第393話《密報》
帝国地下通路。
進藤海は、通路の中央で足を止めていた。
正面には、操作の呪いに縛られた異世界召喚者。
背後には、帝国首脳部が集まっていた会議室へ続く扉。
左右には、黒い金属を埋め込まれた石壁が続いている。
逃げるには遅く、戦うには目立ちすぎる。
だから、海は勝つことを捨てた。
届けることだけを選んだ。
記録板の裏には、小さな通信具が埋め込まれている。
帝国式ではない。
ナユ側から渡された、簡易の連絡用魔道具だった。
長文は送れない。
細かい状況説明も無理だ。
だが、単語なら送れる。
ナユなら分かる。
あの子なら、危険な言葉だけで全体を繋げる。
海は、召喚者の男から目を逸らさずに指先だけを動かした。
ミアズマ。
異世界召喚。
奴隷・移民の魔力搾取。
召喚者操作の呪い。
SS級召喚計画。
人形機動兵器。
帝国首脳部関与。
文字ではない。
音でもない。
短い魔力信号として、通信具の奥へ刻んでいく。
男の瞳の黒い紋が、濃くなった。
「進藤。何をしている」
海は肩をすくめた。
「何もしてねぇよ。見て分かるだろ。しがない文官だ」
「嘘だ」
「失礼な奴だな」
軽口を叩きながら、最後の信号を押し込む。
送信。
通信具の奥で、小さな光が走った。
届いたか。
まだ分からない。
だが、送った。
それだけで、状況は変わった。
男が動いた。
速い。
帝国兵とは比べ物にならない。
同じ異世界召喚者。
しかも、呪いによって恐怖や迷いを削られている。
正面から来る拳に、海は記録板を投げた。
ただの板ではない。
帝国式の薄い金属を仕込んだ、文官用の防護記録板だ。
拳とぶつかった瞬間、記録板がひしゃげる。
海はその陰で半歩ずれた。
紙一重。
拳が頬の横を通り過ぎ、左の石壁に叩き込まれる。
石壁が割れ、低い音が通路に響いた。
これ以上、音を出すのはまずい。
背後の会議室まで届く。
いや。
もう届いたかもしれない。
海は男の手首を取った。
捻る。
崩す。
倒す。
本気なら、それで終わる。
だが、折らない。
殺さない。
派手な魔力も出さない。
必要なのは突破だけだ。
「悪いな。眠ってろ」
低く言い、海は男の首筋を狙う。
その直前、男の瞳の紋がさらに黒く燃えた。
身体が不自然に跳ねる。
関節を無視した動きで、男の膝が海の腹へ飛んできた。
「っ……!」
海は受けた。
重い。
だが、耐えられないほどではない。
問題は威力ではない。
この動きだ。
本人の身体を壊す前提で動かしている。
帝国は、召喚者すら道具として使っている。
海の目が、ほんのわずかに細くなった。
「胸糞悪いな」
その声から、軽さが消えた。
背後の会議室へ続く扉が、重く開いた。
その音だけで、通路の空気が変わる。
熱が来た。
火ではない。
ただの魔力でもない。
もっと重く、もっと濁った、戦場の底に沈むような熱だった。
「誰が帰っていいと言った?」
低い声。
聞いた瞬間、海の背筋に嫌なものが走る。
振り返るより早く、赤黒い炎が視界の端で揺れた。
魔炎気。
その言葉を理解した瞬間には、もう遅かった。
将軍グラッドの蹴りが、海の腹へ突き刺さっていた。
「が……っ!」
衝撃が、身体の奥で爆ぜた。
ただの蹴りではない。
骨を砕く力。
内臓を揺らす衝撃。
そして、魔力の流れそのものを焼き乱す魔炎気。
海の身体が、横の石壁へ叩きつけられた。
石壁が割れる。
背中から肺の空気が抜ける。
金色の光が、指先に滲みかける。
だが、形にならない。
魔炎気が体内を這い、魔力循環を焼き潰すように乱していた。
「……っ、てめぇ……」
海は膝をつく。
倒れない。
だが、立ち上がれない。
グラッドは、つまらなそうに見下ろした。
「勇者様か。昔は少しは使えたらしいが、潜入などという小細工を覚えると鈍るものだな」
海は血の混じった息を吐いた。
言い返さない。
言い返す必要はなかった。
通信具の光は、もう消えている。
消えたということは、飛んだということだ。
少なくとも、送信は完了している。
監査官が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
銀の仮面の奥で、目が細くなる。
通信具を拾い上げる。
確認する。
そして、静かに告げた。
「……送信痕があります」
グラッドの視線が、海へ落ちた。
「無駄な真似をしたな」
魔炎気を纏った足が、海の背を踏みつける。
「どこへ届いたところで、貴様はここで終わりだ」
海は答えなかった。
ただ、血の混じった息を吐きながら、口元だけで笑った。
届いた。
それだけで、十分だった。
監査官が手を上げる。
「進藤海。帝国への背信、並びに機密情報漏洩の疑いにより拘束します。殺してはなりません」
兵達が動く。
鎖が伸びる。
腕に絡む。
肩に食い込む。
魔力を封じる冷たい感覚が、身体の奥へ流れ込んでくる。
海の指先に、金色の光が一瞬だけ滲む。
だが、すぐに消えた。
ここで全力は出さない。
まだだ。
まだ、その時ではない。
グラッドが鼻を鳴らす。
「連れて行け。ガレオスが喜ぶ」
海は鎖に縛られたまま、顔を伏せた。
勝ったわけではない。
逃げられたわけでもない。
捕まった。
最悪だ。
だが。
情報は、ナユへ飛んだ。
それだけで、まだ終わりではなかった。
◆
迷宮都市ナユタ。
アニスがナユタへ来てから、街は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
表向き、アニシア・ユラ・アンダルシアンは辺境幽閉中の身である。
だが、実際には療養と保護に近い。
ナユタの住人達も、彼女を奇異の目で見ることは少なかった。
ナユは、その日もアニスの屋敷を訪れていた。
アニスは寝台の上で、薄い本を開いている。
まだ長く歩くことはできない。
けれど、少しずつ起きていられる時間は伸びていた。
「無理してない?」
ナユが尋ねる。
アニスは本を閉じ、柔らかく微笑んだ。
「今日は本を三頁読みましたわ」
「三頁」
「ええ。昨日は二頁でしたから、進歩です」
ナユは少し笑った。
「じゃあ、今日はもう休もう」
「厳しいですわね」
「療養中だから」
「はい。ナユ先生」
からかうような声だった。
それだけで、ナユは少し安心した。
アニスはまだ弱っている。
けれど、戻ってきている。
少しずつ、自分の声で話せるようになっている。
リリエラも部屋の隅で静かに控えていた。
その表情は厳しいままだが、王都にいた頃よりも少しだけ穏やかだった。
ナユが部屋を出ると、セバスチャンが廊下で待っていた。
「お嬢様。執務室に、ナユタ側の報告が届いております」
「分かりました。すぐに行きます」
ナユは頷いた。
王都クーデターは終わった。
アニスもナユタに来た。
けれど、ナユタの仕事がなくなるわけではない。
街の管理。
警備。
物資。
診療所。
アニスの療養体制。
王国側との連絡。
やることは山ほどあった。
ナユは執務室に入り、机の上の書類を確認しようとした。
その時だった。
胸元の通信具が、小さく震えた。
ナユの動きが止まる。
「……進藤さん?」
通信具に淡い光が浮かぶ。
文字ではない。
声でもない。
けれど、意味だけが流れ込んでくる。
ミアズマ。
異世界召喚。
奴隷・移民の魔力搾取。
召喚者操作の呪い。
SS級召喚計画。
人形機動兵器。
帝国首脳部関与。
ナユの表情が変わった。
さっきまでアニスに向けていた柔らかい顔ではない。
戦場で黒い核を見上げた時のような、静かで鋭い顔だった。
『緊急通信を受信。送信者、進藤海。内容は断片的ですが、危険度は極めて高いと判断します』
ミラの声が響く。
ナユは、通信具を両手で包んだ。
「進藤さんは?」
短く問う。
返事はない。
通信は、そこで途切れていた。
ナユの指に、ぎゅっと力が入る。
セバスチャンが目を細める。
「お嬢様」
「進藤さんから、密報が届きました。でも、途中で切れました」
ミナが廊下の向こうから姿を現した。
ただならぬ空気を察したのだろう。
表情はすでに戦う者のものになっている。
「何があったの?」
「帝国です」
ナユは言った。
「進藤さんは、帝国の中で危険な情報を掴んだ。たぶん、今は危ない」
部屋の空気が重くなる。
窓の外では、ナユタの人々が普段通りに歩いている。
市場では声が上がり、子ども達が走り、遠くの診療所では人が出入りしている。
ここを守った。
アニスも戻ってきた。
王都の長い夜も終わった。
けれど、終わっていない。
帝国は、まだ動いている。
そして今、進藤海がその闇の中にいる。
「ミラ。受信内容を記録して。解析を始めて」
『了解しました』
ナユの淡い琥珀色の瞳に、強い光が宿る。
「進藤さんを、助けに行く」
セバスチャンは、静かに一礼した。
「ならば、大人数で動くべきではございません。帝国中枢への潜入となれば、必要なのは数ではなく、隠密性と即応力です」
ミナが拳を握る。
「私も参ります」
ナユはミナを見る。
「危険だよ」
「承知しています。ですが、ナユ様を危険な場所へお一人で向かわせるわけにはいきません」
ミナの声は静かだった。
けれど、そこには一切の迷いがなかった。
「私をお連れください。必ず、お役に立ちます」
セバスチャンも続ける。
「帝国への潜入には、裏道、偽装、情報の扱い、離脱経路の確保が必要になります。老骨ではございますが、多少の心得はございます」
ナユはセバスチャンを見た。
多少。
その言葉で済ませるには、セバスチャンの気配は静かすぎた。
王都の下水道で見せた知識。
影のような動き。
そして、時折見える衰えを隠す背筋。
彼が必要だと、ナユにも分かった。
「行くのは、三人だけ」
ナユは静かに言った。
「私、ミナ、セバスチャン」
ミナが頷く。
セバスチャンも深く頭を下げる。
他の皆を巻き込めば、戦力は増える。
けれど、目立つ。
動きが重くなる。
アニスを守る人も必要だ。
ナユタを空にするわけにもいかない。
だから、少数で行く。
ナユは通信具を握りしめた。
帝国の闇は、遠い場所で燃えている。
けれど、その火はもうナユタへ届き始めていた。
ならば、消しに行く。
進藤海を助けるために。
帝国の企みを止めるために。
ナユは、静かに息を吸った。
「帝国へ行きます」
◆
「今日の記録:進藤海さんから、帝国の危険な情報が届きました。ミアズマ、異世界召喚、操作の呪い、SS級召喚計画、人形機動兵器。どれも放っておけない内容でした。でも、通信は途中で途切れました。海さんは、たぶん帝国の中で危険な状況にあります。だから、助けに行きます。行くのは、私とミナとセバスチャンの三人だけです。少数で帝国へ潜入します。日報完了」




