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第424話《鉄拳》

 マリエルが何かを言い返そうとした、その時だった。


「ナユー!」


 廊下の向こうから、赤い髪を揺らして少女が駆けてくる。


「リカちゃん!」


 ナユが嬉しそうに手を振ると、リカリーネはそのまま隣までやってきた。


「やっと見つけた。あんた、授業終わったらすぐいなくなるんだから」


「ごめんごめん!」


「で、何してんの?」


 リカリーネが周囲を見回す。

 マリエル、ティト、メリア。

 そして、見覚えのない三人の少年。


 アルベルトもまた、リカリーネを上から下まで眺めていた。


「リカちゃん、こっちは――」


「待て」


 アルベルトがナユの言葉を遮る。


 彼はリカリーネに姓がないことも、ナユが気安く愛称で呼んだことも、当然のように自分の価値観へ当てはめた。


「お前もこいつと同じ庶民か」


 吐き捨てるような声だった。


 リカリーネの足が止まった。


「……今、何て言った?」


「聞こえなかったのか?お前も、この冒険科の奴と同じ――」


 次の瞬間。


 乾いた音が廊下に響いた。


 アルベルトの顔が真横を向く。

 一歩、二歩とよろめき、そのまま鼻を押さえた。


「……は?」


 指の隙間から、真っ赤な血がぼたぼたと落ちる。


「アルベルト!?」


「鼻血!?」


 カイとリュードが目を見開く。


 殴った本人は、右拳を握ったまま平然としていた。


「庶民で悪かったわね」


 リカリーネがアルベルトを睨む。


「それと、ナユを『こいつ』って呼ぶな」


「リ、リカちゃん!?」


 ナユの声が裏返った。


 何よりアルベルトが愕然としたのは、痛みよりも自分の顔を殴られたことだった。

 恐る恐る鼻へ触れ、赤く染まった指先を見る。


「ぼ、僕の顔を……殴った……?」


「顔だったわね」


「この顔を!?」


「他にどの顔があるのよ」


 リカリーネは心底どうでもよさそうだった。


「貴様ぁ!」


 先に動いたのはカイだった。


「アルベルト様に何しやがる!」


「カイ、待て!」


 リュードの制止より早く、カイがリカリーネの肩へ手を伸ばす。


「触んな!」


 ごっ。


 今度は鈍い音だった。


 リカリーネの左拳が、カイの顔面へ突き刺さる。


「ぶっ!?」


 カイが鼻を押さえて後退した。


「お、お前……!」


「二人目!」


「数えないでよ、リカちゃん!」


 リュードの顔が引きつる。


「暴力を振るった以上、こちらが取り押さえるのは正当な――」


「来るなら来なさいよ」


「話を最後まで聞け!」


 リュードがリカリーネの腕を掴もうと踏み込む。


 直後。


 ごっ。


「ぐっ!?」


 また顔面だった。


 リュードまで鼻を押さえてしゃがみ込む。


 廊下が静まり返った。


 三人。


 全員、顔。


 しかも全員、鼻から血を流している。


「リカちゃん!三人とも顔じゃん!」


「殴るなら顔が一番早いでしょ」


「そういう問題じゃないよ!」


 ティトは壁際まで避難していた。


「こ、怖いよぉ……」


 メリアは眼鏡を押し上げながら、青ざめている。


「これは……完全に事件ね」


 マリエルは額へ手を当てた。


「わたくし、アルベルトには同情いたしませんけれど……さすがに三人は殴りすぎですわ」


「向こうから来たんでしょ」


「最初の一発はあなたからですわよ!?」


「そうだっけ?」


「そうですわ!」


 騒ぎを聞きつけ、廊下の両側ではいつの間にか生徒達が足を止めていた。

 誰も近づこうとはしない。

 王家傍系の公爵家子息を殴った少女が、その取り巻きまで立て続けに沈めたのだ。

 ざわめきだけが、じわじわと広がっていく。


 その時。


「何をしている」


 低い声が廊下を凍らせた。


 全員の動きが止まる。


 振り返れば、オルフェンが立っていた。


 視線がゆっくりと状況を確認する。


 鼻血を流すアルベルト。

 同じく鼻を押さえるカイ。

 しゃがみ込むリュード。

 拳を握ったままのリカリーネ。


「……説明しろ」


「この平民が突然僕を殴ったんです!」


 アルベルトが叫ぶ。


「突然じゃない。ナユを馬鹿にした」


「それで殴ったのか」


「うん」


「即答するな」


 オルフェンが眉間を押さえる。


「侮辱されたからといって、校内で殴っていい理由にはならん」


「分かってる」


「分かっていて殴ったのか」


「うん」


「…………」


 オルフェンが一度だけ天井を見た。


 マリエルが小さく咳払いする。


「先生。アルベルトが冒険科を見下す発言をしたのも事実ですわ。それ以前にも、訓練区画を家柄を理由に譲らせようとしていました」


「それは別件として聞く」


 オルフェンの冷たい視線がアルベルトへ向く。


「ローゼンハイム。王家の血も公爵家の名も、この学園で他の生徒を見下す許可証にはならん」


「……っ」


 アルベルトは唇を噛んだ。


 そして、改めてリカリーネを見る。


「そもそも、こいつは誰なんですか」


「リカリーネ。同じ魔法科の生徒だ」


「……同じ?」


「午前中にも同じ教室にいただろう」


「…………」


 オルフェンの目が細くなる。


「お前、寝ていたな」


「……少しだけです」


「なるほど」


 リカリーネが鼻で笑った。


「新入りのくせに授業で寝るとか、ずいぶん余裕じゃない」


「誰のせいで鼻血が出てると思ってる!」


「私」


「胸を張るな!」


「全員、黙れ」


 オルフェンの一言で静まり返る。


「ローゼンハイム、ベルネック、ハルマン。医務室へ行け」


 三人が渋々歩き出す。


「リカリーネ」


「私も医務室?」


「お前は職員室だ」


「えー」


「今すぐだ」


「はいはい」


 リカリーネが面倒そうに歩き出す。


「リカちゃん!」


 ナユが呼ぶと、リカリーネは振り返った。


「何?」


「反省してね!」


「考えとく!」


「それ反省しないやつ!」


 隣でレムがくすくす笑った。


「面白い子ね、あの子」


「笑い事じゃないよ!」


 夏休み明け初日。


 王立学園では早くも、王家傍系の公爵家子息を含む三人が、同じ少女に顔面を殴られるという事件が発生した。


 しかも本当の騒動は、まだ始まってすらいなかった。



「今日の記録:リカちゃんと会いました。アルベルト君が失礼なことを言ったら、リカちゃんが殴りました。その後カイ君とリュード君も殴られました。三人とも顔面でした。学校が始まったばかりなのに、いきなり大事件です。リカちゃんにはちゃんと反省してほしいです。日報完了」

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