第407話《死神》
グラッドの拳が、少年の顔面へ迫った。
少年は半歩だけ身を引いた。
赤黒い拳が鼻先を通り過ぎる。
続く肘打ちにも、回し蹴りにも大きく避けようとはしない。
身体を僅かに傾け、最小限の動きですべてを外していく。
「貴様……!」
グラッドが拳を引き戻そうとした瞬間、少年の指先が手首へ触れた。
強く打ったわけではない。
だが、腕を覆っていた《魔炎気》が大きく揺らいだ。
「そこが流れの起点ですか」
少年の拳が脇腹へ入る。
グラッドの巨体が、横へ二歩動いた。
「将軍を……押した?」
ミナが目を見開く。
進藤海も、少年から視線を離せなかった。
「何者なんだ、あいつ……」
ナユだけが、その正体を知っている。
十五歳の肉体。
七十年以上をかけて完成させた技術。
その二つが重なった今のセバスチャンには、老いという枷が存在しなかった。
「舐めるな!」
グラッドの全身から《魔炎気》が噴き上がる。
触れただけで魔力を焼き乱す炎が、少年を包み込もうと広がった。
少年の姿が消える。
グラッドが背後へ拳を振るう。
そこにいたのは残像だった。
「幻影影舞」
少年の影が、貯水槽の中へ無数に広がる。
グラッドは炎を振り回し、次々と影を焼き払った。
「小細工を!」
「そちらです」
声は足元から聞こえた。
少年は低く身を沈め、グラッドの膝裏へ指を打ち込む。
片脚が崩れた瞬間、肩と胸元へ続けて掌底を放った。
《魔炎気》の流れが分断される。
赤黒い炎が、右腕から消えた。
「俺の《魔炎気》を止めただと……!」
「力を巡らせる経路を塞いだだけでございます」
グラッドが残った左拳を振り下ろす。
少年は手首へ触れ、その勢いを横へ流した。
拳が石床を砕く。
体勢を崩したグラッドの顎へ、少年の掌底が入った。
巨体が宙へ浮き、背中から床へ落ちる。
少年の呼吸は、僅かにも乱れていなかった。
グラッドは血を吐きながら立ち上がる。
「その動き……」
少年の構えを見たグラッドの瞳が、大きく揺れた。
遠い昔。
まだグラッドが、帝国軍の末端にいた頃。
炎に包まれた国境の砦へ、一人の少年が現れた。
帝国兵も、暗殺者も、指揮官さえも、その少年へ触れることすらできなかった。
物資の陰で震えていた幼いグラッドにも、少年は気づいていた。
それでも殺さなかった。
ただ一度だけ見下ろし、興味を失ったように立ち去った。
その顔を、グラッドは一度も忘れたことがない。
「……《死神》」
少年の眉が僅かに動く。
「貴様は、王国の《死神》だ!」
「随分と昔の名をご存じなのですな」
「俺を覚えていないのか!」
グラッドは声を荒らげた。
「国境の砦で、貴様は俺を見逃した!」
少年は少しだけ考えた。
だが、何も思い出せなかった。
「申し訳ございません」
少年は穏やかに答える。
「当時、始末する必要もない雑兵まで、一人ずつ覚えてはおりませんので」
グラッドの顔が怒りに歪んだ。
「雑兵……だと……!」
「少なくとも、当時のあなたはそうだったのでしょう」
グラッドが咆哮する。
残った《魔炎気》を全身へ集め、一直線に突進した。
少年は動かない。
拳が届く直前、その瞳から穏やかさが消えた。
「《王威》」
空気が沈んだ。
見えない重圧に押し潰され、グラッドの動きが止まる。
少年は懐へ踏み込み、胸元へ掌を当てた。
「あなたは強くなられました」
七十年以上の技術が、一点へ集約される。
「ですが、私へ届くには遅すぎましたな」
掌底が放たれた。
衝撃がグラッドの身体を内側から貫く。
《魔炎気》が完全に消え、巨体が隔壁まで吹き飛んだ。
グラッドは床へ落ち、そのまま動かなくなる。
ミナも進藤海も、声を失っていた。
少年が何者なのかは分からない。
だが、ナユが連れてきた味方であることだけは理解していた。
その時。
倒れたグラッドの手が、壁際の赤い起動板へ触れた。
「まだだ……」
指が起動板を押し込む。
貯水槽の奥で、巨大な隔壁が開き始めた。
暗闇の中から現れたのは、人間の何倍もある黒い金属の足だった。
『将軍専用人型起動兵器、起動準備開始』
低い機械音が地下を揺らす。
グラッドが血に濡れた口元を歪めた。
「《死神》……次は、帝国の力で潰してやる……」
◆
「今日の記録:若い姿になったセバスチャンは、グラッド将軍を圧倒しました。将軍は、昔まだ雑兵だった頃に《死神》と呼ばれていたセバスチャンと出会っていました。でも、セバスチャンは覚えていませんでした。将軍は倒れましたが、最後に巨大な人型起動兵器を動かしました。まだ戦いは終わっていません。日報完了」




