第422話《残夢》
チャイムが鳴った。
王立学園で聞く鐘とは違う、乾いた電子音だった。
ナユが目を開けると、そこには黒板と机、白い壁、窓の向こうに広がる校庭があった。
「……学校?」
声が違う。
手も小さくない。
窓ガラスに映っていたのは、制服姿の少年だった。
涼木拓哉。
まだ学生だった頃の自分。
「拓哉、帰らねぇの?」
後ろから同じ制服を着た少年が声を掛けてくる。
顔は分かるのに、名前だけが妙に霞んでいた。
昔の友人だったことだけは覚えている。
「帰るよ」
「明日の小テスト、忘れんなよ」
「今思い出させるなよ……」
「俺だけ忘れて怒られるの嫌だし」
「巻き込むな」
二人で笑った。
廊下へ出れば、部活へ向かう生徒達が走っている。
教室へ残って話し込む者もいれば、教師に呼び止められている者もいる。
何でもない学校の日常だった。
あの頃は、それが特別だなんて考えもしなかった。
早く大人になりたい。
働いて、自分で金を稼いで、好きなことをして暮らしたい。
そんなことばかり考えていた。
(懐かしいな……)
この頃、自分にはまだ妹も弟もいなかった。
父と母と自分。
三人だけの家族だった。
まさか何年も後になって、二十歳以上も年の離れた妹と、さらに幼い弟ができるなんて、この頃の自分は想像すらしていない。
◆
景色が揺れた。
「……ただいま」
「おかえり、お兄ちゃん」
玄関から顔を出したのは、制服姿の少女だった。
妹の真白。
十六歳。
四十を過ぎた兄とは、親子と間違われてもおかしくないほど年が離れている。
「今日も遅かったね」
「仕事だから仕方ないだろ」
「また残業?」
「まあな」
「もうおじさんなんだから、無理しない方がいいよ」
「兄に向かっておじさん言うな」
「四十過ぎてるんだから、おじさんでしょ」
「事実でも傷つくんだよ」
真白が楽しそうに笑った。
その奥から、小さな足音が近づいてくる。
「兄ちゃん!」
ランドセルを置いたばかりの悠真が、映像媒体を抱えて走ってきた。
表紙には巨大な人型ロボットが描かれている。
「今日これ見よう!」
「またロボットか」
「兄ちゃんも好きじゃん!」
「昔はな」
「嘘。今も好きなくせに」
「……まあ、嫌いじゃない」
「じゃあ見る!」
「飯食ってからな」
「やった!」
悠真が居間へ走っていく。
真白が呆れたように肩をすくめた。
「お兄ちゃん、悠真には甘いよね」
「歳が離れてるからな」
「私にも甘いけど?」
「知らん」
「否定しないんだ」
台所から母の声が飛んでくる。
「拓哉、先にご飯食べちゃいなさい」
「はーい」
父は居間でテレビを見ながら、こちらへ一度だけ顔を向けた。
「帰ったか」
「うん」
味噌汁の匂い。
食器の音。
真白が学校の話をする声。
悠真が早くロボットを見ようと急かす声。
何も特別ではない夜だった。
だからこそ、胸の奥が痛んだ。
(……夢だ)
気づいてしまった。
今の自分は、もうここにはいない。
涼木拓哉として生きた人生は終わっている。
「兄ちゃん?」
悠真が不思議そうに見上げていた。
「どうした?」
「ぼーっとしてる」
「疲れてるだけだ」
「じゃあ、アニメ明日にする?」
拓哉は少しだけ笑った。
「いや、見るよ」
「ほんと!?」
「ああ」
悠真が嬉しそうに笑う。
「兄ちゃんさ、本物のロボットがあったら乗りたい?」
「なんだよ急に」
「乗りたい?」
少し考える。
「……乗れるなら、そりゃ乗ってみたいな」
「やっぱり好きじゃん!」
「男なら一度くらい憧れるだろ」
「お母さーん!兄ちゃん四十過ぎてるのにロボット乗りたいって!」
「言うな!」
家の中に笑い声が広がった。
拓哉も笑った。
忘れたくないと思いながら。
◆
再び景色が変わる。
会社の休憩室。
窓の外では、学校帰りの子供達が友人と笑いながら歩いている。
拓哉は缶コーヒーを一口飲んだ。
「苦っ……」
昔は、早く大人になりたいと思っていた。
だが、大人になれば自由だけが増えるわけではなかった。
仕事。
責任。
金。
人付き合い。
家族。
考えなければならないことばかり増えていった。
「子供に戻れたら……か」
自分で言って、苦笑する。
そして今は、本当に子供の姿になっている。
学校へ通って。
友達と笑って。
魔法を学んで。
領地を治めて。
時には国同士の話までしている。
(戻りすぎなんだよな……)
『同意します』
「ミラ?」
『はい』
誰もいない休憩室へ、いつもの声が響いた。
「夢の中でも真面目だな」
『私はいつでも真面目です』
「知ってるよ」
拓哉は缶コーヒーを机へ置いた。
「なあ、ミラ」
『はい』
「俺……いや」
少しだけ考える。
「私は、ちゃんとナユとして生きられてるかな」
短い沈黙があった。
『質問が曖昧です』
「こういう時くらい察してよ」
『では、推測して回答します』
ミラの声は変わらない。
けれど、どこか優しく聞こえた。
『涼木拓哉として生きた記憶も、ナユとして積み重ねた時間も、どちらも現在のナユを構成しています』
『片方を捨てる必要はありません』
「……そっか」
『はい』
窓の外が、白く染まっていく。
『明日は夏休み明けの始業日です』
「分かってるよ」
『寝坊には注意してください』
「夢の中でまで言う!?」
◆
「ナユ」
額を小さな何かに突かれた。
「……あと五分」
「駄目よ」
「ん……」
「起きなさい。学校でしょ?」
目を開ける。
迷宮都市ナユタの自室だった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
枕元では、レムが腕を組んで浮かんでいた。
「おはよう」
「遅いわよ」
「まだ寝坊してないよ!」
「今のところはね」
ナユは身体を起こした。
夢の中の景色が、少しずつ遠ざかっていく。
学生だった自分。
四十を過ぎた自分。
十六歳の真白。
まだ幼かった悠真。
父と母。
どれも、ナユになる前の大切な人生だった。
『おはようございます、ナユ』
(おはよう、ミラ)
ナユは制服へ手を伸ばす。
見た目は十歳。
だが、その中には涼木拓哉として生きた長い記憶があり、この世界で積み重ねた時間もある。
だから今さら、同年代の子供達と同じように怒ったり悩んだりできないこともある。
それでも。
友達と学び。
くだらないことで笑い。
たまには喧嘩もする。
そんな学校生活を、もう一度送れることは少し嬉しかった。
「よし!」
ナユは布団から飛び出した。
「学校行ってくる!」
「まず着替えなさい」
「分かってるよ!」
レムの呆れた声に、ナユは笑った。
夏休みが終わる。
また、いつもの学園生活が始まる。
少なくとも、この時のナユは。
そう思っていた。
◆
「今日の記録:前の世界の夢を見ました。学生だった頃と、四十歳を過ぎて家族と暮らしていた頃です。真白は十六歳で、悠真はまだ小さかったです。悠真とロボットアニメを見ていたことも思い出しました。昔の私も、本物があったら乗ってみたいと言っていました。夏休みも終わりです。今日からまた学校へ行きます。みんなに会うのが楽しみです。日報完了」




