第十六話 蛇の顎
三十万。
それは軍勢というより、一つの国家そのものだった。
反ハルト連合軍は、数百本の軍旗をはためかせながらガルバディス王国領へと進軍していた。
地平線の果てまで続く兵列。
歩兵。
騎兵。
弓兵。
補給部隊。
攻城兵器。
その全てが、ただ一人の男を討つために集められている。
ハルト。
その名はすでに伝説となっていた。
「地面を爆発させる悪魔」
「雷を操る魔法使い」
「十万の騎兵を一日で壊滅させた男」
兵士たちは噂を笑い飛ばそうとした。
だが笑い声は長く続かない。
アルノ平原から帰還した兵士たちの怯えた目を見てしまったからだ。
彼らは口を揃えて言う。
「あれは戦争ではなかった」
と。
―――
一方。
王都フラウ。
作戦会議室では緊張が張り詰めていた。
机の上には巨大な地図が広げられている。
副官ルカは顔を青くしていた。
「敵は三十万です」
「知ってる」
「こちらは一万にも届きません」
「それも知ってる」
「普通なら勝てません」
「普通ならな」
ハルトは平然と答えた。
そして地図の一点を指差す。
そこは王都から半日ほど離れた山岳地帯。
細長い渓谷だった。
「蛇の顎」
ルカが呟く。
古くからそう呼ばれている天然の峡谷である。
左右は切り立った崖。
道幅は狭く、大軍の展開には向かない。
「ここで戦う」
ハルトは断言した。
「ですが敵も馬鹿ではありません。罠を警戒します」
「警戒するだろうな」
「なら……」
「だからこそ、ここなんだ」
ハルトは微笑んだ。
「敵は地雷を恐れている」
「はい」
「手榴弾も恐れている」
「はい」
「だから広がる」
ルカはそこで気付いた。
「……あ」
「そう。広がれない場所へ連れていく」
ハルトの指が渓谷をなぞる。
蛇の顎。
大軍を強制的に一本の列へ変える天然の罠。
そこが決戦の舞台だった。
―――
数日後。
連合軍先鋒が渓谷へ到達した。
総大将グラディウスは馬上から険しい表情で谷を見つめる。
「狭いな」
「ですが最短距離です」
副官が答える。
「迂回すれば三週間以上かかります」
補給も限界だった。
三十万を食わせるための食料消費量は凄まじい。
進まなければ軍そのものが飢える。
グラディウスは決断した。
「先遣隊を進ませろ」
「はっ」
数万の兵士たちが慎重に谷へ入っていく。
彼らは過去の敗戦を研究していた。
密集しない。
地面を突く。
一定間隔を維持する。
徹底された慎重さだった。
だが。
それを遠くの崖から見ていたハルトは小さく頷いた。
「予想通りだ」
「何がです?」
ルカが尋ねる。
「警戒しすぎている」
ハルトは笑う。
「人間は恐怖すると視野が狭くなる」
兵士たちは地面ばかり見ている。
地雷を探している。
手榴弾を探している。
だから。
もっと大きな危険に気付けない。
―――
谷の中央。
先遣隊は順調に進んでいた。
爆発はない。
罠もない。
地雷もない。
兵士たちは少しずつ安心し始めていた。
「噂ほどじゃないな」
「悪魔も大したことない」
「慎重になりすぎたか」
笑い声すら聞こえ始める。
その時だった。
カン。
どこかで金属音が響いた。
誰も気に留めなかった。
だが。
崖の上では。
ハルトが静かに右手を上げていた。
「全員退避」
擲弾兵たちが一斉に身を伏せる。
ルカの背筋が凍った。
「ハルト様……?」
「始まるぞ」
次の瞬間。
世界が揺れた。
――ドゴォォォォォォォン!!!
巨大な爆音。
山そのものが唸り声を上げる。
兵士たちが顔を上げた。
そして絶句する。
崖が崩れていた。
巨大な岩盤が砕け散りながら谷へ降り注ぐ。
出口が塞がれる。
入口も塞がれる。
何百トンもの岩石が落下し、兵士たちを押し潰していく。
「なっ……!?」
「退路が!」
「逃げろ!!」
叫び声が響く。
しかし逃げ場はない。
谷の前後は完全に閉鎖された。
数万の兵士が蛇の顎の内部へ閉じ込められる。
まるで檻だった。
その光景を見下ろしながら、ハルトは静かに言った。
「捕まえた」
谷底では混乱が広がる。
将校たちが必死に指揮を取る。
「落ち着け!」
「隊列を維持しろ!」
「まだ戦える!」
その声に兵士たちは従おうとする。
だが。
彼らはまだ気付いていなかった。
本当の攻撃は。
これから始まることに。
ハルトは崖の向こうへ視線を向けた。
そこには無数の擲弾兵が待機している。
手には黒い球体。
量産された手榴弾。
そして。
崖に築かれた無数の石造陣地。
「第二段階へ移行」
冷たい命令が響く。
「十字砲火を開始しろ」
その瞬間。
蛇の顎は地獄へ変わった。




