第十八話 降伏か、死か
蛇の顎の戦いは終わった。
いや、正確には終わっていなかった。
谷の中では、数万の兵士たちが武器を捨てて座り込んでいる。
崖の上から見下ろす擲弾兵たち。
そして、その中央に立つハルト。
勝敗は決していた。
だが戦争そのものは、まだ続いていた。
なぜなら――。
谷の外には、なお二十数万の連合軍が残っていたからだ。
谷の入口から数キロ離れた連合軍本陣。
将軍たちは顔を青ざめさせていた。
「先遣隊との連絡は!?」
「ありません!」
「伝令は!?」
「誰も戻りません!」
怒号が飛び交う。
だが返ってくる報告は最悪なものばかりだった。
その時。
一人の騎兵が全速力で駆け込んできた。
鎧は砕け。
顔は血に塗れている。
「報告します!」
誰もが息を呑んだ。
騎兵は震えながら叫ぶ。
「先遣隊……壊滅!」
沈黙。
誰も言葉を発せなかった。
「総大将グラディウス閣下も戦死!」
空気が凍り付く。
三十万の軍勢を率いていた最高指揮官。
その死は軍そのものの死を意味していた。
「ば、馬鹿な……」
「数万だぞ……」
「たった一日で……?」
誰も信じられなかった。
だが事実だった。
蛇の顎は巨大な墓場となったのである。
その日の夕刻。
異変が起きた。
谷の方向から、一人の騎手がゆっくりと現れた。
白旗を掲げている。
攻撃する者はいなかった。
騎手は連合軍本陣の前まで来ると、一通の羊皮紙を差し出した。
送り主の名前を見た瞬間。
全員の顔色が変わる。
ハルト。
その名が記されていた。
震える手で封を開く。
中には短い文章しかなかった。
>
> 連合軍へ。
>
> 蛇の顎は閉じた。
>
> 貴軍の先遣隊は降伏した。
>
> これ以上進軍するなら、
> 次は諸君ら全員を埋める。
>
> 降伏か、死か。
>
> 選べ。
>
> ――ハルト
静寂。
長い静寂だった。
誰も口を開かない。
たった数行。
それだけだった。
しかし。
その文面には揺るぎない確信があった。
脅しではない。
宣言だった。
夜。
連合軍の会議は紛糾した。
「まだ兵力はこちらが上だ!」
「二十万以上残っている!」
「押し切れば勝てる!」
若い将軍が叫ぶ。
しかし老将軍は首を振った。
「どうやってだ?」
「……」
「敵の姿を見たか?」
誰も答えられない。
彼らは未だにハルト軍とまともに戦っていない。
それなのに。
十万騎兵は崩壊した。
数万の先遣隊は消えた。
そして今もなお、敵の本当の力が見えない。
恐怖だけが膨らんでいく。
その頃。
崖の上では、ルカがハルトの隣に立っていた。
「本当に攻撃しないのですか?」
ハルトは谷の向こうを見つめている。
「しない」
「ですが今なら……」
「必要ない」
即答だった。
ルカは首を傾げる。
ハルトは続けた。
「人は希望がある間は戦う」
「はい」
「だが絶望すると、自分で武器を捨てる」
風が吹く。
遠くに連合軍の野営地が見えた。
無数の篝火。
だが活気はない。
恐怖と疲労が軍全体を蝕んでいる。
「戦う前に勝つ」
ハルトは静かに言った。
「それが一番安い」
翌朝。
ついに決断の時が来た。
連合軍本陣。
各国の王。
諸侯。
将軍。
全員が集められていた。
誰もが疲れ切った顔をしている。
そして。
レグルス帝国の代表が立ち上がった。
ゆっくりと剣を抜く。
周囲が緊張する。
だが。
彼は剣を地面へ置いた。
カラン。
乾いた音が響く。
「これ以上の犠牲は無意味だ」
誰も反論しなかった。
続いて。
神聖ザルツ帝国の将軍が剣を置く。
北方王国の王が王笏を置く。
西方諸侯が旗を下ろす。
次々と。
まるで連鎖するように。
武器が地面へ置かれていった。
戦意が消えていく。
誰も命令していない。
それでも止まらない。
なぜなら全員が理解してしまったからだ。
勝てない。
その事実を。
昼。
二十数万の兵士たちは整列していた。
だが手には武器がない。
旗も下ろされている。
その前に、一人の男が立っていた。
ハルト。
青いジャージ姿のまま。
王でもない。
将軍でもない。
だが。
誰よりも大きく見えた。
二十万を超える兵士たちが見守る中。
ハルトは静かに言う。
「賢明な判断だ」
誰も声を上げない。
「私は諸君らを殺したいわけじゃない」
静かな声。
だが全員に届いた。
「従うなら生きろ」
風が吹く。
無数の軍旗が揺れる。
そして。
一人の兵士が膝をついた。
続いて十人。
百人。
千人。
やがて二十万を超える兵士たちが一斉に膝をつく。
その光景は、まるで時代そのものが跪いたようだった。
ルカは呆然と呟く。
「終わった……」
ハルトはゆっくりと空を見上げた。
確かに大戦は終わった。
だが。
彼には分かっていた。
本当に難しいのはここからだ。
国を倒すのは簡単。
だが。
世界を治めるのは別の話なのだから。
こうして反ハルト連合は崩壊した。
そして大陸は初めて、一人の男の下に集まり始める。
その名はハルト。
後に「雷帝」と呼ばれる男であった。




