第391話《光影》
アニスがナユタに来た日の夜。
街は静かになっていた。
昼間は人の声があちこちから聞こえていた大通りも、今は灯りだけがぽつぽつと残っている。
アニスは用意された屋敷で休んでいる。
リリエラと使用人達も近くに控え、ナユタ側の警備も配置されていた。
ナユは、自分の部屋で椅子に座っていた。
机の上には、今日の案内で使った簡単な地図が広げられている。
アニスが興味を示した場所には、小さな印がつけられていた。
図書室。
診療所。
市場。
見晴らし台。
その印を見ながら、ナユは少しだけ微笑んだ。
「アニス、少し笑ってくれたね」
『はい。表情筋の緊張、呼吸の乱れ、魔力反応の揺れから見ても、自然な笑みと判断できます』
「そこまで解析しなくてもいいよ」
『必要な確認です』
ミラの声はいつも通り冷静だった。
けれど、どこか少しだけ柔らかい気がした。
ナユは椅子の背にもたれた。
その瞬間、体の奥に重い痛みが走った。
思わず息が詰まる。
指先が震え、机の上の地図がかすかに揺れた。
『ナユ』
「大丈夫」
『大丈夫ではありません』
ミラの声が、少しだけ低くなる。
『第八階梯の発動反動が残存しています。加えて、《真願》発動時に能力定義を再構築した影響で、魔力回路と魂核周辺に負荷が残っています』
ナユは右手を見た。
手のひらに傷はない。
けれど、内側が熱い。
光の剣を握った記憶が、まだそこに残っているようだった。
「アニスを助けるためだったから」
『それは否定しません。ですが、負荷は負荷です』
「うん」
ナユは素直に頷いた。
「ミラ。確認しておきたいんだけど、《願い》は、もう使えないの?」
『旧《願い》としては使用できません。ただし、《願い》そのものが消失したわけではありません』
ナユの胸が、少しだけ詰まる。
『《願い》はナユタシステムによって再定義され、エクシードスキル《真願》へ置換されています』
「置き換わった」
『はい。神授汎用権能としての《願い》ではなく、ナユ個人に最適化された権能として再構築されました』
ナユは目を閉じた。
神様からもらった力。
何度も使ってきた力。
それが、アニスを助けるために変わった。
「じゃあ、《真願》は使えるんだね」
『使用可能です。ただし、現在は発動直後の反動により安定しません。小規模な干渉であっても、しばらくは推奨できません』
「しばらくって、どれくらい?」
『現時点では不明です。魂核と魔力回路の安定を待つ必要があります』
ナユは小さく息を吐いた。
「《蓄願》は?」
『完全に消失しました』
その答えは、迷いがなかった。
『第一保存領域、第二保存領域、第三保存領域はすべて解体済みです。保存されていた三回分の《願い》は、《願い》本体の再構築素材として統合されました』
「もう、使わなかった分を取っておくことはできない?」
『できません。未使用分の保存機能は失われました』
ナユは机の上で指を組んだ。
今までなら、一日使わなかった《願い》を蓄えておけた。
大きなことをする時、その分だけ余裕があった。
けれど、その余裕はもうない。
アニスを取り戻すために、使い切った。
ナユは後悔していなかった。
「いいよ」
『ナユ』
「アニスが戻ってきたから。だから、いい」
それは強がりではなかった。
本当にそう思っていた。
ミラは少しだけ沈黙した。
『《真願》は万能性を失っていません。ですが、性質は変化しています』
「どう変わったの?」
『ナユの意志、感情、願いの純度に強く影響されます。特に、魂、存在、呪毒、契約、術式、因果への干渉に高い適性を示します』
「人を助ける願いに強くなった?」
『その表現は概ね正しいです。ただし、助けたいという言葉だけでは不十分です。ナユ自身の意志が明確でなければ、効果は大きく低下します』
ナユはアニスのことを思い出した。
返して。
アニスを返して。
あの時の願いには、迷いがなかった。
だから届いた。
「便利に使う力じゃなくなったのかな」
『旧《願い》のような物資取得や状況補助も、理論上は不可能ではありません。しかし、《真願》の本質から外れる用途では、効率が落ちる可能性があります』
「つまり、本当に願うことに使う力」
『はい』
ナユは窓の外を見た。
夜のナユタは静かだった。
だが、その静けさの中に、たくさんの人の眠りがある。
アニスも、その中で眠っている。
「《レイ・カリバー》は?」
『光属性第八階梯魔法として記録しました。現時点でナユが到達した最高階梯です』
「もう一回使える?」
『推奨しません』
即答だった。
「そんなに?」
『肉体、魔力回路、精神負荷の三点で危険です。今回の発動は、怒り、喪失恐怖、守護衝動、闘気、竜言語魔法、光属性魔法が一時的に噛み合った結果です。再現は可能ですが、制御できなければナユ自身にも周囲にも被害が出ます』
ナユは手のひらを握った。
あの時、自分は本気で悪魔を斬ろうとした。
消し飛ばすつもりだった。
アニスを傷つけたものを、全部壊したかった。
あの光は、きれいなだけの力ではない。
「光だけど、怖い力なんだね」
『光は救いにもなりますが、焼き尽くす力にもなります』
ナユは手のひらを見つめた。
アニスを救った光。
悪魔を斬った光。
同じ光なのに、そこには救いと破壊の両方があった。
「……ちゃんと、使えるようにならないと」
『はい。制御が必要です』
「アニスを助けるための力で、誰かを傷つけたくないから」
『その認識を保持してください』
ナユは小さく頷いた。
光は、誰かを照らす。
けれど、強すぎる光は影を生む。
救うための力も、使い方を間違えれば、誰かを傷つける。
ナユはそのことを、初めてはっきりと理解した。
「《真願》も、《レイ・カリバー》も、アニスを助けるために必要だった。でも、簡単に使っていい力じゃない」
『その認識で問題ありません』
「じゃあ、しばらくは休む。アニスも休ませる。私も、無理しない」
『推奨します』
ナユは頷いた。
その時、机の上の地図に視線が落ちた。
ナユタの印。
アニスがこれから暮らす場所。
自分を取り戻すための場所。
ナユは小さく呟いた。
「守るよ。今度は、ちゃんと」
窓の外で、夜風が揺れた。
◆
同じ頃。
王国の外れ、誰も使っていない古い礼拝堂の地下で、黒い水晶が淡く光っていた。
ロスルド・バルネスは、その前に立っていた。
王都から逃げ延びた彼の服に、乱れはない。
表情にも焦りはなかった。
ただ、目の奥には冷たい怒りが沈んでいる。
水晶の中には、いくつもの歪んだ線が浮かんでいた。
アルスハイム王都。
アンダルシアン公爵家。
アニシア・ユラ・アンダルシアン。
その名に繋がっていた黒い線は、すべて途中で断ち切られていた。
「死灰の毒系統、消失。魂削減術式、消失。上位悪魔契約、遮断」
ロスルドは淡々と呟いた。
「……実に忌々しい」
だが、その声には、どこか愉悦もあった。
「何をした。あの小娘は」
ロスルドは黒い水晶へ指を伸ばした。
水晶の表面には、乱れた術式の残りだけが映っている。
アニシアの魂を削るはずだった線は断たれていた。
悪魔へ繋がる契約の鎖も、途中から砕けていた。
毒の流れも、完全に止まっている。
残っているのは、強すぎる光属性魔法の痕跡だけだった。
「毒を消しただけではない。術式を断ち、契約まで切り離した。通常の治癒でも、解呪でもない」
ロスルドは小さく笑った。
「理屈が合わぬ。だが、結果だけは出ている」
彼は机の上に置かれた封書を手に取った。
封蝋には、帝国の紋が刻まれている。
王国を追われた彼を拾った者達。
そして、今もなお世界の裏で禍を育てる者達。
「王都の件は失敗した。だが、得られたものはある」
ロスルドは封書へ短い報告を書き込んだ。
アニシア実験、失敗。
死灰の毒系統、消失。
魂削減術式、遮断。
上位悪魔契約、遮断。
光属性第八階梯級の魔法痕跡、確認。
詳細不明。
最後に、彼は一行だけ加えた。
迷宮都市ナユタ、要監視。
ロスルドは封書を閉じた。
「ナユ。お前はまた、私の想定を越えた」
黒い鳥のような使い魔が、闇の中から現れる。
ロスルドは封書をその足に括りつけた。
「ならば次は、王国の内側ではない」
使い魔が羽ばたく。
「帝国の火種で、君を焼く」
黒い羽が、闇へ消えていった。
その火種がどこで燃えるのかを、ナユはまだ知らない。
◆
「今日の記録:《真願》について、ミラと確認しました。《願い》は消えたのではなく、《真願》に変わったそうです。でも、《蓄願》は完全になくなりました。もう使わなかった分を取っておくことはできません。《真願》は、私が本当に願うことに強く反応する力みたいです。《レイ・カリバー》も、今はもう一度使うのは危険だと言われました。アニスを助けるために得た力です。でも、簡単に使っていい力ではありません。しばらくは、アニスも私も休みます。日報完了」




