第392話《禍脈》
帝国首都の地下には、地上の宮殿よりも冷たい部屋がある。
窓はない。
灯りは青白い魔導灯だけ。
壁には魔力を通す黒い金属が埋め込まれている。
床には巨大な術式陣が刻まれ、中央には黒い円卓が置かれていた。
その円卓の上に、いくつもの黒い点が浮かんでいる。
一つは、リカリーネ達がかつて救援に向かった街。
一つは、迷宮都市ナユタ付近の魔の森。
一つは、魔王国でザルギスが動いた地。
そして一つは、アルスハイム王国の王都、アンダルシアン公爵家。
どれも、すでに消えていた。
黒い点は霧のように揺れ、やがて薄くなり、跡形もなく消えていく。
会議室に、しばらく沈黙が落ちた。
「……消えたか。悉く失敗するな」
最初に口を開いたのは、帝国宰相アルハザードだった。
痩せた指先で机を叩きながら、細い目を術式盤へ向けている。
その隣で、魔炎気を操る将軍グラッドが鼻を鳴らした。
「街の小型個体。魔の森の成長個体。魔王国に撒いたザルギス。今度は王都の公爵令嬢。どれもこれも、最後で潰されているではないか」
「言い方を選びなさい、将軍」
会議卓の奥で、白い髭の老人が杖を鳴らした。
魔科学者ガレオス。
異世界召喚システムの生みの親。
そして、帝国の闇に根を張る数々の魔科学実験を進めてきた男だった。
「失敗ではありますが、無価値ではありません。街の小型ミアズマは、恐怖と混乱の拡散に一定の成果を示しました。魔の森の成長個体は、生命捕食による巨大化に成功しました。ザルギスの件も、死灰の毒系統の応用として有益な反応が取れております」
グラッドが低く唸る。
「結果として、どれも消された」
「ええ。そこが問題ですな」
ガレオスは、むしろ楽しげに術式盤を見つめた。
「特に魔の森の個体は、生命を喰らい、瘴気を集め、黒鯨型へ至っておりました。あれほど育ったミアズマが完全消滅したとなれば、相手側には相応の戦力か、異常な干渉手段が存在する」
ミアズマ。
瘴気を意味する名を与えられた、帝国の魔科学が生み出した怪物。
ただ殺すだけの魔物ではない。
命を喰らい、魔力を奪い、その一部を帝国の召喚炉へ戻すための回収装置でもある。
だが、魔の森で失われた個体から、魔力は戻らなかった。
喰わせた命ごと、消えた。
「王都の件はどう見る」
アルハザードが問う。
ガレオスは、術式盤に別の記録を映した。
アニシア・ユラ・アンダルシアン。
死灰の毒系統。
魂削減術式。
上位悪魔契約。
ロスルド・バルネス。
それらの文字が黒い線で結ばれ、途中でぷつりと断たれている。
「ロスルドからの報告では、公爵令嬢を通じた王都攪乱は失敗。死灰の毒系統は消失。魂削減術式は遮断。上位悪魔契約も断たれたとのことです」
グラッドが目を細めた。
「上位悪魔契約までか」
「ええ。通常の治癒でも、解呪でも説明がつきません。ロスルド自身も詳細は掴めておりません」
アルハザードは指を組んだ。
「ナユという小娘か」
その名が出た瞬間、円卓の空気がわずかに変わった。
王を癒やした赤子。
王国で幾度も異常事態に関わる少女。
魔の森に街を築いた存在。
そして、今回また帝国の仕掛けを潰した者。
帝国にとって、無視できない名前になりつつあった。
「ロスルドは、ナユタの監視強化を求めています」
「負け犬の遠吠えではないのか」
グラッドが吐き捨てる。
ガレオスは笑った。
「負け犬でも、鼻が利く犬は有用です。少なくとも、王都の件であの少女が危険であることは確かめられた」
会議室の端に控えていた監査官が、一歩前へ出た。
黒い外套をまとい、顔の半分を銀の仮面で覆っている。
「関連して、異世界召喚者の動向にも異常がございます」
アルハザードの目が細くなった。
「報告せよ」
「田城有人ですが、やはり生命力反応が消失しています。死亡と断定して差し支えないかと」
部屋の空気が、さらに冷えた。
田城有人。
帝国に協力していた異世界召喚者の一人。
召喚時に組み込まれた操作の呪いには、完全には屈しなかった。
それでも帝国のやり方を受け入れ、自らの意思で力を貸していた男だった。
「日村依子は」
「行方不明です。ただし、死亡反応は確認されておりません」
「進藤海は」
「同じく行方不明。こちらも死亡反応なし。追跡は困難です」
グラッドが舌打ちした。
「使える駒ほど勝手に動く」
監査官は頭を下げた。
「弱い心を持つ召喚者は、呪いにより制御可能です。しかし、強い自我を持つ者は完全支配に至りません。日村、進藤、田城の三名はその典型でした」
ガレオスは、そこで薄く笑みを浮かべる。
「だからこそ価値がある。弱い者は操れるが、強者には届かぬ。ならば、強者の心を折れる呪いへ改良すればよいのです」
円卓の最奥。
玉座のような席に座っていた男が、ゆっくりと顔を上げた。
帝国の王、シュバルト。
黒金の冠をかぶり、深紅の外套をまとった男。
その目には、人を人として見ていない冷たさがあった。
「異世界召喚の精度は、上がるのだな」
ガレオスは、恭しく頭を垂れる。
「もちろんでございます。魔力さえあれば、召喚対象の選定精度はさらに高められます。現状、召喚者の戦力はおおよそAクラス冒険者に匹敵しますが、理論上はさらに上を狙えます」
「SSクラス以上」
シュバルトが言った。
その一言で、部屋の空気が変わる。
「王国アルスハイム。魔族領の魔王と四天王。そして、迷宮都市ナユタ。高ランクの冒険者達も厄介だ。Aクラス程度では足りぬ。もっと強い異世界人を喚べ」
シュバルトの声は静かだった。
だが、その静けさの奥には底の見えない欲望がある。
「そして、その意思を完全に操作できるようにせよ」
「御意。召喚式と呪詛制御式を並行して改良いたします」
ガレオスの口元が、ゆっくりと歪んだ。
アルハザードが指を組む。
「奴隷と移民の魔力搾取は続ける。表向きは労役、実態は召喚炉への供給。反乱の兆しがあれば、ミアズマを処理に使えばいい」
グラッドが、獣のように笑った。
「喰わせた命も燃料になる。実に無駄がない」
その言葉に、誰も眉をひそめなかった。
魔科学者ガレオス。
邪なる帝国の宰相アルハザード。
魔炎気を操る将軍グラッド。
帝国の王シュバルト。
誰も、命を命として見ていない。
彼らにとって人は、兵であり、素材であり、燃料であり、数字だった。
グラッドが思い出したようにガレオスへ目を向ける。
「ところで、例の人形機動兵器はどうなっている。あれが実戦投入できれば、召喚者に頼る数も減らせるだろう」
「まだまだですな。魔導神経の同期に問題が残っております。自律制御、搭乗制御、遠隔制御、どの方式も完成には至っておりません」
「時間は」
「最低でも数年はいただきたい」
グラッドの眉が動く。
「遅い」
「急げば壊れます。壊れるだけならよろしいが、暴走すれば都の一区画が消えるでしょうな」
アルハザードが低く笑う。
「ならば都ではなく、属州で試せ」
「それも一案です」
ガレオスは当然のように頷いた。
その場にいる誰も、属州の民を思わない。
実験場。
燃料。
素材。
帝国の外にあるものは、すべてその程度だった。
会議室の壁際。
一人の下級文官が、記録板を抱えて立っていた。
顔を伏せ、呼吸を浅くし、存在感を消している。
誰も気に留めない。
ただの書記。
ただの雑用。
だが、その指先は記録板の裏でわずかに震えていた。
進藤海だった。
今は別の名を使い、帝国の下級役人として潜り込んでいる。
ナユの願いを受け、帝国の内部を探るために。
海は奥歯を噛みしめた。
ミアズマ。
異世界召喚。
操作の呪い。
奴隷と移民の魔力搾取。
魔力回収の仕組み。
人形機動兵器。
そして、SSクラス以上の異世界召喚者。
どれも危険すぎる。
どれか一つでも放置すれば、王国も、魔族領も、迷宮都市ナユタも巻き込まれる。
早く伝えなければならない。
ナユに。
あの小さな少女に。
この帝国が何をしようとしているのかを。
会議が終わり、首脳達が席を立つ。
海は他の文官達に紛れ、静かに部屋を出た。
足音を乱さない。
視線を上げない。
急がない。
急いでいると悟られてはいけない。
角を曲がる。
人気のない通路へ入る。
そこで、ようやく息を吐いた。
「……まずいな」
小さく呟く。
この情報は、すぐに送らなければならない。
ナユなら、きっと動く。
いや、動いてしまう。
だからこそ、正確に伝えなければならない。
海は懐へ手を入れ、通信具へ触れようとした。
その時だった。
「どこへ行くんだ、進藤」
背筋が冷えた。
ゆっくりと顔を上げる。
通路の先に、一人の男が立っていた。
帝国兵の服ではない。
文官でもない。
見覚えのある、日本人の顔。
異世界召喚者だった。
その瞳の奥には、薄黒い紋が浮かんでいる。
操作の呪い。
完全ではない。
けれど、深く食い込んでいる。
男は、笑っていなかった。
ただ命令を受けた人形のように、通路を塞いでいる。
海は通信具から手を離した。
静かに息を整える。
逃げ道は、後ろ。
前には召喚者。
そして、背後には帝国首脳部がいる。
最悪に近い状況だった。
それでも、海は目を逸らさない。
「悪いな。急ぎの用があるんだ」
男の瞳に、黒い紋が濃く浮かぶ。
「命令だ。お前を通すなと言われている」
海は、胸の奥で舌打ちした。
情報はまだ届いていない。
ナユは、まだ知らない。
王都クーデターの奥にあった禍の脈は、ここに繋がっていた。
街の異変も、魔の森の怪物も、魔王国のザルギスも、アニシアを壊した毒も、すべて別々の災いではなかった。
帝国の闇は、まだ動いている。
そしてその闇が、今、進藤海の前に立ちはだかっていた。




