第八話 英雄
スレイヴァーは第二小隊の前で遊んでいた。
ガレスはそう確信していた。
黒い機影は届きそうな距離まで接近したかと思えば瞬時に離脱し、また別の方向から現れる。その動きには戦術的な意味が見えない。敵を倒すための機動ではなく、獲物の反応を観察するための機動だった。猛獣が逃げ惑う小動物を前にした時のような余裕があった。
それが腹立たしかった。
サミュエルが死んだ。
オスカーが死んだ。
戦場では人が死ぬ。
それは軍人なら理解している。
だが目の前の怪物には、その死すら娯楽に見えているような気がした。
「大尉、左へ回ります」
エリックが報告する。
「好きにしろ」
ガレスが答える。
「リナは後方支援」
「了解」
「マーカス」
「撃ちます」
第二小隊が散開する。夕闇の空を三機のグレイヴァが駆け抜ける。その光景はかつて何度も見てきた。訓練でも、実戦でも、死線の中でも。長い時間をかけて積み上げてきた連携だった。言葉より早く動ける。互いの癖も弱点も知っている。だからこそガレスは彼らを信頼していた。
マーカスのグラビトンレールガンが火を噴く。紫色の光が夜空を貫く。しかしスレイヴァーは軽く機体を傾けるだけで回避した。その動きはあまりにも自然だった。人間が飛んできた虫を避ける程度の気軽さしかない。
「また外れたか」
マーカスが苦笑する。
だがガレスは笑えなかった。
おかしい。
近付けば近付くほど違和感が大きくなる。
ヴォイドⅡとも違う。
ヴェスターとも違う。
あれは戦っていない。
戦場へ来ているのに戦っていないのだ。
スレイヴァーは第二小隊の周囲を旋回する。時折放たれる重力ミサイルが地面を抉り、廃墟を圧縮し、巨大なクレーターを作り出す。だが直撃を狙っているようには見えない。避けられる場所ばかりを狙っている。
まるで。
追い詰めるつもりもない。
殺すつもりもない。
ただ反応を見ている。
ガレスの背筋を冷たいものが流れる。
戦場で感じる恐怖には種類がある。死への恐怖。敗北への恐怖。未知への恐怖。そして今感じているのは、そのどれとも違った。
侮辱だった。
自分たちは命を懸けている。
だが相手は違う。
命を懸けていない。
それどころか勝敗にすら興味がない。
その事実が胸の奥で黒い怒りへ変わっていく。
「大尉」
リナの声が届く。
「何だ」
「こいつ、笑っているように見えませんか」
ガレスは返事をしなかった。
同じことを考えていたからだ。
スレイヴァーは再び急旋回する。黒い機体が月明かりの下を滑る。その姿はまるで夜そのものが翼を得て飛んでいるようだった。速度も機動も異常だ。だが本当に恐ろしいのはそこではない。
感情だった。
あの怪物には意思がある。
悪意がある。
そしてその悪意は今、この戦場を楽しんでいる。
ガレスは操縦桿を強く握る。
視線の先ではマーカスが再び照準を合わせていた。若い頃の自分によく似た男だった。腕が良く、度胸があり、少しだけ無鉄砲だ。だからこそ心配になる。
その時、スレイヴァーが初めて完全に静止した。
黒い機体が夜空の中で動きを止める。
全周囲モニターの中で、その視線だけが第二小隊へ向いていた。
獲物を選ぶ捕食者のように。
あるいは。
次に壊す玩具を選ぶ子供のように。
ガレスの胸騒ぎは、警報よりも早く危険を告げていた。
スレイヴァーは静止していた。夜空の中心へ打ち込まれた黒い楔のように、ただそこに存在している。その異様さに第二小隊の誰もが気付いていた。嵐が止んだ海は美しい。だが船乗りは知っている。本当に恐ろしいのは波ではなく、その前触れもなく訪れる静寂なのだと。今の戦場はまさにそれだった。重力ミサイルも飛んでこない。高速機動も行わない。ただ見ている。そう感じた。視線などあるはずがない。それでも黒い機体から向けられる何かが、コクピットの装甲を通り越して胸の奥まで染み込んでくる。
「警戒しろ」
ガレスが言う。
「分かってます」
エリックが答える。
「こんな奴は初めてです」
リナの声にも緊張が混じる。
ガレスは返事をしなかった。視線はスレイヴァーから離れない。サミュエルの死が脳裏を過る。オスカーの死も過る。戦場で仲間を失うことには慣れているつもりだった。だが慣れることと受け入れることは違う。胸の奥にはまだ鉛の塊が沈んでいる。その重みを抱えたまま戦い続けなければならないのが軍人だった。
マーカスは照準器越しにスレイヴァーを見つめていた。汗が頬を伝う。射撃には自信がある。第二小隊でも随一だと自負している。だが目の前の怪物は常識を嘲笑うように飛んでいた。狙えば消える。追えばいなくなる。まるで影を撃とうとしているようだった。それでも視線は逸らさない。若さとは時に才能だ。無謀を恐れない。限界を知らない。そして自分だけは死なないと、心のどこかで信じている。
その瞬間、スレイヴァーが消えた。
「来るぞ!」
ガレスが叫ぶ。
警報が鳴る。モニターが赤く染まる。だがそれより早く重力ミサイルが降り注いだ。紫色の光点が夜空へ咲き乱れる。その光景は流星群にも似ていた。美しいものほど恐ろしい。人類は何度もそう学んできた。核の閃光も、ブラックホールの降着円盤も、そして今空を埋め尽くす重力ミサイルも同じだった。
第二小隊は散開する。地面が抉れる。廃墟が潰れる。巨大なビル群が見えない神の手で握り締められたように圧縮され、鉄骨もコンクリートも区別なく一点へ収束して消えていく。ガレスは回避しながらスレイヴァーを探す。だが見つからない。敵はどこにでもいて、どこにもいなかった。そんな理不尽があるものかと怒鳴りたくなる。
「ふざけやがって」
ガレスは吐き捨てる。
その声には怒りが滲んでいた。自分たちは命を懸けている。今日も仲間が死んだ。明日も誰かが死ぬかもしれない。それなのにスレイヴァーは違う。この戦場を遊び場にしている。命を懸ける者と、暇潰しをする者。その差がどうしようもなく腹立たしかった。
スレイヴァーが再び姿を現す。今度は遠い。だが機体の向きだけは第二小隊へ向いている。獲物を選ぶ猛獣のように。あるいは次に壊す玩具を選ぶ子供のように。
「こいつ……」
リナが呟く。
「遊んでるだけだ」
エリックが低く言う。
誰も否定しない。その一言が真実だった。スレイヴァーは人類を脅威として見ていない。敵ですらない。観察対象。玩具。暇潰し。その認識がガレスの胸の奥へ冷たい刃を突き立てる。怒りは熱くない。本当に深い怒りは氷のように冷たい。燃えるのではなく凍る。血液そのものが刃へ変わるような感覚だった。
その時、マーカスが小さく笑った。
「なるほどな」
ガレスが眉をひそめる。
「何がだ」
マーカスの視線はスレイヴァーから離れない。その瞳は恐怖よりも悔しさで燃えていた。若い兵士特有の眩しさだった。世界は自分の手で変えられると信じている人間の光だった。
「こいつを倒したら」
マーカスは言う。
「本物の英雄ですよね」
ガレスは答えなかった。
胸騒ぎだけが強くなっていた。
マーカスはスレイヴァーを見つめていた。夜空を漂う黒い機影は相変わらず余裕を崩さない。重力ミサイルの軌跡が消えた後も、その姿には焦りも警戒もなかった。まるで戦場ではなく劇場へ座り、人類の抵抗を退屈そうに眺めている観客のようだった。その傲慢さがマーカスには許せなかった。サミュエルが死んだ。オスカーも死んだ。名前を呼べば返事をしていた人間が、今はもういない。軍人になった時から覚悟していた現実だった。それでも納得できるものではない。死はいつだって理不尽だ。そして理不尽に慣れることはできても、受け入れることはできない。胸の奥では怒りが静かに沈殿していた。溶岩のような怒りではない。深海の底へ沈んだ鉛の塊のような怒りだった。冷たく、重く、決して消えない怒りだった。
「大尉」
マーカスが呼んだ。
「何だ」
「こいつを倒したら俺も英雄ですよね」
通信回線が静まり返る。冗談なら誰かが笑っただろう。だが誰も笑わない。マーカス自身が本気だったからだ。ガレスは返事をしなかった。英雄。そんな言葉を今でも信じている人間がいることに驚いたわけではない。むしろ羨ましかった。戦場は人間から色々なものを奪う。夢も、理想も、正義感も。長く生き残るほど人は現実的になる。だがマーカスは違った。まだ空を飛ぶことに意味を求めている。まだ誰かを守ることに価値を見出している。まだ英雄になれると信じている。
「生きて帰れ」
ガレスはそれだけ言った。
「了解」
マーカスは笑った。その笑顔を見た瞬間、ガレスの胸を嫌な予感が掠める。戦場で長く生きていると分かることがある。死神は怒鳴りながらやって来ない。ふとした沈黙の中に紛れ込み、気付いた時には隣へ立っている。今の感覚はまさにそれだった。
マーカス機が加速する。灰色のグレイヴァは夜空を裂く一本の槍になった。恐怖がなかったはずはない。だが恐怖より怒りが勝っていた。悔しさが勝っていた。守れなかった仲間たちへの想いが背中を押していた。人は時に、自分が壊れると分かっていても前へ出なければならない。その一歩を踏み出せるから英雄譚は生まれる。だが現実は英雄譚ほど優しくない。
「マーカス!」
エリックの叫びが響く。
グレイヴァは止まらない。
距離が縮む。
千。
八百。
六百。
四百。
照準が重なる。
あと一撃。
あと一瞬。
あと少しだった。
その瞬間、スレイヴァーが消えた。いや、人間の認識から消えただけだった。あまりにも速すぎた。視線も、センサーも、戦術AIも置き去りにされる。黒い機影は夜そのものになった。誰も追えない。誰も理解できない。そして理解するより先に結果だけが現れる。
スレイヴァーはマーカス機の隣にいた。
あまりにも自然だった。
まるで最初からそこに存在していたかのように。
黒い腕が振られる。
スレイヴァーエッジ。
それは剣技ではなかった。技術でもなかった。人間が紙へ線を引くような、あまりにも当たり前の動作だった。夜空へ一本の黒い線が走る。次の瞬間、マーカス機は右肩から左腰へ切断されていた。美しいほど正確な斬撃だった。だからこそ現実感がなかった。ガレスは理解できない。エリックも理解できない。リナも理解できない。つい数秒前まで生きていた男が、こんなにも簡単に消えるはずがない。そう思う。だが現実は思考より速い。
切断された重力炉が暴走を始める。紫色の光が機体内部を駆け巡り、装甲もフレームも区別なく内側へ潰れていく。その光景は爆発ではなかった。恒星の最期に近かった。巨大な質量が自らの重みに耐え切れず崩壊し、一つの点へ収束していく。機体が軋む。金属が悲鳴を上げる。だがそれも長くは続かない。全ては圧縮され、縮退し、最後には小さな紫色の輝きだけを残して消えた。残骸はない。爆炎もない。戦術モニターからマーカス・グラントの識別信号が消えただけだった。そして、その静かな消失こそが何より残酷だった。
ガレスはモニターを見続けていた。信号が戻るかもしれないと思った。通信が入るかもしれないと思った。誤作動かもしれないと思った。そんなはずはないと分かっている。それでも人は希望を捨て切れない。戦場を生き延びてきた男ですらそうだった。だが何も起きない。空白だけが残る。そこにマーカスがいたはずなのに。さっきまで笑っていたはずなのに。その事実だけが胸の奥をゆっくり削っていく。鋭い痛みではない。鈍い刃で心臓を少しずつ削られているような痛みだった。
スレイヴァーは旋回する。勝利を誇るでもなく、追撃するでもなく、ただ退屈そうに戦場を見渡している。その姿を見た瞬間、ガレスは理解した。ヴェスターが災害なら、スレイヴァーは悪意だった。地震は人を憎まない。津波は人を嘲笑わない。だがあれは違う。人の痛みを理解した上で踏みにじっている。苦しみを知った上で楽しんでいる。だからこそ恐ろしい。そしてだからこそ、いつか必ず撃ち落とさなければならない。たとえそのために何人死のうとも、その黒い悪意だけは空から引きずり落とさなければならないと、ガレスは初めて心の底から思った。




