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第395話《越境》

 古い排水路の中は、息が詰まるほど狭かった。


 石壁は湿り、足元には冷たい泥水が溜まっている。

 ナユは外套の裾を押さえながら、セバスチャンの背中を追っていた。

 前を行く老執事の足音は、ほとんど聞こえない。


 背後では、王国側の夜が遠ざかっていく。

 前方には、帝国領へ続く暗い水路が伸びている。

 戻る道は、もう選ばない。


 セバスチャンが片手を上げた。


 三人はすぐに足を止める。


「前方に古い検知術式がございます。踏めば、今でも警報だけは鳴るでしょう」


 ナユは暗闇の奥を見た。


 何も見えない。

 だが、ミラの声がすぐに響く。


『簡易検知術式を確認。生体反応、魔力反応、振動を拾う構造です。古い術式ですが、魔力線はまだ生きています』


「解除できる?」


『正面からの解除は痕跡が残ります。迂回を推奨します』


 ナユがセバスチャンを見るより早く、老執事は壁の一部へ細い針を差し込んでいた。


 石が、かすかに沈む。

 横の壁に、人が一人通れるほどの隙間が開いた。


「保守用の側道でございます。古い施設には、正規の道よりも職人用の道が残るものです」


「さすがです」


 ミナが小さく言った。


「お褒めにあずかり光栄でございます。ですが、急ぎましょう。巡回が異音に気づけば、確認に来ます」


 三人は側道へ滑り込んだ。


 道はさらに狭くなった。

 ナユの肩が石壁に触れる。

 頭上からは水滴が落ち、首筋に冷たく流れた。


 その時、天井が小さく鳴った。


 乾いた石の割れる音だった。


 次の瞬間、頭上の石組みが崩れ始める。


「ナユ様!」


 ミナが前に出た。


「《ブースト》」


 身体強化が走る。

 ミナは両腕を上げ、落ちてくる石を受け止めた。

 肩と背中に重みがかかり、足元の泥水が跳ねる。


「先へ!」


「ミナ!」


「問題ありません。十八重まで上げています。先に抜けてください!早く!」


 ナユは唇を噛んだ。


 助けたい。

 けれど、ここで止まれば全員が詰まる。


 セバスチャンがナユの前へ出る。


「お嬢様。お急ぎください」


「はい」


 ナユは先へ抜けた。

 セバスチャンも続く。

 最後にミナが石を押し返し、崩落の隙間を滑るように抜けた。


 背後で、天井の一部が落ちる。


 鈍い音が水路の奥へ響いた。


 三人はその場で息を殺す。


 遠くで、帝国兵の声がした。


「今の音は何だ?」


「水路の方か」


「崩れたんだろ。あそこは古い」


「一応見るか?」


 ナユの胸が締めつけられる。


 ここで見つかれば、進藤海には届かない。

 帝国に入る前に戦うことになる。

 それだけは避けなければならない。


 セバスチャンが、小さな石を取り出した。


 彼は反対側の水路へ向けて、角度をつけて石を投げる。

 石は壁に当たり、跳ね、離れた水たまりへ落ちた。


 ぱしゃり、と別方向で音が鳴る。


「そっちだ」


「獣か」


「急げ。巡回が遅れる」


 足音が遠ざかっていく。


 ナユは、ようやく息を吐いた。


「助かった……」


「まだ帝国領には出ておりません。もう少しでございます」


 セバスチャンの声は静かだった。

 だが、その呼吸は少しだけ乱れている。


 ナユはそれに気づいた。

 ミナも気づいた。


 けれど、今は立ち止まらない。


 速度が必要だった。

 進藤海が、どれほど持つか分からない。

 帝国が密報の送信に気づいた以上、時間を失うほど状況は悪くなる。


 水路の先に、かすかな風が流れた。


 出口だった。


 セバスチャンが鉄格子の留め具を外す。

 ミナが錆びた格子を支える。

 ナユが先に外へ出た。


 冷たい夜風が頬を撫でる。


 そこは森だった。


 けれど、王国側の森とは空気が違う。

 木々の間を流れる魔力が重い。

 土の匂いに、どこか焦げたような匂いが混じっている。

 遠くには、黒と赤の旗を掲げた監視塔が見えた。


『帝国領内への侵入を確認』


 ミラが告げる。


『周囲に低濃度の瘴気反応があります。自然発生ではなく、人為的な魔力処理の残りと推定します』


「ここが、帝国……」


 ナユは胸元の通信具を握った。


 返事はない。

 進藤海からの反応はない。

 届いた密報は、一度きりだった。


 だからこそ、急ぐ。


 けれど、焦ってはいけない。


「次はどこへ?」


 ナユが問う。


 セバスチャンは森の奥を指した。


「帝国辺境の中継町、グレイザでございます。そこへ入らねば、首都方面へ向かう通行記録を作れません」


「町に入るのですね」


 ミナが確認する。


「はい。帝国領内を身分も記録もなく進めば、かえって目立ちます。ここからは、偽装が必要でございます」


 セバスチャンは小さな布袋を取り出した。


 中には古びた商人札、護符、旅券らしき紙片が入っている。


「お嬢様は、病弱な商家の娘。ミナは護衛兼侍女。私は老従者。急ぎの薬を求め、帝都方面へ向かう一行という形にいたします」


 ナユは自分を指さした。


「病弱な娘?」


「はい。顔を隠すフード、口数の少なさ、長旅での休憩、それらがすべて自然になります」


 ミナの眉がわずかに動いた。


「ナユ様を病弱扱いするのは不本意ですが、偽装としては合理的です」


「ミナ、怒らなくていいよ」


「失礼します」


 セバスチャンはナユの頬に、薄く薬を塗った。


 肌が少し青白く見える。

 目元にも影が入る。

 確かに、病弱に見えた。


 ナユは鏡代わりの小さな金属板を見て、少し複雑な顔をした。


「本当に具合悪そう」


「偽装としては成功でございます」


「うん……」


 三人は夜の森を進んだ。


 速度は落とさない。

 けれど、足跡は残さない。

 枝を折らない。

 灯りは使わない。


 セバスチャンが進路を選び、ミナが周囲を警戒し、ナユはミラの補助で魔力反応を拾う。


 夜明け前。


 三人は、中継町グレイザを見下ろせる丘へたどり着いた。


 町は石壁に囲まれている。

 王国の町よりも無骨で、窓は小さく、建物の色も暗い。

 門の上では帝国兵が槍を持ち、黒赤の旗が朝の風に揺れていた。


 町の外には、すでに列ができていた。


 荷馬車。

 商人。

 労働者。

 旅人。

 兵士。


 そして、鎖で繋がれた人々。


 ナユの目が細くなる。


 鎖に繋がれた人々は、罪人には見えなかった。

 服は薄く、顔は疲れきっている。

 大人だけではない。

 子どももいた。


 帝国兵が怒鳴り、彼らを門の横へ並ばせている。


「……あれは」


 ナユの声が低くなった。


 セバスチャンが静かに答える。


「奴隷、あるいは移民労働者として扱われている者達でしょう」


 ミナの拳が固く握られる。


「密報にあった、魔力搾取の対象ですか」


「可能性がございます」


 ナユの胸が冷えた。


 進藤海が送ってくれた言葉。

 奴隷・移民の魔力搾取。

 それは遠い情報ではなかった。


 目の前にある。


 助けたい。


 今すぐ止めたい。


 けれど、ここで動けば潜入は終わる。

 進藤海を助けられない。

 帝国の奥にあるものへ届かない。

 ロスルドの行方も、人型起動兵器の情報も掴めない。


『ナユ』


(分かってる)


 ナユは心の中で答えた。


(今は、進藤さんを助けるのが先)


 ミナがナユを見る。

 セバスチャンも静かに待っている。


 ナユは深く息を吸った。


「町に入ります」


 声は小さい。

 けれど、震えていなかった。


「進藤さんを助けるために、今は見つからないように進むよ」


「承知しました」


 ミナが深く頭を下げる。


「お嬢様のご判断に従います」


 セバスチャンも一礼した。


「では、列へ紛れましょう」


 三人は朝の人波へ入った。


 ナユはフードを深く被り、病弱な娘として目を伏せる。

 ミナは荷物を持ち、護衛兼侍女として半歩後ろに立つ。

 セバスチャンは老従者として、商人札と旅券を手にしていた。


 列が進む。


 帝国兵の声が近づく。


「次」


 前の商人が通される。


「次」


 荷馬車が調べられる。


「次」


 鎖に繋がれた者達が、別の門へ回される。


 ナユは視線を上げそうになり、必死に堪えた。


 今は見ない。

 今は動かない。

 覚えておく。

 忘れない。


 やがて、帝国兵が三人の前に立った。


「身分証を出せ」


 セバスチャンが、穏やかに頭を下げる。


「はい。こちらにございます」


 老従者の顔で。

 何も知らぬ旅人の声で。

 セバスチャンは偽の札を差し出した。


 帝国兵は札を受け取り、じろりと三人を見る。


「娘はどうした」


「長旅で体調を崩しております。帝都方面に薬の伝手がありまして、急ぎ向かっております」


「顔を上げろ」


 兵士の声がナユへ向けられる。


 ナユはゆっくりと顔を上げた。


 青白く見える頬。

 伏せ気味の目。

 弱く見える呼吸。


 帝国兵は少し眉をひそめた。


「本当に病人か」


 ミナの気配が、わずかに鋭くなる。


 ナユは気づいた。

 セバスチャンも気づいた。


 だが、セバスチャンは変わらない。


「はい。無理をさせておりますので、早く宿へ入れたいのです」


 兵士は舌打ちした。


「面倒を起こすなよ」


「もちろんでございます」


 札が返される。


「通れ」


 その一言で、門が開いた。


 ナユは息を殺したまま、ゆっくりと歩き出す。

 ミナが隣に寄り、セバスチャンが後ろから静かに続いた。


 石壁の内側へ入った瞬間、空気が変わる。


 帝国の町。


 グレイザ。


 無骨な石造りの建物。

 細い路地。

 兵士の多い通り。

 市場の端に積まれた鉄鎖。

 そして、どこかから漂う、焦げた魔力の匂い。


 ナユはフードの奥で、通信具を握った。


 進藤海は、この国のさらに奥にいる。


 ロスルドも、どこかにいる。


 人型起動兵器の情報も、この帝国の中にある。


 ここから先は、すべて敵地だった。


 ナユは小さく息を吸った。


 帝国潜入は、ここから本当に始まる。



「今日の記録:国境の古い排水路を抜けて、帝国領へ入りました。セバスチャンが罠と警報を避け、ミナが崩れかけた通路を支えてくれました。帝国側の空気は重く、中継町グレイザの前では鎖に繋がれた人達を見ました。密報にあった奴隷や移民の魔力搾取が、本当にあるのかもしれません。今すぐ助けたいと思いました。でも、今の最優先は進藤さんの救出です。私達は偽装して、グレイザの中へ入りました。ここからが本当の帝国潜入です。日報完了」

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