第七話 乱入者
黒い機影は裂け目から現れた瞬間に加速した。その動きを人間の目は捉えられなかった。戦術モニターに残るのは断続的な残像だけだ。位置情報は更新されるたびに書き換わり、予測軌道は意味を失う。まるで一機の兵器を追っているのではなく、嵐そのものを観測しているようだった。
「捕捉できません」
イザベラの声に初めて焦りが滲む。
「戦術AIも追従不能です」
黒い機影が戦場を横切る。その軌跡に沿って空気が歪み、紫色の光点が次々と放出された。
「重力反応多数!」
次の瞬間、無数の重力ミサイルが散開した。
「全機回避!」
レオンの号令が飛ぶ。
空が紫色に染まる。重力ミサイルはヴェスターを狙っていない。レオン小隊を狙っているわけでもない。戦場全体へ無差別にばら撒かれていた。崩壊したビル群が圧縮され、道路が抉れ、瓦礫が空中で握り潰される。まるで子供が蟻の巣へ石を投げ込んで遊んでいるようだった。グレイヴァ隊は四散しながら回避を続ける。せっかく掴みかけたヴェスター攻略の糸口も、この攻撃によって強引に断ち切られていた。
「何なんだこいつは」
ヴィクターが吐き捨てる。
誰も答えられない。黒い機影は再び戦場を横断する。その速度はヴォイドⅡとは比較にならない。グレイヴァの性能をもってしても照準が追い付かず、射撃管制システムは警告を繰り返すばかりだった。
「新規個体を識別」
戦術AIが音声を発する。
「候補名抽出開始」
モニターへ無数の文字列が流れる。神話、宗教、古代言語、過去の戦闘記録。膨大な情報が解析され、その中から一つの名前が浮かび上がった。
「識別名――スレイヴァー」
その名が登録された瞬間、スレイヴァーは再び重力ミサイルを放った。今度は第五小隊の頭上だった。
「散開!」
ヴィクター機が急旋回し、ハンナ機が地表すれすれへ降下する。重力ミサイルが空中で作動し、周囲の空間が大きく歪んだ。爆炎はない。ただ重力の奔流だけが広がり、巻き込まれた瓦礫や残骸を容赦なく圧縮していく。その光景を見ながらノアが息を呑む。
「こいつ……ヴェスターを援護してるのか?」
全員の視線が戦場中央へ向かう。だがヴェスターは動いていなかった。黒紫の巨人は山脈を背負ったまま立ち尽くし、スレイヴァーに視線すら向けていない。
「違う」
カイが呟く。
「援護じゃない」
その言葉にレオンも気付く。スレイヴァーはヴェスターのために戦っているのではない。ただ戦場を掻き回しているだけだ。人類を攻撃しているが、それは勝利のためではなく娯楽のために見えた。ヴェスターが終末そのものなら、スレイヴァーは悪意だった。目的も思想も異なる怪物が同じ戦場へ存在している。その事実はヴェスター以上に不気味だった。
そしてスレイヴァーは戦場を大きく旋回すると、まるで獲物を選ぶ猛獣のように速度を落とした。その進路の先にいたのは第二小隊だった。ガレスは戦術モニターへ映る黒い機影を見つめながら口元を歪める。
「面白ぇじゃねぇか」
その言葉とは裏腹に、誰の背筋にも冷たい汗が流れていた。
スレイヴァーは第二小隊の前で速度を落とした。落としたと言ってもグレイヴァを遥かに上回る速度だった。黒い機体は戦場を滑るように移動しながら時折進路を変える。その度にレーダー表示は乱れ、戦術AIは予測軌道を書き換え続けていた。ガレスはその動きを見ながら奥歯を噛み締める。今まで戦ってきたどのヴォイドとも違う。強いというより気味が悪かった。まるでこちらの反応を楽しんでいるように見える。
「第二小隊、警戒しろ。無理に追うな」
ガレスが命じる。
「了解」
エリックが答える。
「了解」
リナも続く。
マーカスだけは返事の代わりに照準を合わせていた。スレイヴァーは一定の軌道を飛ばない。だが全く法則がないわけでもない。ほんの一瞬だけ速度が落ちる瞬間がある。マーカスはそこを狙っていた。射撃管制システムが予測円を描く。呼吸を整える。距離二千三百。二千。千八百。照準が重なる。
「撃ちます」
グラビトンレールガンが発射される。紫色の光弾が一直線に戦場を駆け抜けた。スレイヴァーは僅かに機体を傾けるだけで回避した。あまりにも余裕のある動きだった。まるで飛んできた石ころを避けるような気軽さだった。
「避けただと」
リナが呟く。
マーカスは返事をしない。額に汗が滲んでいる。今の一撃は決して悪くなかった。むしろ理想に近かった。それでも当たらない。
スレイヴァーは旋回しながら第二小隊の周囲を飛び回る。その軌道には意味がなかった。ただ近付いては離れ、離れては近付く。その度に重力ミサイルがばら撒かれる。爆発は起きない。代わりに大地が抉れ、廃墟が握り潰され、巨大なクレーターが次々と生まれていく。ガレスは嫌な予感を覚えていた。こいつは倒すために戦っていない。遊んでいる。
「気を付けろ」
ガレスが低く言う。
「こいつは俺たちを試してる」
誰も反論しなかった。全員同じことを感じていたからだ。
その頃、戦場の反対側ではレオン小隊が再びヴェスターを監視していた。黒紫の巨人は依然として動かない。スレイヴァーが暴れ回っているにもかかわらず興味を示す様子すらない。
「本当に無関係なのか」
ノアが呟く。
「少なくとも仲間には見えない」
レオンが答える。
カイは黙ったままヴェスターを見つめていた。意識か。その言葉が頭の中を離れない。イザベラを押し出した時に感じた違和感も消えていない。答えはもう目の前にある気がする。だが最後の一歩が届かない。靄の向こうに見える輪郭だけを掴もうとしているような感覚だった。
その時、ヴェスターの胸部コアが僅かに脈打った。
「重力反応上昇」
イザベラの声が緊張を帯びる。
全員の視線が巨大な黒紫の機体へ向かう。
スレイヴァーの出現によって中断されていた戦いが、再び動き始めようとしていた。
ヴェスターの胸部コアが脈打った瞬間、戦場の空気が変わった。それは風向きが変わるような穏やかなものではない。巨大な捕食者が目を開いた時に森全体が息を止めるような、本能へ直接突き刺さる圧力だった。レオン小隊の全周囲モニターへ警告表示が走る。高い音が鳴る。サミュエルとオスカーを死へ導いた音色だった。美しい旋律のはずなのに、それを聞くたび胸の奥が凍り付く。まるで死神が口笛を吹いているようだった。
「来るぞ」
レオンが言う。
重力ビームが放たれる。紫色の閃光が夕闇を切り裂き、崩壊した市街地を飲み込みながら一直線に伸びる。その進路上にあった高層ビルが圧縮され、紙細工のように潰れて消えていく。だが今度は誰も驚かなかった。恐怖は残っている。だが恐怖だけでは戦場は生き残れない。全員が散開し、それぞれの回避機動へ移る。音階が上がる。重力ビームが直角に曲がる。その光景を見ながらカイは歯を食いしばった。目の前で起きている現象は理解できない。だが理屈は存在するはずだった。宇宙に魔法はない。あるのは法則だけだ。
その時、遠方で重力ミサイルが炸裂する。スレイヴァーだった。黒い機影が戦場を横断しながら次々と重力ミサイルをばら撒いている。第五小隊が回避し、第七小隊が散開する。まるで戦場そのものをかき混ぜて楽しんでいるようだった。
「ふざけた野郎だな」
ローガンが吐き捨てる。
「ヴェスターだけでも十分だってのによ」
誰も否定しなかった。二体の怪物が同じ戦場へ存在している。その事実だけで胃の奥が重くなる。人類は巨大な歯車の隙間へ挟まれた小石に過ぎない。そんな感覚が全員の胸にあった。
カイはヴェスターを見続けていた。重力ビームが曲がる。再び曲がる。その度に音階が上がる。だが彼の意識はビームではなくパイロットへ向いていた。逃げる。避ける。生き残る。その思考が生まれた瞬間にビームが曲がっているように見える。オスカーの最後の言葉が脳裏を過る。意識か。その一言は今も霧の中にある。だが輪郭だけは見え始めていた。
「少佐」
イザベラが呼ぶ。
「どうした」
「顔色が悪いです」
カイは小さく笑った。
「元からだ」
ノアが吹き出す。
緊張で張り詰めていた空気が少しだけ緩む。ほんの数秒だった。だがその数秒が人間らしさを取り戻させてくれる。死と隣り合わせの戦場では、それだけで救いだった。
遠方でスレイヴァーが急旋回する。その動きを見た瞬間、ガレスの表情が変わった。黒い機影は第二小隊の周囲を旋回している。まるで獲物の品定めをしている猛獣だった。
「大尉」
マーカスが呟く。
「何だ」
「こいつ、俺たちを見てます」
ガレスは答えなかった。マーカスもまた答えを求めていたわけではない。全員が同じことを感じていたからだ。スレイヴァーは攻撃しているのではない。観察している。そして楽しんでいる。
夕陽は完全に沈んでいた。空には夜が広がり始めている。黒紫の巨人ヴェスターは静かに立ち尽くし、その周囲を黒い悪意スレイヴァーが飛び回る。その光景は神話の一場面に見えた。終末を司る神と、人間を嘲笑う悪魔。そんな二体の怪物の前で、人類はなおも武器を握り続けている。
そしてスレイヴァーは突然進路を変えた。
第二小隊へ向かって。
一直線に。




