第二十話 嘆きの壁
神聖ザルツ帝国。
千年の歴史を誇る大帝国。
その首都を守るのが、大陸最強にして最大の防壁――**「嘆きの壁」**だった。
高さ三十メートル。
厚さ十メートル。
全長は数十キロにも及ぶ。
過去数百年、いかなる軍勢も突破できなかった絶対防衛線。
無数の矢倉。
重弩砲。
投石機。
そして十万を超える守備兵。
その姿は、まるで山脈そのものだった。
壁の上に立つ皇帝ヴァルドリックは眼下を見下ろしていた。
地平線の彼方。
そこにはハルト率いるガルバディス新帝国軍が広がっている。
だが、皇帝は笑った。
「来たか」
余裕の笑みだった。
「なるほど、確かに大軍だ」
「だが所詮は人間」
皇帝は壁を叩く。
ゴン、と重い音が響く。
「この壁は違う」
「人の力では壊せぬ」
側近たちも頷いた。
歴史がそれを証明していた。
この壁は絶対だった。
一方。
壁から数キロ離れた丘の上。
ハルトは望遠鏡を覗いていた。
隣ではルカが緊張した表情を浮かべている。
「大きいですね……」
「そうだな」
「どうします?」
「壊す」
即答だった。
ルカは思わず頭を抱えた。
もはや驚く気力もない。
ハルトの背後には巨大な布がかけられていた。
長い時間をかけて作られた新兵器。
ついにその姿を現す時が来た。
「布を外せ」
命令が飛ぶ。
兵士たちが一斉に布を引いた。
現れたのは巨大な鉄の筒。
長さ四メートル。
車輪付きの木製架台。
そして鈍く輝く黒鉄。
ルカは息を呑む。
「これが……」
「大砲だ」
ハルトが答える。
五十門。
量産された新帝国砲兵隊。
それは中世世界には存在してはならない兵器だった。
砲兵たちは手際よく準備を進める。
火薬。
砲弾。
導火線。
全てが規格化されている。
ハルトが作り上げた生産体制の成果だった。
職人の勘ではない。
工程管理による大量生産。
それが近代の力だった。
「照準合わせ」
砲兵隊長が叫ぶ。
「完了!」
「装填!」
「完了!」
「全砲門準備完了!」
ハルトは静かに壁を見つめた。
千年。
誰も破れなかった壁。
だが――。
技術に永遠はない。
壁の上。
ザルツ帝国軍も異変に気づいていた。
「何だあれは?」
「投石機ではないぞ」
「鉄の筒……?」
兵士たちがざわつく。
しかし誰も警戒していなかった。
距離が遠すぎた。
矢も石も届かない。
何もできるはずがない。
そう思っていた。
ハルトが右手を上げる。
全軍が静まり返った。
風だけが吹いている。
そして。
ゆっくりと手を振り下ろした。
「全砲門――」
誰も息をしない。
「撃て」
轟音。
世界が震えた。
ドォォォォォォォン!!
五十門の大砲が同時に火を噴く。
巨大な炎。
黒煙。
衝撃波。
地面が揺れた。
ルカは思わず耳を塞ぐ。
「なっ……!?」
砲弾は空を裂いた。
凄まじい速度で。
一直線に。
嘆きの壁へ向かって。
壁の上の兵士たちは呆然と見上げていた。
何かが飛んでくる。
黒い点。
次の瞬間。
着弾。
ズガァァァァァン!!
壁の中央で巨大な爆発が発生した。
石が吹き飛ぶ。
人が吹き飛ぶ。
煙が空を覆う。
誰も理解できない。
何が起きたのか。
「報告!」
皇帝が叫ぶ。
「損害は!?」
兵士が震えながら答えた。
「へ、壁の表面が削られました!」
皇帝は笑った。
「その程度か!」
そう。
壁はまだ立っていた。
厚さ十メートル。
一撃では足りない。
皇帝は勝利を確信した。
「見ろ!」
「やはり壁は破れぬ!」
歓声が上がる。
だが。
その時だった。
ハルトが言う。
「続けろ」
砲兵隊が再装填を開始する。
規格化された作業。
訓練された手順。
数分後。
再び。
「撃て」
ドォォォォォォォン!!
第二斉射。
さらに第三斉射。
第四斉射。
第五斉射。
轟音が連続する。
煙が晴れる暇もない。
石壁に次々と砲弾が叩き込まれていく。
そして。
六度目の斉射が放たれた時だった。
ミシッ。
誰かが聞いた。
壁が鳴いた。
千年間、沈黙していた巨大な防壁が。
悲鳴を上げた。
「まさか……」
皇帝の顔から血の気が引く。
巨大な亀裂が走る。
一本。
二本。
三本。
蜘蛛の巣のように広がっていく。
そして。
世界が止まった。
次の瞬間。
轟音と共に。
嘆きの壁の中央部が崩壊した。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!
巨大な石塊が崩れ落ちる。
何万トンもの岩石が大地へ落下する。
土煙が天を覆う。
兵士たちは呆然と立ち尽くした。
信じられない。
絶対だったものが壊れた。
千年の常識が崩れ去った。
皇帝は膝をついた。
「あり得ぬ……」
誰も返事をしない。
できない。
目の前で歴史が終わったのだから。
土煙の向こう。
巨大な穴が開いた壁の彼方から。
ゆっくりと軍旗が現れる。
黒地に雷の紋章。
ガルバディス新帝国軍。
その先頭に立つのはハルトだった。
彼は崩れた壁を見上げる。
そして静かに言った。
「壁は越えるためにある」
兵士たちが歓声を上げる。
大砲。
それは単なる新兵器ではなかった。
城壁の時代を終わらせる兵器だった。
中世そのものの終焉。
その瞬間だった。
ハルトは軍刀を抜く。
そして前方を指した。
「全軍前進」
崩壊した嘆きの壁の向こう。
神聖ザルツ帝国の首都が見える。
最後の戦場。
最後の敵。
世界統一まで、あと一歩だった。




