第420話《安息》
迷宮都市ナユタへ戻ってから、一週間が過ぎた。
帝国で救出された人々の多くは診療所を離れ、エリシアが用意した仮住居で生活を始めていた。
まだ外へ出ることを怖がる者もいる。
夜になると眠れず、何度も窓や扉を確認してしまう者もいるという。
「身体が治ったからといって、すぐ元の生活へ戻れるわけではありません」
エリシアは書類を捲りながら淡々と説明した。
「当面は生活の安定を優先します。仕事についても、本人が希望するまではこちらから勧めません」
「うん。それでお願いします」
ナユは大きく頷いた。
隣では、レムが机の上に座り、足をぶらぶらと揺らしている。
「ずいぶん手厚いのね」
「何が?」
「住む場所も食事も用意して、働けとも言わないんでしょ?」
「今まで大変だったんだから、まず休まないと」
「そのまま何もしない人がいたら?」
「それはその時考えるよ」
「甘いわね」
「そうかな?」
「そうよ」
レムは呆れたように言った。
だが、嫌そうな顔ではなかった。
エリシアが一枚の書類を取り出す。
「ただ、既に仕事を希望されている方もおります」
「もう?」
「はい。以前、職人をされていた方が数名。商売の経験がある方もいらっしゃいます」
「でも、無理してない?」
「確認しました。恩を返すためではなく、自分の生活を取り戻したいとのことです」
「それならいいかな」
「そう判断しています」
エリシアは次の書類へ移った。
「一方で、まだ今後について考えられない方もおります」
「その人達は?」
「何もしません」
「え?」
「今は、です」
エリシアは当然のように答える。
「食事をし、眠り、必要なら診療所へ行く。それだけで構いません」
ナユは嬉しそうに笑った。
「エリシアさん、優しいね」
「決められた支援を行っているだけです」
「そういうところだよ」
「意味が分かりません」
レムが小さく笑った。
「この街、あなたみたいなのが他にもいるのね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「残り半分は!?」
◆
役所を出たナユ達は、そのまま仮住居のある区画へ向かった。
ミナとセバスチャンも合流し、三人と一匹――とナユが言いかけてレムに睨まれたため、四人で歩くことになった。
「今、私を数に入れる時に変なこと考えたでしょ」
「考えてないよ!」
『考えていました』
(ミラ!)
「ほら、その顔。また何か隠してる」
「何でもない!」
レムは疑わしそうにナユの頬を引っ張った。
「いたい、いたい!」
ミナが笑いながら止める。
「レムさん、ナユ様のお顔はそのくらいで」
「仕方ないわね」
「ミナ、もっと強く止めてよ!」
「楽しそうでしたので」
「楽しくないよ!」
そんなやり取りをしながら区画へ入ると、以前とは違う光景が広がっていた。
洗濯物が干されている。
窓辺には小さな鉢植えが置かれ、共同の炊事場から料理の匂いも漂っている。
まだ仮の住居でしかない。
それでも、人が暮らす場所へ変わり始めていた。
「あっ、ナユ様」
一人の男性が気づき、深く頭を下げた。
帝国地下では痩せ細っていたが、今は顔色もかなり戻っている。
「身体、大丈夫?」
「はい。昨日、診療所から通常生活へ戻ってよいと言われました」
「よかった!」
「それで……お願いがございます」
男性は少し緊張した様子で続ける。
「私は帝国に捕らえられる前、木工職人をしておりました」
「木工?」
「もし許されるのであれば、この街でまた仕事をしたいのです」
ナユは男性の手を見る。
まだ痩せてはいるが、指には長年道具を扱ってきた跡が残っていた。
「働かなきゃって思ってない?」
「いいえ」
男性は首を横に振った。
「何もしないでいると、地下のことばかり思い出してしまうのです」
その言葉に、ナユはすぐには答えなかった。
「木を削っている時だけは、昔の自分に戻れる気がします」
「……そっか」
「ですから、もう一度始めたい」
ナユは笑顔で頷いた。
「じゃあエリシアさんに相談しよう。工房とか、道具とかも必要だよね」
「よろしいのですか?」
「やりたいんでしょ?」
「はい!」
「なら、やろうよ」
男性の目に涙が滲んだ。
「ありがとうございます」
「でも無理は禁止だからね!」
「はい」
深く頭を下げる男性を見ながら、レムは何も言わなかった。
◆
区画を離れた後、レムが珍しく静かだった。
「どうしたの?」
「別に」
「絶対何かある顔だよ」
「あなたにだけは言われたくないわ」
レムは少し前を飛び、それから振り返った。
「ねえ、ナユ」
「なに?」
「どうして、あの人達をそこまで助けるの?」
「どうしてって……」
「帝国から連れ出した時点で、あなたの役目は終わってたでしょ?」
「役目だったから助けたわけじゃないよ」
「じゃあ何?」
ナユは少し考えた。
「帰る場所がないなら、帰れる場所を作ればいいと思ったから」
レムの瞳が僅かに細くなる。
「簡単に言うのね」
「簡単じゃないよ。エリシアさんとか、町のみんなが手伝ってくれるからできるの」
「そういう意味じゃないわ」
「?」
レムはそれ以上説明しなかった。
「やっぱり変な子」
「またそれ!」
「褒めてるのよ」
「絶対違う!」
『過去の発言傾向から、今回は比較的肯定的な意味である可能性があります』
(ミラには分かるの!?)
『推測です』
レムはナユの肩へ戻ると、いつものように足を組んだ。
「まあ、もう少し付き合ってあげる」
「最初からそのつもりだったでしょ?」
「気が変わるかもしれないじゃない」
「変わらないでよ!」
夕方のナユタを、様々な種族の人々が行き交っている。
その中には、帝国地下から救い出された者達の姿も少しずつ混ざり始めていた。
失った時間は戻らない。
傷ついた記憶も、簡単には消えない。
それでも、新しい生活を始めることはできる。
レムはナユの肩から街を眺めながら、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……本当に、変な子ね」
今度の声には、少しだけ楽しそうな響きが混じっていた。
◆
「今日の記録:帝国から助けた皆さんが、少しずつナユタでの生活を始めています。まだ休みたい人は休んで、働きたい人は少しずつ仕事を探します。木工職人だった方も、もう一度仕事を始めたいと言っていました。レムには、どうしてそこまで助けるのかと聞かれました。帰る場所がないなら、新しい帰る場所があってもいいと思います。日報完了」




