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第394話《三影》

 迷宮都市ナユタを出て、六日目。


 ナユ達は、王国の正式街道を外れた山道を進んでいた。


 本来、ナユタから帝国首都までは遠い。

 正式な街道を使えば、二十五日から三十日。

 商隊や馬車を乗り継いでも、二十日前後はかかる距離だった。


 無理に強行すれば、もっと早く進むことはできる。

 だが、帝国へ着いた時点で疲れきっていては意味がない。

 進藤海を助けるために帝国へ潜入するのなら、到着した時に動ける余力を残しておかなければならなかった。


 だから、ナユ達は正式な道を使っていない。


 セバスチャンが選んだのは、かつて王国の暗部が使っていた密行ルートだった。

 廃村。

 使われなくなった山道。

 商人達も避ける古い峠道。

 森の中に残された見張り小屋。

 そうした場所を繋ぎながら、三人は帝国領へ近づいていた。


 この道なら、帝国首都近郊まで十日から十四日ほどで届く。

 危険はある。

 道も悪い。

 だが、人目は少なく、検問も避けられる。


 セバスチャンがいなければ、選べない道だった。


 同行しているのは、ナユ、ミナ、セバスチャンの三人だけ。


 馬車もない。

 護衛団もない。

 王国の旗もない。

 あるのは、旅人に偽装した服と、必要最低限の荷物だけだった。


 ナユは外套のフードを深く被っている。

 ミナも目立たない旅装に着替え、武器は布に包んで荷物に見せていた。

 セバスチャンは、ただの老従者にしか見えない姿をしている。


 だが、その歩き方は静かだった。

 足音がほとんどしない。

 落ち葉を踏んでも、枝を避けても、気配が乱れない。


 ミナは、その背中を見ながら小さく息を吐いた。


「セバスチャン様。この道を、よく覚えていらっしゃいますね」


「昔の知識でございます」


 セバスチャンは穏やかに答えた。


「今では使う者も少なくなりましたが、道というものは、完全には消えません。人が忘れても、石の置き方、木の切り方、水場の位置が覚えております」


 ナユは少しだけ彼を見る。


 王都の下水道。

 隠し通路。

 今回の密行ルート。

 セバスチャンは、普通の執事では知らないことをいくつも知っている。


 けれど、今は深く聞かなかった。


 聞くより先に、進まなければならない。


 ナユは胸元の通信具へ手を当てた。


 進藤海から届いた密報。

 ミアズマ。

 異世界召喚。

 奴隷と移民の魔力搾取。

 召喚者操作の呪い。

 SS級召喚計画。

 人形機動兵器。

 帝国首脳部関与。


 どれも危険だった。

 だが、今一番大事なのは進藤海の救出だった。


 ナユは歩きながら、静かに言った。


「目的を確認します」


 ミナがすぐに姿勢を正した。


「はい」


 セバスチャンも歩調を変えずに頷く。


「お願いいたします」


「一番の目的は、進藤さんを助けることです」


 ナユははっきりと言った。


「帝国の情報を集めることも大事です。ロスルドの行方も追わなければいけません。人型起動兵器のことも放っておけません。でも、最初に助けるのは進藤さんです」


「承知しました」


 ミナは迷わず答えた。


「進藤海様の救出を最優先。その上で、ロスルドの痕跡を追い、可能であれば帝国の兵器情報を回収する。そういう順番ですね」


「はい」


 ナユは頷いた。


 セバスチャンが静かに口を開く。


「優先順位が明確であれば、潜入中の判断が早くなります。救出、離脱、情報回収。すべてを同時に満たそうとすれば、かえって全てを失います」


「だから、進藤さんを助けるのが先」


 ミナが拳を握る。


「ナユ様。どのような状況であっても、私はあなたをお守りします。ですが、どうか無理だけはなさらないでください」


 ナユはミナを見る。


「ミナもだよ。無理しすぎないで」


「承知しています。ですが、ナユ様を危険な場所へお一人で向かわせるわけにはいきません。私をお連れいただいた以上、必ずお役に立ちます」


 その声には、静かな敬意と覚悟があった。


 ナユは少しだけ表情を緩めた。


「頼りにしてる」


「はい」


 ミナは深く頷いた。


 昼を過ぎる頃、道はさらに細くなった。


 山の斜面を削ったような古い道だった。

 片側は森。

 もう片側は低い崖。

 足元には崩れた石が多く、普通の馬車ではとても通れない。


 ナユは歩きながら、セバスチャンの背中を見た。


 老執事はいつも通りに見える。

 だが、坂を上りきった時、ほんの一瞬だけ呼吸が乱れた。


 すぐに整える。

 背筋も崩さない。

 表情も変えない。


 けれど、ミナは気づいていた。


「セバスチャン様」


「何か」


「少し休みませんか」


「問題ございません」


 即答だった。


 ミナは視線を細める。


「問題がない人は、そう早く答えません」


 セバスチャンは、わずかに目を伏せた。


 ナユも足を止める。


「休みましょう。少しだけ」


「お嬢様。時間は」


「進藤さんを助けるためにも、着いた時に動けないと意味がないって、言ってましたよね?」


 セバスチャンは、静かに頭を下げる。


「……仰せのままに」


 三人は、森の中にある古い見張り小屋で休むことにした。


 屋根は半分落ちている。

 壁にも隙間がある。

 だが、外からは見えにくく、少し休むには十分だった。


 ミナが周囲を確認する。

 ナユは水を出し、簡単な食事を用意した。

 セバスチャンは腰を下ろしたが、それでも姿勢は崩さない。


「本当に、無理しないように」


 ナユが言う。


 セバスチャンは柔らかく微笑んだ。


「ご心配をおかけして申し訳ございません。老いとは、なかなか厄介なものでございますな」


 軽い調子だった。

 だが、ナユにはそれが冗談だけではないと分かった。


 王都でも、セバスチャンは少しずつ無理をしていた。

 誰よりも静かに動き、誰よりも確実に道を開いてくれた。

 けれど、その体は若くない。


 今回の潜入で、セバスチャンの力は必要だった。

 それでも、頼りきってはいけない。


 ナユはそう思った。


『セバスチャンの心拍と呼吸に乱れを確認。ただし、危険域ではありません』


(分かった。見ていて)


『了解しました』


 短い休憩の後、三人は再び歩き出した。


 夕方になる頃、森が途切れた。


 その先に、低い丘があった。

 セバスチャンが手で合図を出し、三人は身を低くして丘の上へ進む。


 丘の向こうに、国境が見えた。


 高い城壁ではない。

 だが、木と石で作られた監視柵があり、遠くには帝国の監視塔が立っている。

 塔の上には、黒と赤の旗が揺れていた。


 帝国の旗だった。


 ナユは息を呑む。


 ここから先は、もう王国ではない。

 帝国の影が伸びる場所だった。


 セバスチャンが低く言う。


「正面の検問は使いません。あれは商人と旅人を調べるための表口でございます」


「別の道があるの?」


「ございます。ただし、良い道ではありません」


 セバスチャンは、監視塔から少し離れた森の奥を指した。


「あの先に、古い排水路がございます。元は国境砦の水抜き用ですが、現在はほとんど使われておりません。人一人が通るのがやっとの狭さですが、そこから帝国側の林へ出られます」


 ミナが確認するように問う。


「罠は?」


「古いものならございます。新しいものが追加されている可能性も否定できません」


「見張りは?」


「巡回が一組。ですが、時間は読めます」


 セバスチャンの声は淡々としている。


 ナユは、彼がただ道を知っているだけではないことを改めて感じた。

 人の動き。

 見張りの癖。

 検問の死角。

 そういうものを読む目がある。


 セバスチャンがいなければ、ここまで来るだけでもっと時間がかかっていた。

 そして、ここから先へ入ることも難しかった。


「セバスチャン」


「はい」


「ありがとう」


 セバスチャンは少しだけ驚いたように目を細めた。

 それから、穏やかに微笑む。


「勿体なきお言葉でございます」


 日が落ちるまで、三人は丘の陰で待った。


 空が赤から紫へ変わる。

 監視塔の灯りが一つ、また一つと点く。

 遠くで帝国兵の声が聞こえた。


 ミナは身を低くしたまま、静かに呼吸を整えている。

 セバスチャンは懐から細い針のような道具を取り出し、古い鍵束を確認していた。

 ナユはフードを握りしめ、胸の奥で進藤海のことを思った。


 海は、帝国の中にいる。

 拘束されているかもしれない。

 傷ついているかもしれない。

 それでも、情報を送ってくれた。


 なら、今度はナユが行く番だった。


 夜が降りた。


 セバスチャンが静かに立ち上がる。


「参りましょう。ここから先は、足音一つが命取りになります」


 ナユとミナは頷いた。


 三つの影が、丘の上から滑るように森へ降りる。


 王国の光を背にして。

 帝国の闇へ向かって。


 三人だけの潜入が、静かに始まった。



「今日の記録:ナユタを出て六日目、帝国の国境近くまで来ました。普通に街道を使えば二十五日から三十日、商隊や馬車でも二十日前後かかる距離ですが、セバスチャンの密行ルートのおかげで、かなり早くここまで来られました。正式な道は使いません。目的は、まず進藤さんを助けることです。次にロスルドの行方を追うこと。そして、帝国の人型起動兵器の情報を得ることです。行くのは私、ミナ、セバスチャンの三人だけ。今夜、帝国領へ入ります。日報完了」

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