第434話《戦鬼》
王都から遠く離れた山岳地帯。
切り立った岩山に囲まれた谷へ、腹の底まで震わせるような咆哮が轟いた。
「グオオオオオオオッ!!」
巨大な翼が空気を叩き、黒ずんだ鱗が炎の照り返しを受けて鈍く光る。
傷だらけの角を持つ悪竜は、周辺の村々を襲い、これまで何組もの冒険者を退けてきた危険な個体だった。
その巨体を前に、一人の男が静かに立っている。
風に揺れるアッシュブロンドの長髪。
左手には小盾、右手には片手剣。
アズライト・オーヴェル。
世界でただ一人、SSS級へ到達した冒険者。
二つ名――《戦鬼》。
悪竜が大地を蹴り、巨大な前脚を振り下ろした。
岩盤すら容易く砕く一撃に対し、アズライトは逃げるどころか小盾を前へ差し出す。
激突。
だが、真正面から受け止めたわけではない。
盾の角度を僅かに変え、襲いかかる力を横へ流す。
悪竜の爪が岩盤へ突き刺さり、巨体が僅かに傾いた。
「――《ボルケニオン》」
右手の剣が消え、燃え盛る赤い魔剣へと入れ替わる。
赤き焔剣。
アズライトが踏み込み、悪竜の前脚へ炎を纏った一閃を走らせた。
爆ぜた炎が鱗を包むものの、黒い装甲のような外皮は致命傷を拒む。
「……火は通りにくいか」
ただそれだけを確認し、すぐに剣を切り替える。
悪竜が口を開いた。
次の瞬間、谷を焼き払う勢いで灼熱の炎が吐き出される。
「《フェンリア》」
赤い刃が消え、蒼い冷気を纏った魔剣が現れた。
蒼き氷呀。
一振り。
凍てつく冷気と竜炎がぶつかり、猛烈な蒸気が谷を覆う。
白い視界の中から、悪竜の牙が飛び出した。
アズライトは半歩だけ身体をずらす。
続く爪を盾で流し、横薙ぎに迫った尾を姿勢を低くしてかわした。
「《サイファー》」
碧き風刃。
風を纏った刃が下から跳ね上がり、悪竜の顎を強引に逸らす。
体勢が崩れた。
「《エレクトリア》」
猛き雷切へ切り替わる。
刀身を走った雷光と共に、斬撃が悪竜の首元へ叩き込まれた。
一閃。
二閃。
三閃。
黒い鱗が裂け、鮮血が噴き出す。
飛び散った血が、アズライトの頬を赤く染めた。
「…………」
その瞬間。
男を包む空気が変わった。
瞳が鋭く細まり、僅かに口角が上がる。
静かな男の奥底で、戦いを求める何かが目を覚ます。
ユニークスキル《戦鬼》。
敵を屠り、その返り血を浴びるほど戦闘力を高め、普段は自ら押さえ込んでいる枷さえ外していく力。
「グルルルル……」
先ほどまで怒り狂っていた悪竜が、一歩退いた。
獲物として見ていたはずの人間から、本能的な危険を感じ取ったのだ。
アズライトが一歩進む。
悪竜が翼を広げる。
さらに一歩。
巨体が浮き上がろうとした。
「遅い」
踏み込んだ瞬間、姿が消えた。
次に見えた時には、すでに悪竜の頭上。
アズライトの手には、これまでとはまるで異なる澄み切った刃が握られていた。
「《アズライト》」
清き神刀。
炎もない。
氷も、風も、雷もない。
ただ研ぎ澄まされた一振り。
アズライトが両手で柄を握り、悪竜の首へ振り下ろした。
一閃。
音すら遅れてやってくる。
悪竜の首筋に細い線が走り、巨大な身体がそのまま地面へ崩れ落ちた。
轟音と共に岩山が震える。
アズライトは頬についた血を指で拭い、倒れた悪竜を一度だけ見下ろした。
「……終わったか」
それ以上、何も言わなかった。
◆
数日後。
依頼報告のため山岳都市の冒険者ギルドへ戻ったアズライトが扉を開けると、それまで賑やかだった酒場の声が一瞬だけ静かになった。
「……戻ったぞ」
「ア、アズライトさん!」
受付嬢が勢いよく立ち上がる。
「悪竜はどうなりました!?」
「倒した」
「……一人で?」
「一人で受けた依頼だ」
「そういう意味じゃありません!」
受付嬢が思わず頭を抱える。
周囲の冒険者達からも、小さなざわめきが広がった。
「やっぱり《戦鬼》だ……」
「あの悪竜、複数のパーティーが撤退した奴だろ」
「SSS級って本当にどうなってんだよ……」
しかし、当の本人はまるで気にしていなかった。
アズライトの視線は、受付台の横へ置かれた小皿へ向いている。
蜂蜜色の焼き菓子が、いくつか綺麗に並べられていた。
「……それは?」
「え?」
「そこにあるものだ」
「ああ、蜂蜜クリームの焼き菓子ですけど」
「一つ欲しい」
「先に依頼報告をしてください!」
「悪竜を倒した」
「それで終わらせないでください!」
僅かな沈黙。
「……では、一つ」
「そこは譲らないんですね!?」
焼き菓子を受け取ったアズライトは、一口食べる。
戦鬼と呼ばれる男の表情が、ほんの僅かだけ柔らかくなった。
「うまい」
「悪竜を倒した時より嬉しそうなんですけど……」
「甘いものは重要だ」
「何にです?」
「生きるために」
真顔だった。
◆
報告を終えた頃、受付嬢が何かを思い出したように手を叩いた。
「そうでした。アズライトさん宛てに手紙が届いています」
「俺に?」
「王立学園都市からです。差出人は――ガルドナ=ヴァリスさん」
アズライトの手が止まった。
「……先輩か」
封を切る。
相変わらず豪快な筆跡が、紙いっぱいに並んでいた。
王立学園で次の合同授業を予定していること。
現役冒険者を招き、生徒達へ実戦で培った技術を見せたいこと。
時間が合うなら、お前も顔を出せ。
そして最後には、大きな文字で一言だけ書かれていた。
『面白ぇガキがいるぞ!』
「…………」
「どうします?」
「行く」
「早いですね」
「先輩の頼みだ」
アズライトは手紙を畳んだ。
それから、少しだけ考える。
「それに……王立学園へ行くなら、その後に寄ってみたい場所がある」
「どこです?」
「迷宮都市ナユタ」
「ナユタ?」
「あそこは甘味が旨いらしい」
「また甘いものですか!?」
「重要だ」
「はいはい……」
だが、アズライトの言葉はそこで終わらなかった。
「それと――深淵」
声の温度が変わる。
まだ見ぬ最難関迷宮。
その名を口にした時、静かな瞳の奥に少年のような光が宿った。
「……心が躍る」
受付嬢は、その表情を見て小さく息を吐いた。
甘いものと、未知の冒険。
その二つを前にした時だけ、この寡黙な男はほんの少し分かりやすくなる。
世界で唯一のSSS級。
《戦鬼》アズライト・オーヴェル。
彼が王立学園を訪れることになるとは、まだナユ達は知る由もなかった。




