第十六話 反重力の軌跡
海上には再び静寂が戻っていた。八機はスレイヴァーを中心に大きく距離を取りながら旋回を続けている。誰も不用意に攻撃を仕掛けない。先ほどの戦闘で理解したからだ。闇雲な攻撃では、この死神には届かない。
「アッシュ」
レオンが通信を開く。
「さっき言っていた癖とは何だ」
アッシュは黒い機体から視線を外さない。
「癖というより反重力機動の理屈だ」
ヴィクターが眉をひそめる。
「理屈?」
「反重力で姿勢を制御する以上、一番効率のいい軌道が必ず存在する。急加速も急停止も方向転換も同じだ。どれだけ高性能でも最適解から完全には外れられない」
ガレスが息を呑む。
「だから当てられたのか」
アッシュは静かに頷く。
「動きを読んだんじゃない。反重力機動の行き着く先を読んだ」
レオンはスレイヴァーを見据える。黒い機体は相変わらず静止したままだ。まるでこちらの会話すら観察しているようだった。
「つまり予測できる」
アッシュは首を横へ振る。
「予測じゃない。一瞬だけ先回りできる」
その時だった。スレイヴァーが消えた。
「来る!」
アッシュが叫ぶ。
レイヴンが即座に左へ切り返す。その〇・一秒後、今までレイヴンがいた空間をスレイヴァーが紫色の残光を引きながら通過した。
「今のを読んだのか!」
ローガンが驚く。
「違う」
アッシュは短く答える。
「ここしか選べない」
黒い機体は再び距離を取る。反転。急加速。そして再び消える。
「また来る!」
レイヴンは今度は上昇した。ほぼ同時にスレイヴァーが下方を高速で通過する。完全に軌道が一致していた。
「すげぇ……」
ガレスが思わず漏らす。
「本当に読んでやがる」
アッシュは僅かに笑った。
「違う。反重力機動を使う限り、どんな機体でも最適な軌道は似る」
レオンはその言葉を反芻する。敵を理解するのではない。技術を理解する。それが十五年間、海の底で戦い続けた男の答えだった。
「援護する」
レオンが言う。
アッシュは首を振る。
「まだだ」
「もう少し近付けば確信に変わる」
レイヴンの反重力エンジンが唸りを上げる。ワタリガラスのような黒い機体が海面すれすれまで高度を落とした。水面が一直線に割れ、白い飛沫が後方へ流れていく。スレイヴァーもまた静かに機首を向ける。黒い死神と黒い渡りガラス。二つの反重力機が互いを見据え、ゆっくりと距離を縮めていった。次の一撃で、この戦いは新たな局面へ入ろうとしていた。
二機が同時に加速した。海上へ二本の軌跡が刻まれる。一つは紫。一つは青白い反重力光。両者は一直線に接近していく。誰も援護には入らない。いや、入れなかった。速度が違いすぎた。
「速ぇ……」
ガレスが息を呑む。
レオンは黙って見つめていた。アッシュの言葉を信じるしかない。スレイヴァーが機首を僅かに右へ振る。普通なら見逃すほど小さな姿勢制御だった。
「来る」
アッシュは静かに呟く。
「そこだ」
レイヴンが反重力を瞬間的に切り替える。急停止ではない。機体が水面を滑るように横へ流れる。その〇・一秒後、スレイヴァーが先ほどまでレイヴンのいた空間を高速で通過した。
「外した!」
ヴィクターが叫ぶ。
スレイヴァーは即座に反転する。しかしアッシュはすでにその内側へ入り込んでいた。ワタリガラス形態の両翼から赤いレーザーブレードが展開される。
「そこだ!」
赤い閃光が走る。スレイヴァーも紫色のレーザーブレードを展開した。二つの刃が激突する。眩い火花が散り、衝撃波が海面を大きく波立たせた。互いの推力がぶつかり合い、周囲の空気が悲鳴を上げる。
「鍔迫り合いだ!」
ローガンが思わず声を上げる。
今まで誰一人近付くことすら出来なかった相手と、アッシュは真正面から刃を押し合わせていた。黒いレイヴンと黒い死神。両者は一歩も譲らない。
「やっぱりそうだ」
アッシュが笑う。
「最適解しか選ばない」
スレイヴァーは無言のまま出力を上げる。紫色の光が急激に強まり、レイヴンが少しずつ押し返されていく。
「アッシュ!」
レオンが叫ぶ。
「まだだ」
アッシュはスレイヴァーの機首だけを見つめていた。紫色の発光が一瞬だけ変化する。
「見えた」
その瞬間、アッシュは鍔迫り合いを自ら解き、機体を急降下させた。直後、紫色の重力砲が先ほどまでレイヴンのいた空間を貫く。空気が歪み、海面が大きく抉られた。
「危ねぇ!」
ガレスが息を吐く。
アッシュは海面すれすれを滑空しながら機体を立て直す。
「重力砲を撃つ前、必ず姿勢制御が入る」
レオンの目が鋭くなる。
「予備動作か」
「そうだ」
アッシュは短く答える。
「ほんの一瞬だけ反重力制御が偏る」
レオンはスレイヴァーを見つめた。今まで無敵だと思われていた機体にも、反重力機動を使う以上は物理法則から逃れられない瞬間がある。
「そこが隙になる」
アッシュは頷いた。
「〇・三秒」
全員が沈黙する。〇・三秒。それは一般人には何も出来ない時間だった。しかし、この場にいる八人は人類最高峰のパイロット達である。
レオンは静かに口元を上げた。
「十分だ」
スレイヴァーは再び海上で静止する。紫色のセンサーが八機をゆっくりと見渡していた。一方でレオンの頭の中では新たな戦術が組み上がり始めていた。敵を上回る速度は必要ない。敵が必ず通る軌道と、必ず生まれる隙を利用すればいい。死神を捕らえるための戦いは、ここでようやく次の段階へ進もうとしていた。
スレイヴァーは再び海上へ静止していた。黒い装甲にはほとんど損傷が無い。唯一、右肩へ刻まれた浅い傷だけが先ほどの接触を物語っていた。人類が初めて死神へ届かせた一撃だった。しかし戦況は依然として変わらない。八機が相手でも、圧倒的に不利な状況は続いていた。
「これ以上は押し切れない」
ヴィクターが低く呟く。
「奴は速すぎる」
ローガンも頷いた。
「このままじゃ攻撃が届かない」
海上を風が吹き抜ける。誰も次の一手を見つけられずにいた。
「いや」
アッシュが静かに口を開く。
「速さの問題じゃない」
全員の視線が集まる。
「反重力機動は自由に見える。」
「だが実際は重力場を利用して飛んでいる。」
レオンは黙って聞いていた。
「だから最適な軌道が生まれる。」
「そして最適な軌道には逃げ場が無い。」
ガレスが腕を組む。
「つまり?」
アッシュはスレイヴァーを見据えたまま答えた。
「逃げる場所を無くせばいい」
その一言だった。
レオンの表情が変わる。
「そうか……」
ヴィクターが振り向く。
「隊長?」
レオンはゆっくり口を開く。
「追い掛ける必要はない。」
「奴が通る場所を塞げばいい。」
ローガンが息を呑む。
「どうやって?」
レオンは迷わず答えた。
「重力シールドだ。」
全員が黙る。
レオンは頭の中で戦場を組み立て始めていた。
「グレイヴァの重力シールドは防御だけじゃない。」
「出力を重ねれば局所的な重力場を形成できる。」
ガレスが目を見開く。
「まさか……」
レオンは頷く。
「四機で囲む。」
「同時に重力シールドを展開する。」
「奴の逃げ道を消す。」
アッシュが小さく笑った。
「その発想でいい。」
レオンも笑みを返す。
「お前の話で見えた。」
スレイヴァーは依然として静止したまま八機を観察している。まるで人類が次に何をしてくるのか分析しているようだった。
「各機聞け。」
レオンが全機へ通信を開く。
「次の攻撃で奴を囲む。」
「包囲を維持したまま重力シールドを最大出力で展開する。」
ガレスが頷く。
「了解。」
ヴィクターも続く。
「第五小隊、準備完了。」
ローガンが機体を反転させる。
「第七小隊、いつでもいけます。」
アッシュは最後に静かに答えた。
「レイヴン小隊も合わせる。」
海上へ再び八機が散開する。その動きには先ほどまでの焦りは無かった。狙うのは撃破ではない。死神の自由を奪うことだった。スレイヴァーはゆっくりと機首を持ち上げる。紫色の光が再び全身を包み始める。しかし今度は八機の動きが違う。それぞれが決められた位置へ向かい始めていた。レオンの脳内で組み上がった新たな戦術が、ついに動き出そうとしていた。次の瞬間、人類初の対スレイヴァー戦術――重力の檻作戦が幕を開ける。




