老師の宝箱なのかしら。翠玥は瞳を輝かせて室内を見渡した。
中でも金色の細工の施された鳥籠が目を引いた。近寄って、艶々光る金具にそうっと手を伸ばす。手を触れる前に金具が一人でに開いた。不思議に思ったその時、迪遼の声が強く耳を打った。
「ここへ入ってはいけないといったでしょう!」
翠玥は雷に撃たれたように固まった。
迪遼が大きな声を出すのはほとんど初めてのことだった。
迪遼は目を見張り、ハッとしたように口元を押さえた。だが次の瞬間、見咎められて固まる翠玥の体をヒョイと抱き上げると、すごい速さで廊下を歩き去った。翠玥は涙目になりながら、小さくなっていく店の扉を見ていた。
迪遼の腕の力は強くて、翠玥を抱えたままぐんぐん進んでしまう。言いつけを破って怒られたことよりも迪遼の張り詰めた様子が怖くて、翠玥の目から涙が溢れてきた。
顔いっぱいを熱くして、迪遼にしがみつきながら泣いている翠玥に、迪遼は気づいていたが何も言えないままだった。
迪遼が立ち止まったのは庭に出てからだった。
迪遼は風に乗せて阿刀羅宛の伝言を飛ばした。
二人の心とは裏腹にうららかな初夏の日差しが眩しかった。
「小玥」
迪遼は静かに泣いてる翠玥の頬を拭って、名前を呼んだ。翠玥は真っ赤になった瞳で迪遼を見上げた。
「老師、ごめんなさい」
迪遼は翠玥を抱き直してあやすように背を叩いた。しゃくりあげる翠玥の声が響いた。翠玥は迪遼に頭を預けた。
「私こそ、大きな声を出してごめんなさい。びっくりしたでしょう」
翠玥は首の動きだけで頷いた。迪遼は彼女の頭を撫でた。
「少しお散歩しましょうか」
翠玥が頷くのを待って、迪遼は今度は緩やかな歩調で歩き出した。
庭の植物は手入れもせずに生やしっぱなしだが、散歩に使う小道だけは歩きやすく、草の背が低くなっていた。
翠玥は迪遼に凭れて、景色が移り変わっていくのを眺めていた。陰から日向へ、日向から影へ、空を舞う綿毛が陽をうけて白く光っている。
「どうして、お店に入っちゃダメなの?」
翠玥は顔を上げて尋ねた。
「あのお店はね、綺麗で、便利だけど危ないものがたくさん置いてあるんです」
「鋏みたいに?」
「そうですね、鋏よりずっと危ないかも」
「……あの鳥籠も?」
「そう、あれはすごく危ない鳥籠でした」
「だから老師は怒ったの?」
「怒ったというより、怖かったんです。小玥、あなたが危ない目に遭うのが、私はとっても怖い。だから……」
迪遼の言葉は途切れたが、翠玥を反省させるには充分だった。
「老師、ごめんなさい。老師に怖い思いをさせて」
翠玥は再び瞳を潤ませ、しょんぼりと俯いた。迪遼は腕の中の翠玥を優しく揺らした。
「だから、約束。今度お店に入る時は絶対に私と一緒です。一人で入っちゃダメですよ」
翠玥がゆっくりと顔を上げた。
頬は薔薇色で、瞳は生き生きとしていた。
「お約束、守れますか?」
「はい!老師」
翠玥は真剣に答えた。迪遼は愛し気に翠玥を見つめた。池に鴨の親子が泳いでいた。翠玥は顔を綻ばせた。
「私たちみたいですね」
迪遼はそうですね、と笑い返した。
迪遼は池に近寄って、しばらく二人で鴨の親子を眺めていた。子鴨があとをついて行くように、翠玥が自分で歩きたがったので、手を繋いで東屋まで歩いた。
東屋には阿刀羅がいて、お茶を用意していた。
二人に気がつくと阿刀羅が駆け寄ってきて、翠玥の前にしゃがんだ。
「小姐、私がいない間にいい子にしていましたか?」
「そうでもなかったです。私はまだ、お姉さんではなかったみたい」
阿刀羅は翠玥をぎゅっと抱きしめた。
迪遼が飛ばした伝言を聞いて、買い物帰りに阿刀羅は心臓が縮み上がるような思いをした。
翠玥の姿を見るまで気が気じゃなかったのだ。
翠玥の健やかな様子に阿刀羅はようやく胸を撫で下ろした。
「それがわかっただけで、お姉さんへの道は開けていますよ」
阿刀羅の言葉に、翠玥は眉を下げて微笑んだ。
「二人とも、そろそろお茶にしましょう」
東屋で優雅に腰掛けて迪遼が言った。
三人でお茶を楽しんでいる時に迪遼が尋ねた。
「そう言えば、小玥、どうやってあの部屋に入ったんですか?鍵がかかっていたでしょう?」
「いいえ、鍵は開いてました」
「そんなはずは……自動施錠です」
翠玥はきょとんとした。
「でも、扉が開いてたんです。そう言えばあの鳥籠、出たい、と言ってました」
迪遼と阿刀羅は頭を抱えて、しばらく屋敷中を駆け回っていた。
翌日、店の扉には新しい鍵が付いていた。




