第410話《帰還》
帝都を離れてから、ナユ達は朝日が高く昇るまで森の中を進み続けた。
銀髪の姫が生み出した霧はすでに消えていたが、追手の気配はない。
聞こえるのは鳥の声と、木々の葉が擦れる音だけだった。
先頭を歩いていたセバスチャンが、木々の開けた場所で足を止める。
「ここまで離れれば、すぐに追いつかれることはないでしょう。皆様、一度お休みください」
その言葉を聞いた途端、救出された人々は次々と地面へ座り込んだ。
足を抱えて俯く者。
隣にいる者の手を握り、無事を確かめる者。
静かに涙を流す者。
久しぶりに浴びる朝の光へ手を伸ばし、眩しそうに目を細める者もいた。
地下では見られなかった空が、彼らの頭上に広がっていた。
帝都から逃げ切った後も張り詰めたままだった心が、ようやく緩み始めていた。
ナユは《アイテムボックス》から毛布と水、柔らかいパンを取り出した。
「急いで食べないでね。身体が驚かないように、少しずつにしてください」
ミナが水を配り、進藤海が毛布を広げていく。
若い姿となったセバスチャンは周囲を一周し、地面に残された足跡や折れた枝を確かめていた。
「その姿になっても、休む気はないんだな」
進藤海が呆れたように言う。
「皆様が休まれている間こそ、警戒が必要でございます」
「俺より年下にしか見えない奴に諭されると、妙な気分だ」
「外見と職務は別物ですので」
涼しい顔で返すセバスチャンに、進藤海は苦笑した。
少し離れた場所では、銀髪の姫が救出された人々へ手をかざしていた。
淡い緑色の風が一人ずつの身体を優しく包み、震える呼吸を落ち着かせていく。
肉体の傷はエリクサーで癒えている。
それでも、長い監禁で擦り減った心まで、一晩で元に戻るわけではなかった。
「ありがとう」
ナユが声を掛けると、銀髪の姫は振り返った。
「お礼を申し上げるのは、私の方です」
彼女はナユの前まで歩き、胸元へ手を添える。
「まだ、名をお伝えしておりませんでした。私はフィリア。エルフ達の王国の第一王女です」
「フィリアさんっていうんだね」
ナユは笑顔で頷いた。
「第一王女ということは、王様の一番上の娘さんなのですか?」
ミナが尋ねる。
「はい。私は王家の長女です。ただ、数十年も国を離れていた今、王位継承がどうなっているのかは分かりません」
フィリアの表情に、わずかな影が差した。
「帝国に囚われてから、数十年が過ぎています。父と母が今も変わらず国を治めているのか、弟や妹達がどうしているのか、私には分かりません」
エルフにとって数十年は、人間ほど長い時間ではない。
それでも、家族と離れて過ごすには十分すぎる年月だった。
「心配だよね、帰りたい?」
ナユが尋ねる。
フィリアは迷わず頷いた。
「はい。風の精霊王様と共に、故郷へ帰りたいです」
その言葉に応えるように、フィリアの周囲を緑色の風が巡った。
『ナユ』
森の中へ、澄んだ声が響く。
救出された人々が驚いて顔を上げた。
『我が契約者と我を、帝国の楔から解き放ったこと。風の精霊王として、改めて礼を言う』
「私は、助けたかったから助けただけだよ」
『その心を、我は忘れぬ』
柔らかな風がナユの頬を撫で、静かに消えていった。
フィリアは救出された人々へ視線を向けた。
「ただ、皆様を我が国へお連れすることは難しいでしょう」
人々の表情に不安が広がる。
「エルフ王国は長く外の種族との関わりを避けてきました。特に人間へ強い不信を抱く者は少なくありません」
フィリアは悔しそうに目を伏せた。
「私を捕らえ、風の精霊王の力を奪ったのも人間です。私が事情を説明したとしても、大勢の人間をすぐに受け入れさせることは難しいと思います」
「それなら、迷宮都市ナユタに来ませんか?」
ナユの言葉に、全員の視線が集まった。
「ナユタなら種族は関係ないよ。人間も、獣人も、魔族も、いろんな人が一緒に暮らしています」
「ナユ様が治めておられる都市なのですか?」
「みんなで作った町だよ。私一人の町じゃないけど、困っている人を受け入れることなら、きっと誰も反対しません」
ミナも力強く頷いた。
「ええ。ナユタの皆様なら、必ず力を貸してくださいます」
ナユは不安そうな人々を一人ずつ見た。
「住む場所も、食べるものも用意します。身体が元気になるまで休んでいいし、働けるようになったら仕事も探せます」
「ですが……私達には、返せるものがありません」
痩せた男性が俯いた。
「お金も、身分を証明するものも、何も……」
「返さなくていいよ」
ナユは即答した。
「今は生きることだけ考えてください。これからどうするかは、元気になってから決めればいいんです」
長い沈黙の後、年老いた女性が震える声で尋ねた。
「私達が行っても……迷惑ではないのですか?」
「迷惑じゃないよ」
ナユは笑った。
「ナユタは、帰る場所をなくした人が新しく始められる町だから」
女性の目から涙が零れた。
その隣で、男性が深く頭を下げる。
「お願いします……私達を、その町へ連れていってください」
他の者達も次々と頭を下げた。
「もちろんです!」
ミナが優しく答える。
「皆様が安心して暮らせるよう、私達がお手伝いいたします」
フィリアも安堵したように息を吐いた。
「ナユタで皆様を保護していただけるのであれば、私も安心して故郷へ戻れます」
「じゃあ、まずは全員でナユタに帰ろう」
ナユは進藤海を見る。
「進藤さんも、しばらく休んでね」
「俺はもう平気だ」
「平気な人は、帝国の地下で倒れたりしません」
「それを言われると弱いな……」
進藤海が頭を掻くと、周囲から小さな笑いが漏れた。
セバスチャンが地図を広げた。
「人数と皆様の体調を考えれば、急がず進むべきでしょう。途中で一泊し、明日の夕方までの到着を目指します」
「ナユタへ戻ったら、救出した皆さんの治療と住む場所をお願いしよう」
ナユは続ける。
「それが終わったら、フィリアさんをエルフ王国まで送ります」
「よろしいのですか?」
「ここまで来て、途中で終わりにはしないよ」
フィリアは目を潤ませ、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ナユ様」
木々の隙間から差し込む光が、休息する人々を照らしていた。
帝国から逃げ出すための道は終わった。
これから歩くのは、新しい居場所へ帰るための道だった。
◆
「今日の記録:銀髪のエルフのお姫様のお名前は、フィリアさんでした。エルフ王国の第一王女で、帝国に数十年間囚われていたそうです。救出した皆さんには帰る場所がないため、迷宮都市ナユタへ来てもらうことにしました。まず全員でナユタへ帰り、皆さんが安心して暮らせるようにします。その後、フィリアさんをエルフ王国まで送り届けます。日報完了」




