第二十四話 空への憧憬
蒸気機関が帝国全土に広がってから三年。
大陸はすでに、かつて誰も想像しなかった姿へと変貌していた。
鉄道は網のように国土を覆い、工場の煙突は空を黒く染め、夜になれば街は昼のように輝く。
「進歩」という言葉では足りない速度で、文明は加速していた。
そしてその中心には、変わらずハルトがいた。
帝都ザルツ。
皇宮の一室ではなく、今日は珍しく屋外の広場。
そこに巨大な木製の骨組みが組まれている。
翼。
帆布。
歯車。
滑車。
ロープ。
そして異様なほど精密な設計図。
ルカはその全体を見上げて、乾いた声を漏らした。
「……陛下、これは一体なんですか」
ハルトは即答する。
「飛行機だ」
「ひこう……?」
「空を飛ぶ機械だ」
ルカは数秒間、完全に停止した。
周囲の技師たちも同様だった。
蒸気機関車はまだ理解できた。
工場の巨大化もまだ納得できた。
だが「空を飛ぶ」は別次元だった。
一人の技師が恐る恐る尋ねる。
「鳥の真似ですか?」
「違う」
「風の魔法ですか?」
「違う」
「ではどうやって浮くのですか?」
ハルトは地面に棒で線を引いた。
「空気を切る」
「……はい?」
「揚力だ」
誰も理解できない。
いつものことだった。
設計図には、滑らかな翼の曲線が描かれている。
それは戦争のための兵器ではない。
破壊のためでもない。
ただ一つ。
「空へ行く」という目的のためだけに存在していた。
「本当に飛ぶんですか……?」
ルカがもう一度聞く。
ハルトは迷いなく答えた。
「飛ぶ」
「落ちませんか?」
「落ちる可能性はある」
「あるんですか!?」
「だから試験する」
冷静すぎる返答だった。
数週間後。
帝都郊外の平原。
蒸気機関の補助装置が唸りを上げる。
巨大な翼を持つ機体が滑走路に置かれている。
風が吹く。
空は青い。
誰もが息を止めている。
「離陸準備」
ハルトの声が響く。
操縦席に座るのは、訓練された技師。
顔は青白い。
「本当に……飛ぶんですよね?」
「飛ぶ」
「落ちたら?」
「次を作る」
慰めになっていない。
蒸気が噴き出す。
歯車が回る。
ロープが張る。
そして――。
「行け」
機体が動き出した。
ガタガタと震えながら滑走する。
速度が上がる。
風を切る音が強くなる。
そして。
ふわり。
一瞬だった。
だが確かに。
それは地面から離れた。
「……浮いた」
誰かが呟く。
次の瞬間。
「浮いたぁぁぁぁ!!」
観客が爆発するように叫んだ。
技師が泣き崩れる。
兵士が剣を投げる。
農民が膝をつく。
ルカはただ口を開けていた。
機体は空を進む。
ゆっくりと。
だが確実に。
鳥でもない。
魔法でもない。
人の作った「機械」が空を飛んでいた。
ハルトは空を見上げていた。
静かだった。
誰よりも冷静だった。
そして小さく言う。
「まだ不安定だな」
ルカが叫ぶ。
「不安定どころじゃありません!!」
その通りだった。
機体は揺れている。
風に煽られている。
制御は完璧ではない。
だが――飛んでいる。
それが全てだった。
やがて機体はゆっくりと降下し、草原に着陸した。
大きな衝撃。
破損。
だが致命的ではない。
成功だった。
操縦士が転がるように降りてくる。
「と、飛びました!!」
その声で全てが決まった。
帝国は歓声に包まれた。
蒸気機関の次は空。
人類史の次の段階。
誰もが理解した。
世界がまた変わる、と。
夜。
皇宮の屋上。
ハルトとルカは並んで空を見上げていた。
星が瞬いている。
その向こうに、まだ誰も知らない世界がある。
ルカがぽつりと呟く。
「空まで行けるんですね」
ハルトは少し間を置いて答える。
「ああ」
「どこまでですか?」
ハルトは星を見つめたまま言った。
「そのうち、星にも行く」
ルカは笑うしかなかった。
「またそれですか……」
だがもう疑わない。
この男の言葉は、いつも少しだけ未来を先に言っている。
風が吹く。
帝都の街では、工場がまだ動いている。
鉄道が走り続けている。
そして今。
空へ向かう技術が生まれた。
ハルトは静かに言う。
「地上はもう十分だ」
「次は空だ」
その言葉とともに。
人類は初めて、地面の外側へ手を伸ばし始めた。




