第五話 巨人の影
巨影は動かなかった。ただそこに立っていた。崩壊した市街地の向こう、山脈を背にした黒紫の巨体は、世界の終焉そのものが人の形を得たようだった。見上げるだけで胸の奥が重くなる。空気が重い。呼吸をするたび肺の中へ鉛を流し込まれているようだった。
「どうしてお前らだけレオン小隊なんだ」
通信回線へガレス・ハワード大尉の声が響く。
第二小隊隊長。三十九歳。防衛軍屈指の撃墜数を誇るベテランだった。豪快で短気。口も悪い。だが部下からの信頼は厚く、副隊長エリック・ウォーカー中尉、射撃の名手マーカス・レイン少尉、最年少のリナ・フォスター少尉は彼の背中を追い続けていた。実力だけならレオンにも引けを取らない。少なくとも本人はそう信じていた。
「今その話ですか」
レオンが呆れる。
「今だからだ。第二小隊、第五小隊、第七小隊。全部普通だ。なのにお前らだけ名前付きだ」
「それはレオン大尉が有名だからでは」
イザベラが答える。
「分かってる。だから悔しいんだ」
ノアが吹き出した。
「まだ言ってたのか」
「俺だって英雄になりたい」
「三十九歳の台詞じゃないですよ」
「だから三十九だ」
小さな笑いが通信回線を流れる。張り詰めていた神経がわずかに緩む。だがその時だった。
「対象解析完了」
イザベラの声が割り込む。
「司令部戦術AIが新規個体を識別しました」
巨大モニターへ紫色の文字列が走る。
人類はヴォイドの本当の名称を知らない。敵は名乗らず、交信にも応じない。そのため戦術AIが観測データを解析し、神話や歴史、宗教文献から候補名を抽出する。最終的な承認を行うのは司令部か現場指揮官だ。恐怖を共有するために。記録するために。そして次に遭遇した時に生き残るために。
「識別名――ヴェスター」
イザベラが告げる。
「登録完了」
その名が戦場へ刻まれた瞬間だった。
ヴェスターの胸部コアが脈打った。
紫色の光が収束する。
夕陽の赤が飲み込まれる。
空そのものへ巨大な穴が開いていくようだった。
「重力反応急上昇」
イザベラの声が変わる。
「収束率七十パーセント。八十五。九十八」
「全機回避準備」
レオンが命じる。
次の瞬間、ヴェスターの胸部から紫色の重力ビームが放たれた。極太だった。高層ビルすら飲み込める太さ。大気が裂け、地面が震え、その進路上にあった廃ビル群が紙細工のように崩れていく。サミュエル・ロイド中尉は即座に機体を傾けた。第七小隊副隊長。二十年以上戦場を生き抜いてきた歴戦のパイロットだった。射線から外れる。完璧な回避。誰が見てもそう思った。
高い音が響く。透き通るような音色だった。美しい。だからこそ不気味だった。直後、重力ビームが曲がる。九十度。あり得ない角度だった。空間そのものが折れ曲がったように紫色の光が軌道を変える。
「なっ……」
ノアの声が止まる。
サミュエルはさらに加速する。上昇。急旋回。再加速。完璧な機動だった。だが再び音が鳴る。先ほどより高い。その瞬間、重力ビームも再び曲がった。
「おい……」
ローガンの声が震える。
「嘘だろ」
三度目の音が響く。さらに高い。死神が鼻歌を歌っているようだった。重力ビームが三度目の屈折を行う。サミュエルはなおも逃げる。機体性能の限界まで加速する。だが逃げ切れない。その事実を最初に理解したのはサミュエル自身だった。全周囲モニターが紫色に染まる。警報が絶叫する。彼は小さく息を吐いた。諦めではない。覚悟だった。そして重力ビームが機体へ触れる。次の瞬間、サミュエル機の識別信号が消えた。
爆発はない。残骸もない。ただそこに存在していたはずの灰色のグレイヴァが戦場から切り取られたように消えていた。通信回線が静まり返る。誰も言葉を発せない。理解が追いつかなかった。ヴェスターはただ一度攻撃しただけだった。それだけでベテランパイロットが消えた。
「……サミュエル?」
ローガンが呼ぶ。
返事はない。
「応答しろ」
沈黙。
「サミュエル」
返事はない。
「サミュエル!!」
怒鳴り声だけが響いた。
「生体反応消失」
イザベラの報告が落ちる。その一言は重力弾より重かった。ローガンは何も言わない。ただ消えた識別信号を見つめていた。長年背中を預けてきた相棒が、たった数秒で奪われた現実を受け入れられなかった。
その時、空間が歪んだ。一つ、二つ、三つ、四つ。紫色の裂け目が空中へ現れる。
「重力転移反応!」
イザベラが叫ぶ。
裂け目の奥から黒い機影が姿を現した。深紅のライン。禍々しいシルエット。ヴォイドⅡ。四機。つい先ほどレオン小隊が死闘の末に撃破した敵だった。それが再び現れた。今度はヴェスターの護衛として。
「冗談だろ……」
ガレスが呟く。
誰も否定できない。
ヴェスターは動かない。玉座に座る王のように戦場を見下ろしながら兵士だけを送り出している。その姿にレオンは奥歯を噛み締めた。自分たちは敵軍と戦っているのではない。圧倒的な上位存在に値踏みされている。そんな感覚があった。
十五機のグレイヴァが散開する。夕焼けの空を裂きながら、それぞれの敵へ向かっていく。サミュエルの死は誰の胸にも残っていた。戦場で仲間が死ぬことなど珍しくない。だがあれは違った。撃墜ではない。戦死でもない。存在そのものを削り取られたような死だった。長年戦場を生き抜いてきた歴戦の兵士が、紙へ描かれた絵を消しゴムで消すように消滅した。その光景は兵士たちの心へ冷たい針となって残っていた。
「各小隊、一機ずつ受け持て」
レオンの命令と同時に第二小隊が中央左のヴォイドⅡへ向かう。先頭を飛ぶガレス機の背中は獰猛な獣のようだった。恐怖を知らないわけではない。恐怖へ噛み付くことでしか前へ進めない男だった。
「行くぞ野郎ども」
ガレスが唸る。
「任せろ」
エリックが短く返した。
ヴォイドⅡが腕を上げる。紫色の重力弾が放たれた。空間そのものが軋みながら迫ってくる。第二小隊は左右へ散開し、それを回避する。灰色の四機が夕焼けの空を滑る姿は獲物へ飛び掛かる狼の群れに似ていた。
「マーカス!」
ガレスの声と同時にグラビトンレールガンが放たれる。紫色の光弾は真っ直ぐ敵へ向かった。だが命中しない。ヴォイドⅡの周囲で軌道が歪む。見えない激流へ飲み込まれた木の葉のように弾道が曲げられ、そのまま空の彼方へ消えていった。
「またそれか!」
マーカスが吐き捨てる。
「重力バリアです!」
イザベラの報告が飛ぶ。
「遠距離攻撃は無効化されています!」
ガレスは笑った。
「だったら近付くだけだ」
第二小隊が加速する。重力弾が空を埋める。空間が歪む。だが四機は止まらない。サミュエルの死が背中を押していた。止まれば次は自分たちだ。だから前へ出るしかない。
距離五十メートル。
三十メートル。
二十メートル。
十メートル。
ゼロ距離。
グラビトンレールガンが火を吹いた。
今度は弾かれない。
紫色の光がヴォイドⅡへ突き刺さる。敵機の装甲が歪む。見えない巨大な手で握り潰されたように内側へ折れ曲がり、さらに圧縮され、さらに潰れ、やがて一点へ収束した。爆発は起きない。ただ存在だけが失われる。
「一機!」
ガレスが叫ぶ。
だが勝利の余韻は一秒も続かなかった。
戦場の中央。
黒紫の巨人。
ヴェスター。
その存在が全てを支配していたからだ。
第五小隊と第七小隊はヴェスターへ攻撃を集中していた。グラビトンレールガン。グラビトンミサイル。人類が積み上げてきた破壊の技術が紫色の光となって降り注ぐ。だが結果は変わらない。
着弾しない。
届かない。
ヴェスターの周囲で空間が歪む。光弾は曲がる。逸れる。ミサイルは起爆することすら許されず、圧縮され、潰され、存在ごと消えていく。
「効けよ……!」
ヴィクターが吐き捨てる。
ローガンも撃ち続ける。
誰も止まらない。
止まればサミュエルの死を認めることになる気がした。
だがヴェスターは動かない。ただそこに立っているだけだった。山脈を背負う黒紫の巨体は王座に座る暴君のように人類の抵抗を見下ろしていた。その圧倒的な余裕が何より恐ろしい。人類が全力で振るう剣を、子供の玩具でも見るように受け流している。
カイは無言でそれを見つめていた。胸の奥がざわつく。嫌な汗が背中を流れる。知っている。あれを知っている。理由は分からない。だが知っている。赤い警報灯。歪む空間。黒い宇宙。そして巨大な影。十五年間繰り返し見続けた悪夢の断片が記憶の底で軋み始める。
その時だった。
ヴェスターの胸部コアが脈打つ。
戦場の空気が変わる。
深海へ沈められたような圧迫感が全員を襲った。
「重力反応上昇!」
イザベラが叫ぶ。
「また来ます!」
誰も返事をしなかった。
返事をする余裕がなかった。
死神が再び指を伸ばそうとしていたからだ。
ヴェスターの胸部コアが脈打った。その瞬間、戦場を満たしていた喧騒が遠のいたように感じられた。誰もが次の攻撃を予感していた。予感というにはあまりにも確信に近い。サミュエルが消えた時と同じだった。夕焼けの空の下で、黒紫の巨人だけが別の法則に従って存在している。重力そのものが意思を持ち、人類へ敵意を向けているかのようだった。
「重力反応上昇」
イザベラの報告が響く。
第五小隊はなおも攻撃を続けていた。グラビトンレールガンが紫色の光を吐き、グラビトンミサイルが空を滑る。だがその全てはヴェスターへ届かない。光弾は目標へ到達する前に軌道を捻じ曲げられ、ミサイルは起爆すら許されず圧縮されて消える。人類が誇る兵器群は、黒紫の巨人の前では波打ち際へ投げ込まれた砂粒に等しかった。
高い音が鳴る。
透き通るほど美しい音だった。戦場には似つかわしくないその音色は、不意に子供の頃に聞いたオルゴールを思い出させる。だからこそ不気味だった。その旋律の先に待っているものが死だと全員が知っているからだ。
重力ビームが放たれる。
紫色の閃光が夕焼けを裂き、空を横断する。
「散開!」
ヴィクターの声と同時に第五小隊が左右へ分かれる。重力ビームはその間を通り抜け、彼方へ飛び去ったように見えた。
避けた。
そう思った瞬間、音階が上がる。
重力ビームが直角に折れ曲がった。
さらに音が上がる。
再び曲がる。
紫色の光は空間を移動しているのではなかった。空間そのものを書き換えているように見えた。
オスカーは全周囲モニターへ映る軌跡を見つめる。サミュエルが消えた瞬間から感じていた違和感が頭の中で形になり始めていた。追尾ではない。誘導でもない。もっと単純で、もっと理不尽な何かだ。重力ビームが曲がるたび音が鳴る。音階が上がるたび軌道が変わる。その順番だけは一度も崩れていない。
「そういうことか……」
思わず言葉が漏れる。
「オスカー」
ヴィクターが呼ぶ。
オスカーは答えない。視線はヴェスターへ向けられていたが、意識は音へ集中していた。戦場の全てが消え、あの旋律だけが残ったような感覚だった。
「追尾じゃない」
誰へ向けた言葉でもなかった。
「音だ」
ヴィクターの呼吸が止まる。
「何だと」
「重力ビームは音階に合わせて――」
そこで言葉が途切れる。
音が上がる。
重力ビームが曲がる。
答えへ辿り着くより先に死が到着した。
紫色の光がオスカー機へ触れる。
グレイヴァが歪む。
装甲が悲鳴を上げる。
腕が内側へ折れ、脚が砕け、コクピットが潰れる。見えない神の手が機体全体を握り締めているようだった。爆発は起きない。炎も上がらない。存在そのものが圧縮されていく。そして灰色のグレイヴァは一点へ収束し、そのまま跡形もなく消えた。
戦術モニターから識別信号が消える。
それだけだった。
だがそれだけで十分だった。
数分前まで隣を飛んでいた仲間がもう存在しない。その事実は砲弾より重く、重力より冷たく兵士たちの胸へ沈んでいく。
「オスカー機、反応消失」
イザベラが告げる。
誰も返事をしない。
サミュエル。
オスカー。
二人の熟練パイロットが失われた。
ヴェスターは二度攻撃しただけだった。
山脈を背負う黒紫の巨人はなおも動かない。ただ人類を見下ろしている。その姿は戦っているようには見えなかった。檻の中で足掻く生物を観察する研究者。あるいは波に呑まれる蟻を眺める子供。そこに悪意すら感じられないことが、かえって恐ろしかった。
カイは無意識に拳を握る。胸の奥で何かが軋んでいた。赤い警報灯。歪む空間。黒い宇宙。そして巨大な影。十五年間夢だと思い込んでいた光景が記憶の底から浮かび上がってくる。忘れたのではない。封じ込められていただけだ。そう理解した瞬間、ヴェスターが初めて動いた。
巨大な右腕がゆっくりと持ち上がる。
山が動いたようだった。
戦場の誰もが息を呑む。
そして黒紫の巨人は真っ直ぐカイのいる方向へ顔を向けた。
十五年ぶりに再会した相手を確かめるように。




