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第396話《鎖市》

 グレイザの通りには、鎖の音が混じっていた。


 荷車の車輪が石畳を鳴らす。

 商人が低い声で値を交わす。

 帝国兵の靴音が、通りの空気を押さえつける。

 その中に、金属が引きずられる音が混じっていた。


 ナユはフードを深く被り、視線を長く向けないようにした。


 見れば、動きたくなる。

 動けば、進藤海へ届かなくなる。

 だから今は、見るのではなく覚える。


 鎖の音。

 怯えた目。

 黒い魔導石のついた荷車。

 手首に嵌められた金属輪。


 全部、忘れない。


「お嬢様。こちらでございます」


 セバスチャンが静かに先導した。


 ミナはナユの半歩後ろを歩いている。

 侍女兼護衛としての姿勢を崩さない。

 けれど、その指先はいつでも動けるように緊張していた。


 三人は大通りを外れた。


 表通りの喧騒が遠ざかる。

 代わりに、湿った石壁の匂いと、油の焦げたような匂いが強くなった。

 裏通りには看板のない店が並び、扉はどれも半分だけ閉じられている。


 セバスチャンは、そのうち一軒の前で足を止めた。


 表向きは、古い鉄細工屋だった。

 壊れた鍋。

 曲がった鎖。

 錆びた農具。

 そうしたものが雑に積まれている。


 だが、ナユには分かった。


 ここは、ただの店ではない。


 奥から、しわがれた声が聞こえた。


「客かい。それとも厄介事かい」


「どちらとも言えますな」


 セバスチャンが穏やかに答えた。


 店の奥にいたのは、小柄な老婆だった。


 白髪を後ろで結い、細い目をさらに細めている。

 背は曲がっているが、視線は鋭い。

 手元には古い煙管があり、机の上には印章、旅券、金属札、そして見慣れない小さな魔導具が並んでいた。


 老婆は、セバスチャンを見るなり苦笑した。


「まだこんなことをやっているのかい」


「お互い様ですよ」


 セバスチャンは、いつもの穏やかな笑みで返した。


 老婆は、ふん、と鼻を鳴らした。


「昔は《死神》なんて呼ばれていた男が、今では娘二人の付き添いかい。衰えるもんだねぇ。年には勝てないか」


「その名は言わないでください。お嬢様方に引かれるでしょう?」


 ナユは思わずセバスチャンを見た。


 ミナも、わずかに目を細めている。


「セバスチャンが凄い方なのは分かっているのですが、昔はどんな方だったのですか?」


 ナユが尋ねると、老婆はにやりと笑った。


「こやつはな、《死神》という名で、諜報やら、ここではあまり言えない黒い仕事を成し遂げた男じゃ。その腕を買われて王国にスカウトされ、気づけば王国の諜報部の上へ上へと登り詰め諜報部のトップに……今は辺境伯の執事、という流れじゃな」


 空気が、すっと重くなった。


 セバスチャンは笑っていた。

 笑っているのに、目だけが老婆を見ていた。


「そのあたりで」


 声は柔らかい。

 けれど、部屋の空気が押し潰されるように重くなる。


 老婆は肩をすくめた。


「おっと、《王威》が漏れてるぞ。くわばらくわばら」


 ナユは、目を丸くした。


「《王威》?」


「お気になさらず」


 セバスチャンは何事もなかったように一礼した。


 ミナは小さく息を吐いた。


「セバスチャン様が只者ではないことは、重々承知しておりました。ですが……そこまでのお方だったとは」


 老婆は、喉の奥で低く笑った。


「良い娘達じゃないか。で、その死神が、今度は何を探している」


 セバスチャンの表情が、静かに変わった。


「帝都へ入る通行札を三つ。病弱な商家の娘と、侍女兼護衛、老従者という形で」


「急ぎかい」


「はい」


「高いよ」


「承知しております」


 セバスチャンは、小さな宝石を一つ置いた。


 老婆の目が、それを見た瞬間だけ鋭く光る。


「昔より払いが良くなったじゃないか」


「良い主に仕えておりますので」


「なら、その主を危ない橋に連れてくるんじゃないよ」


「必要があるのです」


 老婆はナユを見た。


 フードの奥の青白い顔。

 病弱に見せる偽装。

 だが、その目だけは弱くない。


「ふうん。病人役にしては、目が強い」


 ナユは静かに頭を下げた。


「通行札と、情報が必要です」


「子どもがまっすぐ言うもんじゃないよ。裏の場所では、まっすぐな言葉ほど値が高くつく」


 老婆は煙管を置いた。


「だが、嫌いじゃない」


 セバスチャンが口を開く。


「特殊囚人について、噂は」


 老婆の指が止まった。


「……どこでそれを聞いた」


「風の噂でございます」


「その風は、ずいぶん深いところを吹いているね」


 老婆は目を細めた。


「数日前、帝都方面へ厳重な護送があった。表向きは反逆者。だが、兵の数が多すぎた。魔導封鎖具も使われていた。普通の罪人じゃない」


 ナユの手が、外套の中で強く握られる。


「その人は、どこへ?」


「帝都だよ。そこから先は、魔科学院の管轄だろうね」


「魔科学院」


 ミナが低く繰り返した。


 老婆は頷く。


「あそこの連中が関わると、だいたい地下へ消える。特に異世界召喚者絡みなら、召喚炉の近くじゃろうさ」


 ナユの胸が冷たくなる。


 進藤海は、生きている可能性が高い。

 だが、帝都の地下にいる。

 帝国の魔科学者達の手の中にいる。


 すぐに助けなければならない。


 セバスチャンは表情を変えずに続けた。


「帝都へ入る最短の便は」


「明日の夜明け前。薬師組合へ向かう乗合馬車がある。病人連れなら不自然じゃない。検査も昼の便よりは薄い」


「助かります」


「ただし、王国式の通信具は隠しな。今は魔道具検査が厳しい。密報漏れで兵どもが神経質になってる」


 ナユは胸元の通信具を意識した。


 老婆はそれに気づいたように笑った。


「顔に出るねぇ」


「……すみません」


「謝る必要はない。ただ、帝都ではその顔をするんじゃないよ」


 老婆は机の下から三枚の通行札を取り出した。


 さらに、古びた護符を一つ置く。


「通信具はこの護符に入れな。体調管理用の古い護符に見える。病弱な娘なら持っていてもおかしくない」


「ありがとうございます」


 ナユが言うと、老婆は片眉を上げた。


「礼は、戻ってから言いな」


 それから老婆は、声をさらに落とした。


「もう一つ、聞いておきな」


 部屋の空気が変わった。


「帝都では最近、人の形をした鉄の棺を運んでいる。腕も足もある。中に人が乗るのか、自分で動くのかは分からない。だが、実験場で熟練兵をまとめて吹き飛ばしたという話がある」


 ナユは目を細めた。


「人型起動兵器……」


「そう呼ばれているらしいね。まだ完成前だというのに、強者相手でも一機で倒せる、と兵どもが噂している」


 ミナの表情が険しくなる。


「一機で強者を」


「噂が半分でも本当なら、戦場が変わる。帝国は、それを隠している」


 セバスチャンも静かに目を伏せた。


「情報、感謝いたします」


「感謝より、生きて帰りな」


 老婆は煙管を取り直した。


「死神。今のお前は昔ほど速くない」


 セバスチャンは微笑んだ。


「耳が痛いですな」


「笑って誤魔化すな。あんたの歩きは、少し重い。昔なら、扉を開ける時に息を乱さなかった」


 ナユはセバスチャンを見た。


 セバスチャンは何も言わない。


 老婆は続ける。


「若い娘を二人連れて帝都へ行くなら、昔のつもりで動くんじゃないよ」


「肝に銘じます」


 セバスチャンは静かに頭を下げた。


 その仕草だけは、いつも通りだった。


 三人は情報屋の店を出た。


 裏通りには、冷たい風が吹いていた。

 遠くで鎖の音がする。

 ナユは、もうそちらを長く見なかった。


 覚えた。

 忘れない。

 だが、今は進む。


「やっぱり帝都に行かないと。進藤さんは、そこにいるかもしれないんだよね」


 ナユは低く言った。


「はい。まだ確定ではございませんが、可能性は高まりました」


 セバスチャンが答える。


「明日の夜明け前、帝都行きの馬車に乗ります」


 ミナが頷いた。


「その前に、通信具の偽装と荷物の確認ですね」


「左様でございます」


 ナユはフードの奥で、静かに息を吸った。


 グレイザに長居する理由はない。

 ここは中継点。

 帝国の奥へ進むための、最初の鎖の町。


 けれど、得たものは大きかった。


 進藤海の行き先。

 帝都地下。

 召喚炉。

 人型起動兵器。


 そして、セバスチャンの過去。


 ナユは、歩く老執事の背中を見た。


「セバスチャン」


「はい」


「昔のこと、少し驚きました」


「お嫌になりましたか」


 ナユは首を振った。


「いいえ。今、私を助けてくれているセバスチャンを知っていますから」


 セバスチャンは、一瞬だけ足を止めた。


 それから、いつものように静かに歩き出す。


「……勿体なきお言葉でございます」


 その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。



「今日の記録:グレイザで情報屋のおばあさんに会いました。セバスチャンの昔からの知り合いで、セバスチャンは昔《死神》と呼ばれていたそうです。少し驚きました。でも、今のセバスチャンは私達を助けてくれる大切な人です。情報屋さんから、進藤さんが帝都地下の魔科学院、召喚炉の近くへ送られた可能性を聞きました。帝都へ入る通行札も手に入れました。そして、人型起動兵器の噂も聞きました。一機で強者を倒せるほど危険な兵器らしいです。明日の夜明け前、帝都へ向かいます。日報完了」

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