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第397話《車列》

 夜明け前のグレイザは、昼間よりも静かだった。


 けれど、静かなだけで安全ではない。

 宿の外では、帝国兵の足音が規則正しく響いていた。

 通りの奥では、荷車の軋む音が聞こえる。

 まだ空は暗いのに、町はもう動き始めていた。


 ナユはフードを深く被り、古びた護符を胸元に下げていた。


 中には、進藤海から届いた通信具が隠されている。

 見た目は、体調を整えるための安物の護符。

 情報屋の老婆が用意してくれたものだった。


『護符内部の偽装は安定しています。外部から見れば、微弱な体調補助用魔導具に見えるでしょう』


(ありがとう、ミラ)


『ただし、精密検査を受ければ露見する可能性があります。不要な接触は避けてください』


(うん)


 ナユは小さく息を吸った。


 今のナユは、体調を崩した幼い主。

 帝都の薬師を頼るため、年配の執事と侍女に付き添われている子ども。

 それが、三人で決めた偽装だった。


 宿の裏口で、セバスチャンが静かに待っていた。


「お嬢様、準備はよろしいですかな」


「ええ」


 ミナが外套の留め具を直し、ナユの顔色を確認した。


「無理に元気に見せる必要はありません。少し俯き、呼吸を浅く。ですが、本当に苦しくなった時はすぐにお知らせください」


「大丈夫。ちゃんと病人のふりをするね」


「ふりだけでお願いいたします」


 ミナの声は真面目だった。


 セバスチャンがわずかに微笑む。


「参りましょう。夜明け前の便は、乗客も少なく、検査も短いはずでございます」


 三人は宿を出た。


 グレイザの馬車場には、すでに数台の乗合馬車が並んでいた。

 荷物を積む者。

 身分札を確認する帝国兵。

 眠そうに欠伸をする御者。

 その中に、帝都方面行きの馬車があった。


 黒い車体に、帝国の小さな紋章が刻まれている。

 護送車ではない。

 だが、ただの旅人用にしては兵の目が多かった。


 セバスチャンが受付の兵へ通行札を差し出した。


「帝都薬師組合へ。こちらのお嬢様が、長旅で体調を崩しておりまして」


 兵は通行札を受け取り、ナユを見下ろした。


「そこの子ども、顔を上げろ」


 ナユは、ゆっくり顔を上げた。


 青白く見せた頬。

 伏せ気味の目。

 強く見えすぎないように、視線を少しだけ揺らす。


 兵は眉を寄せた。


「病人か」


「はい。帝都の薬師に伝手がございますので、急ぎ向かっております」


「護符は何だ」


 ナユの胸が、小さく跳ねた。


 けれど、セバスチャンの声は変わらなかった。


「体調補助用の古い護符です。大した効き目はございませんが、お嬢様が安心されますので」


 兵は護符へ手を伸ばした。


 その瞬間、ミナの指がわずかに動いた。


 だが、セバスチャンが先に一歩だけ前へ出る。


「お触れになりますか。古い護符ですので、強く扱うと壊れるかもしれません」


「壊れたら困るのか」


「はい。お嬢様が不安がられます」


 兵は面倒そうに舌打ちした。


「……ここで病人に倒れられても面倒だ。行け」


「感謝いたします」


 セバスチャンは深く一礼した。


 ナユ達は馬車へ乗り込んだ。


 中には、すでに数人の乗客がいた。

 薬箱を抱えた男。

 荷袋を膝に置いた商人。

 目元を布で隠した老女。

 誰も大きな声では話さない。


 帝国では、馬車の中でさえ声を落とすらしい。


 ナユは窓際に座り、ミナが隣に腰を下ろした。

 セバスチャンは向かいに座り、外から見えない角度で周囲を観察している。


 やがて、御者が鞭を鳴らした。


 馬車がゆっくり動き出す。


 車輪が石畳を越え、グレイザの門へ向かう。

 窓の外で、黒赤の旗が朝の薄闇に揺れていた。


 門を抜けた時、ナユは胸元の護符をそっと押さえた。


(進藤さん、待っていてください)


 声には出さなかった。


 出せば、震えそうだったからだ。


 馬車は帝都へ続く街道を進んだ。


 王国の街道とは違い、道の両脇には一定間隔で黒い石柱が立っていた。

 石柱の上には小さな魔導灯があり、まだ夜明け前の道を青白く照らしている。


 だが、その光は温かくない。

 ただ、監視するための光だった。


『街道沿いの石柱から、微弱な魔力吸収反応を確認。周囲の魔力を集め、どこかへ送っている可能性があります』


(どこに?)


『断定はできません。ただし、魔力の流れは帝都方面へ向かっています』


 ナユは窓の外を見た。


 帝国の道は、帝都へ向かっている。

 人も、荷も、魔力も。

 すべてが、帝都へ集められているように見えた。


 昼前、馬車は小さな検問所で止まった。


 帝国兵が車内を覗き込む。


「全員、通行札を出せ」


 乗客達が黙って札を出した。


 兵は一人ずつ確認していく。

 そして、ナユ達の前で少しだけ手を止めた。


「グレイザ発、帝都薬師組合行き。体調を崩した子ども一名、付き添い二名」


「はい」


 セバスチャンが答える。


「最近、帝都周辺で不審者が増えている……」


 ナユは息を浅くした。


 ミナは膝の上で手を重ねている。

 だが、その手はすぐに動ける位置にあった。


 兵はナユを見た。


「おい、子ども。名は」


 セバスチャンが答えようとした。


 けれど、兵が睨む。


「本人に答えさせろ」


 ナユは少しだけ間を置いた。


「……リィナ、です」


 偽名は、昨日のうちに決めていた。

 体調を崩した、口数の少ない子ども。

 必要な時だけ小さく答える。


 兵はさらに問う。


「どこが悪い」


「胸が……苦しくなります。長く歩くと、息が続きません」


 ナユは、そこで小さく咳をした。


 作りすぎないように。

 本当に苦しそうに見える程度に。


 兵は顔をしかめた。


「病人を連れてうろつくな。面倒を起こすなよ」


「申し訳ございません」


 セバスチャンが頭を下げる。


 兵は通行札を返した。


「行け」


 馬車が再び動き出す。


 ミナが、わずかに息を吐いた。


「お上手でした」


「怖かった」


 ナユは小さく答えた。


「怖くても、出来ておりました」


 ミナの声は静かだった。


 その言葉で、ナユは少しだけ肩の力を抜いた。


 午後になると、乗客達の口も少しだけ緩んだ。


 薬箱を抱えた男が、商人へ低い声で話している。


「帝都の地下でまた事故があったらしい」


「魔科学院か」


「知らん。聞かなかったことにしろ。ただ、兵の出入りが増えた」


「最近は物騒だな。特殊囚人の護送もあったって聞いたぞ」


「黙れ。そういう話をするな」


 そこで会話は途切れた。


 ナユは、顔を伏せたまま聞いていた。


 特殊囚人。

 帝都地下。

 魔科学院。


 情報屋の老婆が言ったことと繋がる。


 やはり、進藤海は帝都にいる可能性が高い。


 夕方、遠くの空が赤くなり始めた頃。


 馬車の窓から、巨大な影が見えた。


 まだ遠い。

 だが、それは町ではなかった。

 壁だった。


 高く、黒く、長く続く城壁。

 その奥に、いくつもの塔が立っている。

 塔の上には、黒赤の旗が揺れていた。


 セバスチャンが静かに言った。


「帝都外縁でございます」


 ナユは窓の外を見つめた。


 あの奥に、進藤海がいるかもしれない。

 ロスルドの手がかりもあるかもしれない。

 人型起動兵器も、召喚炉も、帝国の闇も。


 全部、あの壁の向こうにある。


 ミナが小さく声を落とした。


「ナユ様。ここからは、さらに慎重に」


「はい」


 ナユは頷いた。


 馬車は列に並んだ。


 帝都へ入るための車列だった。

 荷車。

 商人。

 兵士。

 病人を乗せた馬車。

 そして、何かを隠すように布を掛けられた軍用車。


 帝国の中心へ入る門は、まだ遠い。


 けれど、もう引き返せない。


 ナユは胸元の護符を握った。


 馬車の車輪が、ゆっくり前へ進む。


 帝都の門が、黒い口を開けるように待っていた。



「今日の記録:グレイザを出て、帝都へ向かう乗合馬車に乗りました。私は体調を崩した幼い主、ミナは侍女兼護衛、セバスチャンは年配の執事として偽装しています。途中の検問で通信具を隠した護符を見られそうになりましたが、なんとか通れました。街道には魔力を集めているような黒い石柱があり、帝都方面へ魔力が流れている可能性があります。馬車の中では、特殊囚人や帝都地下、魔科学院の噂も聞こえました。夕方、帝都の外壁が見えました。進藤さんは、あの奥にいるかもしれません。日報完了」

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