第六話 違和感
オスカーの死から三分が経過していた。たった三分。それだけの時間しか流れていないにもかかわらず、戦場の空気は別物になっていた。サミュエルが消え、オスカーが消えた。二人とも生還率の高いベテランだった。新兵ならまだ理解できる。運が悪かったとも言える。だが彼らは違う。死を避ける術を知り、幾度も修羅場を潜り抜けてきた人間だった。その二人が揃って消えた事実は、兵士たちの心へ静かに沈む鉛の塊のようだった。
ヴェスターは相変わらず動かない。山脈を背負う黒紫の巨人は夕陽を浴びながら戦場の中央に立ち続けている。その姿は兵器というより自然現象だった。津波や地震と同じだ。人類が勝つ勝たないではなく、ただそこに存在するだけで周囲の法則を書き換えてしまう類の災厄だった。
だがまだ戦いは終わっていない。第二小隊の前には最後のヴォイドⅡが残っていた。
「まだ終わってねぇぞ」
ガレスの声が通信回線へ響く。
第二小隊の三機が散開する。マーカスは右へ、エリックは左へ、リナは後方支援位置へ移動する。長年の実戦で磨かれた連携だった。指示は最低限でいい。誰がどこへ動くか全員が理解している。
ヴォイドⅡが腕を上げる。紫色の重力弾が放たれた。空間が歪む。大気が軋む。だが第二小隊は止まらない。灰色のグレイヴァが夕焼けの空を滑るように飛翔する。その動きは機械というより獣に近かった。狩りを知る肉食獣の群れだった。
マーカスがグラビトンレールガンを放つ。紫色の光弾が敵へ向かう。しかし命中しない。ヴォイドⅡを包む重力バリアが弾道を捻じ曲げ、光弾は虚空へ消えていく。
「相変わらず鬱陶しいな」
エリックが吐き捨てる。
「だったら近付け」
ガレスは短く言った。
それだけだった。
四機が一斉に加速する。ヴォイドⅡが迎撃を開始する。重力弾が連続して放たれ、空間のあちこちが歪む。だが第二小隊は構わず突っ込む。恐怖はある。だが今さら引き返せる距離ではない。サミュエルの死も、オスカーの死も、その背中を押していた。
距離百。
距離五十。
距離三十。
ヴォイドⅡが後退する。
距離二十。
距離十。
そしてゼロ。
「撃て!」
三方向からグラビトンレールガンが放たれる。至近距離。重力バリアが最も対応しにくい距離だった。紫色の光が敵機へ突き刺さる。黒い装甲が歪む。潰れる。圧縮される。巨大な質量が見えない手で握り締められたように収縮し、やがて一点へ押し込まれて消えた。爆発は起きない。ただ存在だけが失われる。
戦術モニターから敵反応が消滅する。
第二小隊は勝った。
だが歓声は上がらない。
誰も喜ばない。
戦場の中央に立つ黒紫の巨人が、その全てを奪っていたからだ。
「第二小隊、敵機撃破」
エリックが報告する。
ガレスは返事をしなかった。視線はヴェスターへ向けられている。夕陽を背負った巨人は依然として動かない。ただ立っているだけだった。だがその沈黙は雄弁だった。人類がどれだけ足掻こうと結末は変わらないと言っているようだった。
「大尉」
マーカスが呼ぶ。
「何だ」
「俺たち勝ちましたよ」
ガレスはしばらく黙っていた。そして鼻で笑う。
「勘違いするな」
その声は低かった。
「本番はこれからだ」
同じ頃、レオン小隊ではイザベラがオスカーの通信ログを再生していた。死の直前に残されたわずかな音声。雑音混じりの波形がモニターへ表示される。誰も口を開かない。戦場の音だけが遠く響く。そしてスピーカーから、最後の言葉が流れた。
「――意識か……」
通信はそこで途切れていた。
残されたのは、その一言だけだった。だがカイは眉をひそめる。胸の奥で何かが引っ掛かる。答えが見えたわけではない。ただ、十五年間繰り返し見続けた悪夢の断片が、その言葉へ反応したような気がした。
オスカーの最後の言葉は、戦場の喧騒の中で何度も再生された。意識か。その短い呟きは、救難信号にも遺言にも聞こえなかった。むしろ、死の直前に何かを見つけた者の声だった。司令部の戦術AIは膨大な解析結果を返している。脳波、神経伝達、意思決定、予測行動、認識座標。どの言葉も正しそうで、どの言葉も答えには届かない。レオン小隊のコクピットには沈黙が落ちていた。誰も無駄なことを言わない。サミュエルとオスカーの死は、まだ戦場の空気に混じっている。吐く息の中に灰が混じっているようだった。
「重力反応上昇」
イザベラの声が通信回線へ流れた。
「全機警戒」
レオンが即座に命じる。
ヴェスターの胸部コアが紫色に脈打つ。夕陽の赤がその光に呑まれていく。山脈を背負う黒紫の巨人は動かない。ただそこに立っているだけで、戦場の全てを支配していた。高い音が鳴る。透き通るほど美しい音色だった。だがその美しさは救いではない。処刑の直前に鳴らされる鐘に近かった。重力ビームが放たれる。紫色の閃光が崩壊した市街地を横断し、圧縮された瓦礫が黒い塵となって舞い上がる。レオン小隊は散開した。レオンは上へ、ノアは右へ、イザベラは左へ、カイはその全てを視界の端で捉えていた。
「標的、こちらです」
イザベラが言った。
音階が上がる。重力ビームが直角に曲がる。イザベラ機の進路を塞ぐように紫色の光が迫った。彼女は左へ逃げようとしていた。いや、逃げようと考えた。その瞬間にビームも左へ折れた。カイは操縦桿を握る手に力を込める。考えるより先に機体が動いていた。Type-Kが横合いから滑り込み、イザベラ機の肩を強く押し出す。鋼鉄同士がぶつかる鈍い衝撃が通信回線越しにも伝わるほどだった。イザベラ機は本来の回避軌道から外れ、重力ビームは空を切る。だが完全には逃れられなかった。紫色の光がType-Kの右腕へ触れる。次の瞬間、右腕は音もなく歪み、装甲もフレームも区別なく内側へ折り畳まれ、肩口から先が一点へ圧縮されて消えた。爆発はない。炎もない。そこにあったはずの腕だけが、世界から削除されたように失われていた。
「少佐!」
イザベラの声が鋭くなる。
「損傷状況」
レオンが言う。
「右腕喪失。機体中枢は無事だ」
カイは短く答えた。
ノアが息を呑む音が聞こえた。だがカイは自分の損傷を見ていなかった。見ていたのは、今起きた数秒間のズレだった。イザベラは左へ逃げようとした。重力ビームは左へ曲がった。だが自分が外から押したことでイザベラ機は別の方向へ動いた。それにもかかわらず、ビームは修正されなかった。機体を追っているのではない。座標を追っているのでもない。ヴェスターはもっと別のものを見ている。オスカーの声が脳裏で蘇る。意識か。カイはヴェスターを見た。黒紫の巨人は沈黙している。だがその沈黙は空白ではなかった。何かがこちらを測っている。人間の動きではなく、動く前に生まれる意思を。
「少佐、何か分かったのですか」
イザベラが問う。
「まだだ」
カイは答える。
「だが、見えたものはある」
遠くでヴェスターの胸部コアが再び淡く脈打った。その光は苛立ちにも驚きにも見えない。ただ観測を続ける機械の冷たさだけがあった。カイは失われた右腕の感覚を追うように、肩口の警告表示へ視線を落とす。右腕はない。グラビトンレールガンも使えない。それでも胸の奥で何かが噛み合い始めていた。十五年間、夢だと思っていたもの。黒い宇宙。赤い警報。歪む重力場。そして、見えない意識を狩る光。ヴェスターはカイを見ていた。カイもまたヴェスターを見ていた。二つの視線の間で、戦場の空気だけが重く沈んでいった。
ヴェスターはそれ以上攻撃しなかった。夕陽は山脈の向こうへ沈み、赤く燃えていた空は群青へ変わり始めている。崩壊した市街地には長い影が落ち、砕けたビル群は墓標のように並んでいた。戦場を満たしていた砲火は消え、聞こえるのは風の音と損傷した機体の警告音だけだった。その静寂は安堵ではない。嵐の目にいる時だけ感じる不自然な静けさだった。
「重力反応に変化なし」
イザベラが報告する。
「ヴェスターは活動を停止しています」
レオンは巨大モニターへ映る黒紫の巨人を見つめた。停止という言葉を信じる者はいない。サミュエルもオスカーも、その沈黙の直後に命を奪われている。
「各小隊の状況を報告しろ」
「第二小隊、戦闘継続可能です」
エリックが答える。
「第五小隊も問題ありません」
ヴィクターが続く。
「第七小隊も同様だ」
ローガンの声が響く。
戦術モニターには青い識別信号と赤い識別信号が並んでいた。青は生存。赤は戦死。サミュエル・ロイド。オスカー・リード。二つの名前が静かに光っている。数時間前まで同じ空を飛んでいた仲間だった。その事実が兵士たちの胸へ重く沈んでいた。
「一度距離を取る」
レオンが言う。
誰も異論を挟まない。敵の正体は分からない。重力ビームの原理も分からない。人類は二人の命と引き換えに僅かな手掛かりを得ただけだった。
グレイヴァ隊は後退を開始する。ヴェスターは追撃しない。ただ立っている。人類の行動を観察している研究者のようだった。カイはその姿から目を離せなかった。胸の奥に残る違和感は消えない。オスカーの最期の言葉。意識か。その一言が頭の中で何度も反響している。イザベラが左へ逃げようと考えた瞬間、重力ビームは左へ曲がった。しかし自分が横から押し出した後も軌道は変わらなかった。機体を追っていたなら説明がつかない。座標を追っていたならなおさらだ。
「少佐」
イザベラが通信を開く。
「どうした」
「先程はありがとうございました」
カイはしばらく答えなかった。遠くで立ち尽くすヴェスターを見ながら、失われた右腕の警告表示を視界の隅で確認する。
「礼を言われるほどじゃない」
「ですが、あのままなら私は――」
「生きている。それで十分だ」
通信回線が静かになる。ノアが小さく笑った。
「相変わらず不器用だな」
その時だった。戦術モニターへ警告表示が走る。イザベラの表情が変わる。
「新たな重力反応を確認」
レオンが顔を上げる。
「ヴェスターか」
「違います」
イザベラの指が高速でコンソールを走る。表示された数値を見た瞬間、彼女の目が見開かれた。
「未確認反応です。パターンが一致しません」
戦場の空気が変わる。遠方の空間が歪む。ヴェスターの転移門とは違う。もっと粗暴で、もっと暴力的だった。空そのものが巨大な爪で引き裂かれたように黒い裂け目が広がっていく。戦術AIが警告を発する。
『未確認個体を検出』
『識別情報なし』
『脅威判定――』
表示が途切れる。
次の瞬間、黒い機影が裂け目から飛び出した。センサーは追従できない。レーダーは位置を見失う。戦術モニターには残像だけが残る。ヴェスターが終末そのものなら、その機影は悪意だった。獲物を見つけた捕食者のような速度で戦場へ躍り出たそれを見て、誰もが本能的に理解する。新たな敵が現れたのだと。




